6-3
窓の外は墨を流したような海。もうじき夜が明けるはずなのに、空はまだ重く沈んでいる。
クイーン・セレスティア号は北に向けて舵を取った。だが、プラントには行かない。空母に乗り換えるらしい。その間、私たちに与えられたのは錆と潮の匂いが染みついた元豪華ツインルーム。
剥がれ落ちた壁紙の下からは赤錆が浮いた鋼板がのぞき、鏡はひび割れ、ベッドのスプリングは軋むたびに不吉な音を響かせた。その中央で、ダリアは無造作に座り込み、ボトルを抱え込んでいた。
「……全部、反逆罪だ……」
呂律の回らない声。頬は紅潮し、目は虚ろで、吐息に強い酒の匂いが混じる。膝の上には転がったままの空グラス。室内にはアルコールの匂いが充満し、かび臭い鉄の臭気と混ざっていた。
「ダリア、もうやめときなさい」
シルヴィアが手を伸ばす。しかしダリアはそれを乱暴に振り払い、さらにボトルを傾けた。酒が顎を伝い、スーツの襟を濡らす。
「全部ですよ!……スパイネットを。NOVAの衛星も……全部!」
それは泣き声にも近い叫びだった。
「あぁ、刑務所だ。更生させる気が更々ない山脈の奥の窓一つないテロリスト御用達の刑務所。あー、そもそも逮捕命令出てるか」
次の瞬間、ダリアは崩れるようにベッドに倒れ込み、カビ臭い毛布に丸まり、わけのわからない歌を歌い出した
「逮捕だ~、テロリストと同室だ~反逆罪だ~。……来週に勲章式典だったのに、アーハハハッ!」
最後は笑いなのか嗚咽なのかわからない声になり、再びボトルを胸に抱いて動かなくなった。
何も言えずに黙り込んだ。窓の外で波音がかすかに響いているだけだ。
「なぁ……あの女、本当に信用できるのか?」
シルヴィアはソファに座り込み、無言でグラスを揺らした。
「……イリーナのことね」
その声には疲労の影があった。頬がわずかに赤らんでいるのは酒のせいか、それとも――。
「まぁ、ゾラよりはずっとまともよ。冷血女だけど、思考力も判断力もまともよ。それに芯があるわ」
一気にグラスを傾け、空になった器を投げ出すようにテーブルに置いた。
「昔、戦ってたんだよな?……教えてくれよ」
一瞬、重苦しい沈黙。
シルヴィアは頭を背もたれに預け、遠い過去を見ている目になった。
「…話してなかったわね」
ソファに猫のように丸まって寝転ぶ。
「聞いたけど教えてくれなかった」
シルヴィアの肩が揺れる。その目が、遠い過去へと向いた。
「……地獄の砂漠だったわ。灼熱、乾燥、腐臭……終わりのない陣取り合戦。燃え尽きた戦車、崩れ落ちた家。難民の列。死体は乾いて骨だけになっても、まだ銃を握っていた」
その言葉を聞くだけで、ミアの背筋に冷たいものが走る。
「あの頃、私は大尉で地区奪還を任命されたの、誰もいない廃墟群だけどね。で、ダリアは私の従卒。まだ青くて、素直で、健気で……本当に可愛いかったわ 」
その声に、酔いつぶれていたはずのダリアが片目だけ開けた。
「やめて…ください…その話……」と呟くが、シルヴィアは止まらなかった。
ダリアは顔を再び隠し、毛布の中に沈んだ。 シルヴィアは怪訝な私の顔を見て少し笑ってから、声のトーンを変えた。
「その時……向こうの指揮を取ったのがイリーナよ。彼女は中尉だったかしらね。手練れで、冷徹で、強くて、抜け目がない女だった。一ブロックで一進一退の戦いを繰り広げたわ」
頷きながら語る。その苦戦を思い出す。シルヴィアは深く息を吐き、ためらいもなくジャケットを脱いだ。
下に着ていたシャツのボタンを外すと、黒いレースの下着が白い肌を際立たせた。
その瞬間、言葉を失った。白磁のように滑らかな肌――そこに走るのは、痛ましい無数の痕跡だった。赤茶けた火傷、鋭利な刃物で裂かれた線、太いミミズ腫れ。
背に走る肩から腰にかけて走る大きな縫合痕は、誰かが丁寧に縫い合わせた。血管の薄青が浮かぶほど白い肌の上で、その傷だけが異様に鮮やかだった。
「……強襲されてね、向こうの傭兵に捕まったのよ。そして……拷問されたの。人を人とも思わない連中にね」
シルヴィアの声は硬く、喉奥でかすかに震えている。
「イカれた拷問官に殴られ、蹴られ、切られ、叩かれ、熱した鉄を押し当てられ。……皮膚が焼ける臭いってね、最悪なバーベキューって感じよ」
左頬を無意識に撫でる。そこには髪で隠された火傷痕。
「この顔の火傷も、その時のもの。そんなのが一か月よ……流石に死ぬと思ったわ」
だが次の言葉は予想外だった。
「血が止まらないで身体が動かなくなって、終わったと思ったとき、牢に……イリーナが来たのよ。毎日ね」
その声にはわずかな笑みが混じる。
「彼女が、私を治療した。この傷も縫ってくれたのよ」
丁寧に縫われた大きな跡を指で優しく辿った。
「包帯を巻いて、薬をくれて、食料まで置いていった。捕虜をいたぶることもなかった……ただ戦っていた」
窓の外に視線を投げ、シルヴィアは続けた。
「そんな中、味方の攻撃があってね。乗じて脱出したけど、後も追われた。……でも追い詰められて、もう終わりだと思ったとき――撃ったのはイリーナだった」
シルヴィアの目に微かに敬意が宿る。
「彼女は銃を私に投げたわ。無言で」
その声は淡々としているが、どこか誇らしげでもあった。
「だけど……寸前で爆撃で全部吹き飛んだ。イリーナの姿も、砂煙の向こうに消えた」
シルヴィアはシャツを羽織り直し、最後にぽつりと呟いた。
「私はそれからしばらく治療して、戦線に戻ったわ。でも…そこには彼女は居なかった」
段々と眠そうになる声、やがて目をつぶる。初めて見る寝姿に少し驚いた。
「イリーナ・セミョノフは……知る限り類を見ない、高潔な軍人だわ」
そのまま疲れたように目を閉じ、寝息を立てた。
私は窓辺に立ち、海を見下ろした。ゾラの赤い瞳と、イリーナの冷たい瞳。
どちらも危険だ。だが少なくともイリーナは、ただの怪物ではない。ゾラはともかく、イリーナには……多少、身を任せてもいいのかもしれない 。
そんな考えが浮かび、無意識に手を握りしめた。手がカイロを握っていたように熱い。
シルヴィアの身体をもう一つのベッドに寝かせて毛布をかける。髪が流れて顔の傷が露になったから、それを隠す。
熱い。これでは眠る事さえできやしない。
軋むドアを開けて廊下に出る。甲板へは一直線。荒れた廊下を抜けて、風が吹く道を進む。
やがて光が見え、そして甲板に出た。強い潮風は冷たく、湿っぽい。淵まで歩くころには肌がべたつく。
海は暗く、白波が地平線まで続いている。周りには島や船さえ見えない。振り返って船を見ると本当にゴーストシップだ。
エルがいたら怖がるだろう。少し、唇を噛んだ。
通路の奥から、足音が響いた。わざと靴底を鳴らしている。 影の向こうに、金髪が揺れた。
ゾラだ――私に向かって、まっすぐ歩いてくる。しかめっ面に、手には拳銃。
一気に身体の熱が引いて、さっきまでの気だるさが霧のように消えた。
私はホルスターに手を伸ばし、銃を抜く。あいつなら、やりかねない。
だが、ゾラは間合いを取ることなく、私の目の前でぴたりと足を止めた。睨みつけるような視線の奥、薄い金髪が風に揺れている。
その瞬間、ゾラの白いスニーカーが私の右足をゆっくりと踏みつけた。ぐい、と力を込めて。 黒いブーツの甲は埃と傷で白く汚れていた。痛みはない。ただ、鈍い感覚だけが残る。
足を下ろしたゾラは、満足げに笑った。挑発だ。 無視して立ち去ろうとした――だが、気づけば私のブーツが、ゾラのスニーカーを踏みにじっていた。
ゾラの笑みは消えない。そして、次の瞬間。 頬に激痛。殴られた勢いで、ホルスターの拳銃が甲板に転がる。
小さいくせに拳は一級品だ。私も立ち上がり、ゾラの前に歩み寄ると、その頬を殴り返した。 これで終わりだ。くだらない挑発には、もう乗らない。
ゾラが膝をつくのを見届けて私は銃へと向かう。 屈んで拾おうとした、その瞬間――銃声。
銃がさらに奥へと弾かれ、甲板を滑っていく。 ゾラは鼻血を垂らしながら、煙を上げる銃口をこちらに向けて、笑っていた。
ダメ、もう終わりだ。
そう思いながら、再び歩き出す。銃を拾おうとするたびに、また銃声。 銃はさらに奥へと滑っていく。距離はおよそ三十メートル。これはただの狂人じゃない。
気持ちを抑え、銃の横に立つ。ゆっくりと屈んだ瞬間、また銃声。 だが、弾はわずかに逸れ、銃はそのまま。
距離は四十メートル。私は銃を拾い、余裕の笑みを浮かべるゾラに向けて構える。ゾラは自分の銃を摘まんで、ひらひらと振ってみせた。
潮風を待つ。止むのを待つのではない。私に合う風が吹く、その瞬間を。
――来た。追い風。
トリガーを引く。 絶海に銃声が響き、ゾラの拳銃が海へと弾け飛んだ。新記録だ。
ゾラの笑みが消える。私を一瞥するその目は、初めて見る色をしていた。 敵意でも、嘲笑でもない。だが、私も同じだ。 あいつはただのサディストじゃない。銃が、それを証明した。
ゾラは目を逸らし、無言で船内へと戻っていく。 私は甲板に一人、取り残された。
振り返ると、海の向こう。黒い地平線の端に、わずかな朱が滲んでいた。
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