6-4

コンソメの香りに気づいて目を開けた。視界に広がるのは天井の薄汚れた模様と薄暗い照明。

いつの間にか眠っていたらしい。床で寝ていたはずだが、いつの間にかベッドの上だ。ブランケットまで掛けられていて、体がじわじわと温まっていた。

「……シルヴィアか」

寝返りを打つと隣のベッドでダリアが大の字で転がっているのが見えた。泣き腫らした跡が目の周りを赤く染めている。

身体を起こす。肩も腰も軽く、頭の靄も晴れている。何より一か月ぶりによく眠れた。ソファの前のローテーブルには二人分の湯気を立てるスープとパン、そしてミルク。

胃がスカスカだ。今は何より、何かを食べたい。ソファに座ると、食事の隣のメモ用紙。

見覚えのある達筆な文字で『昼に空母に乗り換えるから、それまではゆっくりしなさい。プラント到着は明日の朝』と書かれている。

指先で紙を撫でる。文字なのに温度がある――そう感じるのは、気のせいだろうか。

だが次の瞬間、胸の奥がきしむ。

明日の朝――そこでエルを取り戻す。急に頭の奥がもやに覆われて、現実感がない。

覚悟ができていないのか、それとも心がまだ拒んでいるのか。

両手で頬を叩いた。

だが僅かな痛みはあっても心は晴れない。だが、今は食べるしかない。そして血を作る。

パンを口に放り込む。美味い。三分も経たずに完食する。最後のスープを胃に流し込むと、自分の指先が震えているのに気づいた。

本当に助けられるのか?いや、それ以前に――私は、また彼女を傷つけるんじゃないのか?そんな問いが喉元まで込み上げ、言葉にならず消えた。

ダリアを起こさぬよう部屋を抜け出す。甲板に出ると見えるのは低く垂れ込む曇り空と海を覆う景色。鈍色の光が甲板を濡らして、冷たい風が頬に貼りつく髪を揺らした。

潮の匂いに、焦げたような煙の香りが微かに混じっている。鉄柵に寄りかかり、灰色の海を見つめた。視界はただ無限に続く水面だけ。そこに答えはない。

ただ名前だけが浮かぶ――エル。最後に抱きしめたときの、青い瞳と涙が鮮やかに甦る。あれが、別れだったのかもしれない――そんな考えが頭をかすめ、心臓を締め上げる。

「悩み事かしら? それともコートでも忘れたの?」

振り返ると、シルヴィアが立っていた。冷たい風を受けながらも、その立ち姿には一片の乱れもない。濃いルージュが朝の光に淡く映え、コートの裾がひらりと舞った。

「……助けられるのかな」

ヴォルフ・ブラトフが加わった。だが、エルは助けられるのか。 そう問いたかった。シルヴィアは隣に立ち、鉄柵に肘をついた。

「分からないわ」

短い答え。その言葉には、不思議と安心感があった。

「でも、行くんでしょう?」

答えず、手すりを強く握った。 指先に、鉄の冷たさがじわじわと染み込んでくる。

「行く……絶対に」

エルの笑顔――それだけを見たかった。シルヴィアが静かに微笑み、私の頭に手を置いた。

「怖いのは当たり前よ。大事なのは、それでも足を止めないこと」

彼女の声は低く、どこか母の声を思わせる。 頭に置かれた手のひらは、冷たいはずの指先が不思議と温かかった。

「エルを助けたい。それだけ」

「それで十分よ」

シルヴィアが微笑む。その笑顔の奥に、一瞬だけ過去の影がちらついた――覚悟の目だ。

そのとき、風が変わった。潮風に混じり、鋭い冷気が肺を刺す。背筋をなぞるような、ぞわりとした圧迫感。

「……空気が変わった。寒い」

シルヴィアが小さく呟く。

船の周囲に、白い霧がゆらりと湧き始めていた。海の向こう――何かが近づいている。

目を凝らした。その先には靄に覆われた白い塊。

「……あれは……氷山?」

白く、巨大で、静かに海を切り裂いている影。

「違うわ。動いてる」

ゆっくりと移動する――まるで船のように。

「空母よ。うちの“お化け”」

いつの間にか背後にいたゾラが、黒いスカーフをひるがえし、誇らしげに指さした。

霧の向こうに浮かぶその影は――船だった。だが、島にしか見えない。近づくにつれて、その正体が分かる。氷で覆われた鋼鉄の巨体。艦橋は氷柱に包まれ、外壁全体が青白く光る。まるで氷山そのものが船になったかのようだった

「氷山空母アオリーザ。旧スヴェトの最後の遺産よ」

ゾラは子供のような笑顔で言い切った。

「自己修復型装甲、重力砲塔、VTOL発着デッキに攻撃ヘリが十数機……まさに怪物。あんた達は世界一安全で寒い場所にいることになるわ」

その笑みは、凍てつく空気よりも不気味で、嫌味で、鼻についた。

「ええ、立派な船ね。説明書読んだの?」

シルヴィアが皮肉を返すと、ゾラは肩を揺らし、満足げに笑った。

「本来なら足元にだって近づけないのよ。ありがたく思いなさい」

そう言い残し、ゾラは氷の甲板へ軽やかに歩いていった。空母が近づくと、さらに気温が落ちていった。

息をするたび肺が痛む。鼻の奥が凍り、まつ毛に霜が降りる。甲板の手すりを握れば、皮膚が貼り付くほどの冷たさだ。

「空母とは聞いていたが、まさか冷凍庫とはな」

あまりのスケールに思わず乾いた笑いが出た。

「えぇ、どこで手に入れたのかしら」

アオリーザの外観がわかるまで近づいた時には甲板は凍り、豪華客船全体から金属が軋む音がする。

限界だ、甲板にはいられない。通路に戻るとゾラがコートを投げ渡す。

「あなた死にたいの?」

そう言ってゾラは再び、通路の奥へ消える。

やがて氷山空母の側面から、ゆっくりと橋桁がせり出すのが窓から見える。氷の結晶を纏った鋼鉄の連結デッキが、クイーン・セレスティア号へと繋がった。

「さぁ、行きましょ」

桟橋を渡り、アオリーザに足を踏み入れた瞬間、靴底が音を立てて滑る。氷の床がうっすらと白く光り、まるで雪山を歩いているようだ。

その先。凍り付いたアイランドの入口にゾラはいた。

「ようこそ、“アオリーザ”へ」

ゾラが振り返り、笑った。その赤い瞳が白銀の世界で異様に輝いていた。

そこへ、よろよろとした足音。

「うぅ……もう殺してくれ……私は犯罪者だ、それも重罪だ」

ダリアがフラフラと桟橋に倒れ込む。顔色は死人のように白く、髪はくしゃくしゃだ。

「……あんた、飲みすぎよ」

シルヴィアがため息混じりに肩を貸し、私は反対側から支える。

「大佐……私は、どうかしてました……!あんな大事な軍事衛星を、ヴォルフに渡すなんて……」

その呻きが白い息とともに漂い、すぐに霧の中に消えた。――代償は大きい。だが、これが成功すればダリアにとっても悪くはない。

つららが垂れ下がるパネルをゾラが手慣れた動きで操作する。 全てが解除され、白く凍った扉が重々しく開いた。

冷気が顔を切り裂くように吹き付ける――ここがヴォルフ・ブラトフの内部だ。

アリオーザの船内は、外観以上に凍てついていた。壁も天井も白い霜で覆われ、通路は氷そのものだ。息を吐くたび白煙が揺らめき、まつ毛にすぐ霜が付く。

「冷凍庫だな……」

手すりに下がった小さな氷柱を指で折ると、ぱきん、と乾いた音が廊下に響く。

「冷凍ピザになりかねないわね」

シルヴィアが吐息を漏らす。凍りついた制御パネル、不思議と動いてるファン、金属を叩く微かな音――静かで、重くて、異質だった。

突如、シルヴィアの視線が私の足に突き刺さる。その目は驚きのような呆れのような。

「ミア……あなた、まだそんな格好してるの?」

「……いいだろ。動きやすいし、寒くないんだよ」

言い訳がましい声を返した、その瞬間――ペチンッ!

不意に内ももに走る衝撃。乾いた音が廊下に響き、反射的に前屈みになる。視線を落とすと、そこにはダリア。にへら、と笑っている。

「お前…イカれてんのか」

声を抑えて怒鳴ると、ダリアはなぜか真剣な顔になって言い放った。

「前から良い足してると思ってたので。つい、研究でね。好きなんですよ、健康的で筋肉質な足が」

「研究って何のだ」

「触覚検証?」

そう言って、赤くなった手形を指でなぞる。……無垢?いや、壊れてる。

「シルヴィア、こいつ置いてこうぜ」

狂人の襟首をつかんで押しつけると、シルヴィアがため息混じりに肩をすくめた。

「……仲良しで何よりだわ」

その後ろでゾラが腕を組み、鼻で笑った。

「何してんのよあんたら。寒さで頭まで凍った?」

凍った通路の先は、本当に冷凍庫のような凍り付いたエレベーター。乗り込むと天井から霜がぱらぱらと剥がれ落ち、髪や肩に積もる。吐いた息は瞬時に白く凍り、頬の産毛さえ霜を纏っていく。

「ブリッジはここよ」

ゾラがスイッチを押す。網膜スキャン、指紋認証、冷却圧――すべてが解除され、分厚い白い扉が重い音を立てて開く。

中は一転、温かかった。

赤く分厚い絨毯が足音を吸い込み、重厚な机と綿を詰めた椅子。奥の玉座のような革張りの椅子に座るイリーナの紅い瞳が、暖かい部屋の中で一際冷たく光っていた。

「急げ。作戦を説明する」

イリーナの声が響くと同時に、温度差で一気に皮膚が緩む。さっきまで指の感覚がなかったのが嘘のよう。

机の上には湯気を立てた紅茶。

「氷の女王にも相変わらず心があってよかったわ」

シルヴィアがコートを脱ぎながら、皮肉とも感嘆ともつかぬ口調でつぶやいた。

「言っておく、この船では気を抜くな。死んだら捨て行く」

そして彼女の視線が鋭く私を射抜いた。

「お前……その足はなんだ。ふざけているのか」

太ももには――先ほどの“事件”の手形が、まだ赤く刻まれている。

「もういいだろ、放っておいてくれ」

私は肩をすくめて椅子に腰を下ろした。

「気に入ってるらしいの。気にしないであげて」

シルヴィアはすでに紅茶に口をつけていた。ダリアは放心したようにカップを見つめ、声もなく肩を揺らしている。

「では始めよう」

イリーナが指を軽く鳴らすと、ゾラがラップトップを開いた。

「これは一週間前、私が偵察したときの映像よ」

スクリーンに映し出されたのは――海上プラント。鋼鉄でできたはずの外壁は、半分が赤黒い肉に覆われ、そこから無数の触手が蠢いている。

脈打ち、うねり、血管のような筋が走り……まるで海に根を張った胎盤だった。

あの日カリム財団のモニターで見たものよりは、まだ肉塊では覆われていない。あの部屋で見たものはすべてが肉で覆われ、触手が空を睨んでいた。――つまり、この一週間で半分まで成長している。エルを取り込んだせいなのか?胃の奥がきゅっと縮む。

映像の中でヘリが揺れた。触手が鞭のように襲い掛かってくる。

『なによ!見かけ倒しじゃない!』

映像のゾラの声が響き、ドアガンが触手を撃ち抜く。切断された触手から赤黒い液体が噴き出し、海面を汚した。だがその切断面が蠢きながら再生していくのが見え、背筋が粟立った。

「カリムはプラントを自らを身体で包み、外敵を排除してるの。あれも、もっと成長してるだろうけど」

ゾラの声にも嫌悪が混じる。 私は喉が詰まるのを感じた。エルは今、その中にいる。呼吸が荒くなり、拳を握り締める。

「成長か…どうやって近づくつもりなんだ」

かろうじて声を出すと、イリーナは無言で窓の外を指差した。

その先には霧の中に浮かぶ巨大な影――それは島ではない。重装備の戦艦群。複数の巨艦がアオリーザを護衛するように並走していた。

「まるで海軍ね……」

シルヴィアが低くつぶやき、空気が一層引き締まった。

「この艦隊で触手を殲滅するの。その間に突入部隊で内部に侵入するのよ」

ゾラの声は軽く聞こえたが、その眼差しは真剣だった。

机を叩くイリーナの指。ゾラが急いで映像が再開し、肉に覆われていないヘリポートへの着陸シーンが映る。

だが次の瞬間――映像が暗転した。

「カメラがここで壊れたの。けど私たちはセントラルタワーへ向かったの。本丸の海底に行くためにね。地上はそんなに酷くなかったわ……でも地下がね」

ゾラの顔が険しくなる。

「壁があったの。触手より気持ち悪い肉の壁。撃っても爆破しても崩れない。どうしようもない化け物よ」

「……肉の壁」

イリーナの赤い瞳が真っすぐに私を射抜く。目を逸らすことができない。胸の奥が焼けるように熱い。

「そこで、お前の血が必要になる」

イリーナがためらいなく言い放つ。

「エルヴィラと近しい者。つまりお前なら穴があけられる」

ブリッジが一瞬、静まり返った。文字通り私が鍵。足先が冷たくなり、鳥肌が立つ。

――エルが言っていた言葉が脳裏に浮かんだ。

『ミアなら、通せるよ』

あの笑顔が蘇り、私はうなずいた。

「整理する。戦艦群で触手を殲滅、ヘリで我々と二部隊がプラントに着陸する。我らは兵器回収――お前たちは目的地は同じだ。協力してもらう」

その言葉は冷たかったが、不思議と背筋をまっすぐにさせた。ゾラがラップトップを操作し、プラントの断面図が浮かび上がる。

「プラントは海上・海中・海底の三層構造。下に行くにはセントラルタワーを通り、地下の肉の壁を突破。 目標は海底七百メートル――最深部の実験室。核はそこにある」

エルが待ってる。あの奥で――絶対に。 最後に見たエルの涙が、胸の奥で熱を灯す。逃げる理由なんて、一つもない。

「マスクと防疫装備は必須かしら」

シルヴィアがカップを置いて言う。

「いや、空気感染はない。だが…油断はするな。何があるか分からない」

イリーナの声が氷のように冷たく、ブリッジの温度が一気に下がった気がした。

カップが揺れ、紅茶が波紋を広げた。怖い。だが行くしかない。

「行くしかない……」

声が震えそうになったが、誰も笑わなかった。ゾラでさえ、静かに頷いた。

「この作戦の成功率は低い。だが――できるかではない。やるか、やらないか、だ。もちろん後者はない」

イリーナの言葉がブリッジを貫く。誰も、反論はしなかった。

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