Chapter Seven: Under SeaUnder Sea

7-1

波が艦内を震わせた。重力がわずかに傾き、床が波のようにうねる。空母アオリーザは氷をかじるような北の風を裂き、進んでいた。

ブリッジの窓越しに見える海は闇に沈み、船体の反射灯が時折、泡立つ白波を浮かび上がらせる。

「落ち着いてお茶も飲めないわね」

シルヴィアが口元をほころばせ、傾いたティーカップをそっと支える。中の紅茶は微かに波立ち、縁を濡らして冷たい光を反射していた。

イリーナは無言のまま、同じ仕草で口に運ぶ。二人の顔には緊張ではなく、ただ静けさしかない。 ブリッジの窓際、拳を握りしめ、真っ暗な海を睨みつける。窓に拳をぶつけ、ひとつ、ふたつ──

「……まだか」

指先がかすかに震えていた。胸の奥で、エルの顔が浮かんでは消える。

「落ち着きなさい。必ず着くわ」

シルヴィアの声は柔らかいのに遠い。それなのに耳の奥まで響く。

突如、ブリッジのドアが開き、ゾラが駆け込んだ。

「イリーナ、プラントが見えたわよ。あと三十分!」

息を切らしながらも、彼女は楽しげに笑っていた。 イリーナが立ち上がる。

「準備に入れ」

沈んだ声がブリッジを震わせ、背筋が冷える。無意識に背筋を伸ばして、振り返ることなく駆け出し、ゾラの肩を弾いた。

ぶつけられたゾラが何か文句を言っているが、耳には入らなかった。

シルヴィアが紅茶を飲み干し、椅子を押しのけて立ち上がる。

「いよいよね、イリーナ」

ブーツの音が鋭く響き、私の後を追った。 外では波が船体を叩き、金属を軋ませていた。

格納庫は油と金属の匂いが濃く、ローターの下準備音が微かに唸っている。

黒光りする攻撃ヘリとカーキ色のタンデムローター。その前に整然と整列するヴォルフの兵士たち。

空気は張り詰め、誰も余計な言葉を発しなかった。

「遅いですよ、ミア」

ダリアが攻撃ヘリから顔を覗かせる。軽機関銃を抱えて笑みを浮かべた。それは無理をしているようでいて、どこか晴れやかだった。

「吹っ切れたのか」

「カリムを倒せば、一部は解決しますからね。クヨクヨしていられませんよ」

ヘリに乗り込みんでダリアの対面に座ると軽機関銃を渡された。銃は細部までしっかりと整備されており完璧な状態。その鉄塊はいつもよりも重く感じた。

「でも私たちに渡した衛星は戻らないけどね」

いつの間にか操縦席に乗り込んでいたゾラがヘルメットをかぶりながら挑発する。対してダリアは笑顔を崩さず、整備した銃身を指先で軽く叩いた。

「まぁ、直前で持ち直すのがあなたらしいわ。一時はどうなるかと思ったけど」

シルヴィアも軽く笑って乗り込んだ。 最後にイリーナが無言で助手席に座り、機内を一瞥する。

「準備はいいな」

全員が無言で頷く中、銃を握り締めた。眠っていないはずなのに、意識は異様に冴えている。鼓動、汗、呼吸、すべてが剥き出しに感じられる。

ダリアの喉元に垂れる汗の音すら聞こえそうだ。

――もう迷いはない。

イリーナの合図で、格納庫の天井が開き、氷片が降り注ぐ。 外は白。甲板は凍りつき、寒気が吹き抜ける。

ゾラがエンジンを起動、ヘリのメインローターが轟音を上げた。

「行け」

号令と同時に、二機のヘリが霧を裂いて飛び立った。 操縦席に身を乗り出す。

視界の遥か先にそれは見えた。

白波の中の黒い点。エルが、あの底にいる。触手に絡め取られ苦しんでいる――いや、痛みに堪える声すら奪われているかもしれない。

考えるだけで胃が捻じれ、拳が震えた。ゾラが私の顔を見て、口角を歪めると操縦桿を前に押し倒す。

「あいつらプラント消し飛ばしてないでしょうね」

彼女の冗談めいた声をかき消すように、空気が震えた。

――砲撃だ。耳の奥に響く重低音、焦げた肉と火薬の匂いが鼻腔を焼いた。心臓がひときわ強く脈打つ。

「もう近いぜ……」

唇が勝手に動いていた。自分の声に気付いたのは、生唾を飲み込んだ後だった

「えぇ、そうよ。気張りなさい」

シルヴィアが前方を凝視し、声を落とす。ダリアが助手席に顔を乗り出し、楽しげに笑った。

「この雰囲気……昔を思い出しますね、大佐。なんだかワクワクしてきましたよ」

次の瞬間、イリーナの裏拳がダリアの鼻を打った。

「これは遊びじゃない。戦争だ――人間同士血みどろの戦い。なぁ、シルヴィアよ」

イリーナの低い声に、シルヴィアが静かに微笑む。砲撃音が再び響く。今度は腹に響き、内臓を震わせた。

「もう、見えるわよ……あそこね!」

ゾラの声に合わせて息を呑んだ。ヴォルフ・ブラトフの戦艦群が火線を描き、連続的な砲撃を放っている。

触手――血のように赤く、艶めき、十本以上が生き物のようにうねっている。戦艦より高く伸び、地球の生態系から外れた異様な姿。

その中心に、赤黒く変色し、脈動する海上プラント――巨大な茹蛸の死骸を無理やり改造したような醜悪さだ。

「なによ!めちゃくちゃデカくなってるじゃない!キモ!!」

「…あれは特にグロいですね」

「タコみたいね。美味しくなさそうだけど」

誰かの軽口が震えた空気を一瞬だけ和らげる。触手は砲撃に叩き落とされるたび、新たなものが海面から生え出てプラントを覆う。

「行くわよ!」

ゾラが操縦桿を押し込み、ヘリが急降下した。触手がハエを落とすように振り上げられ、何本も襲い掛かってくる。

――轟音と衝撃。

機体が大きく揺れ、内臓が浮く。戦艦の砲撃が邪魔をする巨大な触手を次々と打ち倒し、二機のヘリはその隙をすり抜けた。

触手を抜けたとき、誰もが短く息を吐く。だが安堵する暇はない。

「え、あれなによ?」

前方の海面、小さな触手群が泡立つように集まっていた。前回ゾラが倒したサイズ――だが数が違う。数百、それ以上かもしれない。見ていると身体がむずがゆい。

「抜けられるか」

イリーナが問う。

「援護があれば。でも数が多いわ!」

イリーナは即座に機銃桿を握り、私とダリアもドアガンを構えた。

「……来るっ!!」

そう感じた瞬間、四方から触手が突っ込んできた。銃声が重なり、火薬の臭気が機内に満ちる。 近づく触手を銃撃でなぎ倒す。休みなく機銃を撃ち続ける。だが間髪入れずにヘリを叩き落そうとする触手。銃口は熱を帯び、腕に反動が残る。

――突然、引き金が軽くなった。

「――ッ!ジャムだ」

薬莢が噛み込む。血の気が引き、神経が凍りつく。触手が振りかぶっていたのが見えた。必死で空薬莢を排出しようとしたが汗で滑る指がもつれる。その瞬間、顔の横を銃撃音が掠め、突っ込んできた触手に穴が開く。

「こんなところで死ぬつもり?」

シルヴィアの声に我に返り、薬莢を引き抜いた。

「エルの目の前に来たのに、死ぬわけねえだろ!」

憎悪が血を沸かせる。エルも今、触手に捕らわれている――この忌々しい肉が、エルの身体と魂を貪っている。

歯を食いしばり、涙が滲んでも撃ち続けた。

ゾラが何か叫んだが聞こえなかった。触手が消えた後も叫び撃ち続け 、シルヴィアに止められた。

「もう、いないわ。続きはあの中よ」

シルヴィアの指差す先――海上プラント。いや、プラントという言葉ではもう足りない。巨大な赤黒く膨張した肉塊。

ビルや倉庫、道路の形が辛うじてわかるが、すべて脈打つ肉の膜で覆われ、血管のようなものが網目のように走っていた。

ひと呼吸ごとに、地面全体が蠢いているように見える。

嫌悪で胃がひっくり返りそうになる――が、目が離せなかった。

「……っ」

胸の奥で何かが焼けるように熱くなった。指先が痙攣し、銃のグリップを握り直す。ヘリがプラント上空に出た途端、肉の表面がうねり始めた。

無数の触手がゆっくりと起き上がり、こちらを向く。先端は槍のように尖り、ヌメった体液を滴らせている。

一斉に向けられるカタツムリの“目”に似た感覚に、背筋がゾワリと総毛立った。息が浅くなる。心臓が早鐘を打つ。

「ここじゃ降りられないだろ!」

ダリアの叫びが、やけに遠く聞こえる。

「見ればわかるわよ。探してるから黙ってなさい、このはんちく!」

ゾラの怒鳴り声が甲高く響き、現実に引き戻される。目を凝らす。どこもかしこも肉に覆われ、赤黒い粘膜の光沢が照り返す。

だが――一点だけ。コンクリートの灰色がうっすらと残る広場が目に入った。

「あそこだ、突っ込め!」

その声に舌打ちするゾラ。そしてヘリは、唯一の隙間へ――獲物に飛び掛かる鷹のように急降下した。

重力が一気に肩にのしかかり、内臓が押し下げられる感覚。胃の奥がひっくり返り、歯が噛み鳴るほど強張った。

手のひらは汗で濡れて手すりから滑りそうになる。握り直した瞬間、肩の筋肉に針が通る感覚。腕全体が痺れた。

「着地するわよ!」

ゾラの声が、遠く響くように感じられた。耳の奥で自分の鼓動だけがやけに鮮明だ。

正面には地面。

衝撃。機体が地面に叩きつけられ、シートベルト越しに背骨が軋む。視界が白く弾け、一瞬だけ息が止まる。

窓に何かがベチャリと張り付き、赤黒い肉片が機体から流れ落ちるのが見えた。

ドアがスライドした途端、腐った肉の悪臭が肺を蹂躙した。喉が焼ける。吐き気を押し殺しながら、奥歯を噛んだ。

全身の毛穴が開き、皮膚が寒気で粟立つ。

「今行くからな、エル」

声は震えていたが、引き金にかけた指は硬直し、離れなかった。

ふらつく足を地面へと踏み出す。心臓が胸郭を突き破りそうなほど暴れている。でも、止まれなかった。

エルが、あの奥にいる。

この足を止めたら、一生会えない――。

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