Chapter Six:Allies of Necessity

6-1

こめかみに冷たい感触。重苦しい手錠が手首に食い込み、振動するたびに鈍い痛みが走った。となりのシルヴィアもダリアは沈黙している。

ローターの轟音と、時折機体が大きく揺れる気流。

そして、その正面。赤い瞳が愉快そうに細まり、ゾラは銃口で私の頭を撫でた。

――ゾラ。

「…どこに行く気だ」

言葉を吐いても、答える気配はない。ただ、口角だけが上がっている。まるでペットのハムスターでも見るように。

なぜ私たちを助けた?この前の復讐か? それとも人質として利用するためか? それとも、もっと悪い何か……。 だが、こんな事をしている場合ではない。

エル…。

苛立つ。このヘリを奪って、今すぐにでもエルを救いに行きたい。どこにいるかもわからないし、無理だと分かっているのに腕は鎖をねじっていた。

「落ち着きなさい。今は何もできないわ」

シルヴィアの声が、妙に冷静で、でも温度を含んでいた。このスヴェト女の上司とでも交渉するつもりなのだろう。

「そうよ。ボスやお友達は賢いのに、あんたはバカね。躾が足りないんじゃないの?」

ゾラは不気味のまま銃口を額から鼻の頂点、唇に滑らす。

「そうねぇ……」

ゾラが小首をかしげ、笑った。

「飼い主の前でたっぷり躾けてやろうかしら…」

銃口が額から鼻筋へ、そして鎖骨をなぞり――胸に滑り込む。 くすぐるように銃口が下腹部へと渡り、足へと続く。

「緊張しなくていいのよ。今度は優しくしてあげるから」

まさぐる度に、彼女の赤い瞳が愉快そうに細まる。

「マンネリだよ。ヘタクソ」

思わず出た声にシルヴィアとダリアの肩がわずかに動く。 ゾラの笑顔が、ゆっくりと――歪んだ。

「へぇ……言うじゃない。駄犬の分際で」

世界が一瞬、白く飛んだ。次に見えたのは、銃尻を振り下ろしたゾラの顔。額から温かいものが流れ、顎を伝い、ポタリと落ちた。

「おい!何を!!」

ダリアの声が耳鳴りのせいで遠く聞こえる。

痛い。だがエルはもっと苦しんでいる。独りで…私以上に。ここで倒れるのは簡単だ。でも、それじゃエルを助けられない。

そして、それをこの女――ゾラには絶対見せたくない。

睨みつけた。

「一人でしてろ、チビ」

血混じりの唾をゾラの顔に吐きかけた。空気が凍りつく。

「おい!ミア!止めろ!」

ダリアの咎める声が頭に響き、シルヴィアはただ私を見ていた。ゾラはゆっくりと指でそれを拭い、にやりと笑った――笑ったまま、目だけが異様に冷たくなった。

「…ほんと期待させるわね。あなたは絶対に殺さないわ、たとえ懇願してもね」

髪を掴まれて、銃口が首筋に押し付けられる。赤い瞳が赤黒く濁り、ゼロ距離でこちらを覗き込んでいる。甘いガムの香りと、彼女の吐息が鼻先を撫でた。

「……やれよ」

口端に溜まった血を舐め、唇を歪めた。

「お前に私を殺せる機会なんて、もう二度とない」

トリガーにかかる指がわずかに震えた音を聞いた気がした。

「やめろ!取引する!!だからやめろ!」

ダリアの叫び。だが更に強く押し付けられる冷たい銃口。ゾラの赤い瞳は怒りに揺れ、その奥に――一瞬だけ、驚きが滲んだ。

エルを助けるまで、死ぬつもりはない。私はその瞳を見つめ返す。動かず、呼吸だけを整えて。

……時間が止まったように感じた。

やがて、銃口がゆっくりと顎の下から離れる。ゾラは低く吐き捨てる。

「もっと楽しみになったわ……ゆっくり、ゆっくりしてあげる」

彼女は乱暴に座席へ腰を落とした。その殺気は薄れたが、笑顔は戻らない。

シルヴィアが私の肩を軽く小突き、薄く笑った。だが、ダリアの視線は真っ直ぐに私を刺し、何も言わなかった。

そのとき。海の地平線に黒い影が見えた。最初は霧のせいかと思ったが、次第に輪郭が浮かび上がる。

「……船?」

ダリアが息を呑み、シルヴィアが惚れ惚れと目を細める。

「あの女にしてはいいセンスね」

月光が影を照らした瞬間――異様な豪華客船の全貌が現れた。

かつては贅沢を象徴したであろう巨大な外装。無数の客室、幾何学的に整ったデッキ、かつてプールだった場所。

しかし今、そのどれもが沈黙し、照明ひとつ灯っていない。ただ静かに漂うゴーストシップ。

代わりに、そこには血と鉄の匂いがここからでもする。高射砲がデッキに鎮座し、鉄条網が艦首を覆い、銃を抱えた兵士たちが冷たい目でこちらを見ている。

まるで娯楽と戦争を無理やり融合させた、醜悪な巨獣だった。 ヘリは大きく旋回し、すぐに枯れ果てたプール跡に着陸する。

ドアがスライドすると、銃を構えたヴォルフ・ブラトフの構成員たちが待ち構えていた。

銃口が無言で顔を突く。 見渡せば、古びたアトリウムを模した構造。剥がれ落ちた金箔装飾の円柱、首のない大理石の彫刻、海水と日に晒された石畳のデッキ。その異様な豪華さの中、ゾラは甲板で踊るように歩いた。

「さ、お客様の到着よ。さっそく食事にしましょ?」

楽しげに言い残し、暗い船内への通路に消えていった。銃口に押され、私たちもその後に続く。

ゾラに続いて、船内へ足を踏み入れた瞬間――

鉄と油、そして朽ちて果てた鼻腔を突いた。かつて世界の富豪たちが歩いたであろう廊下はむさくるしいアジトと化している。

壁の色褪せたのウッドパネルには強引にカトラリーガンが取り付けられ、豪華な金箔の手すりにはむき出しの破線が絡んでいる。

シャンデリアが並んだ天井には赤色警告灯がぶら下がり赤黒い点が並んでいる。

「ヤツらの本拠地か。内装業者を呼んだほうがいいな」

私がつぶやくと、隣のシルヴィアは笑ったまま頷いた。

「えぇ、まるでゴーストシップだわ。悪くはないけれど」

中央ホールに出ると、豪奢と狂気が同居する空間が広がっていた。大理石の床に残のはワインか血の染み。吹き抜けの天井からは巨大なシャンデリアが吊るされているが、その周囲にはカメラが埋め込まれている。赤い絨毯はめくれてハッチの扉が開けっ放しになっている。

「クイーン・セレスティア号へようこそ、ご婦人方」

そう言ってゾラは、まるでクルーのように片手を胸元に添えて軽くお辞儀した。その声が異様に響く。笑顔は、艶やかさと狂気を同時に帯びていた。

横にはガラス張りのエレベーター。周囲をライフルを抱えた構成員が無言で囲んでいる。彼らの制服は揃っていない。元軍人、元傭兵、あるいはただの殺し屋……そんな空気が漂っていた。

シルヴィアはその横を無言で抜け、キャビンに乗り込む。軽くお辞儀をしながら、皮肉げに言った。

「ありがとう、お嬢様」

挑発するような声音に、ゾラの口元が歪んだ。私とダリアは構成員に背中を銃で押され、抵抗する余地もなく押し込まれた。

扉が閉まると甲高い金属音が一瞬響く。それからは途切れ途切れのエレベーターミュージック、サビの前で沈黙する。

背後から突く銃口の冷たさと、皮膚を刺すような緊張感――この下に、イリーナがいる。

死ねない。まだここで終わるわけにはいかない。だが、これからどうするか、エルはどこにいるのか、そればかりで何も考えられない。

突然、キャビンが停止する。短い電子音、表示灯には行先が示されていない。

ゆっくりと開いたドアの先に無骨な鉄とパイプと配線の長い廊下が現れた。映画で見た潜水艦の内部と似ている。豪華客船の名残はそこにはない。

廊下の突き当りに大きな鉄扉。明らかに他と造りが違う。

「さあ、お楽しみの時間よ」

そうスキップで進むゾラは、クリスマスの待ちきれない子供のようだ。銃口に押され、私たちは奥へと進む。

カリムのビルとは正反対の廊下。だが、進むにつれて同じように心拍数は跳ね上がっている。

突き当りの大扉の前に着くと、ゾラは笑って私達を一瞥してインターホンを押した。

「私よ。お土産を持ってきたわ」

ゾラの声がやけに大きく響く。一拍開けて、扉が重々しい音を立てて開いた。

瞬間、空気が変わった。冷気が顔にまとわりつき、肌をひりつかせる。

中は、まるで別世界だった。壁も床も艶消しの金属で覆われ、余計な装飾は一切ない。だが中央だけは異様に贅沢だった。黒革の椅子と、磨き上げられたガラスのテーブルと深紅の絨毯。香水の匂いも、生活感のある気配も一切ない。あるのは、鉄の匂いと、絶対的な静寂だけ。

そこに腰掛けるのは――イリーナ・セミョノフ。伸びた銀髪が、天井の冷光に反射して鈍く光る。

「報告が遅い。理由は?」

デスクの書類に目を向けたままのイリーナの声は冷たい。顔に氷塊を押し当てられたように。

笑っていたゾラに一瞬だけ怯えが混じる。

「えぇ、色々あってね。でもちょっとしたボーナスよ。ほら」

獲物を誇るように私たちを押し出す。イリーナは顔を上げが瞳はゾラだけに向けられる。――血のように赤い瞳。視線が喉をえぐり取るように鋭い。

「……つまり、報告よりも身勝手な行動を優先した」

静かな声音なのに、圧がある。呼吸が浅くなる。

「答えろ、ゾラ・モロゾフ」

その声に、部屋の温度がさらに下がる。ゾラの笑顔は引きつり、声もわずかに震えた。

「……そうよ。報告を怠って勝手に行動したわよ。でもこいつだけは私にやらせて!」

ゾラが私を指差す。視線が、その瞬間に私へと突き刺さる。息が詰まる。これ以上見られたらたまったもんではない。

その瞬間。

「私、待っているのだけれど」

シルヴィアが割って入るように、わざとらしい溜息をついた。イリーナの赤い瞳がシルヴィアに向き、少しだけホッとする。

「…久しいな」

視線だけで重力が増したように足が重くなる。

「減らず口は相変わらずだな」

イリーナは少しだけ笑い長い足を組み替える。

「えぇ、あなたも相変わらずね」

笑い合っているのに、空気はきしみ、破裂しそうなほど張り詰めていた。

「さて、お前をどう扱うべきか…」

イリーナはグラスの縁を指でなぞる。小さな音なのに、部屋全体に響いて不快なほど長く残る。

「商談よ」

シルヴィアがあえて軽い口調で言う。だが声の奥に硬さがある。

「お行儀よく来たの」

「冗談も覚えたとはな」

「本気かどうかは、話を聞いてから判断して。……それとも殺すの?」

イリーナの笑みが消える。しばしの沈黙ののち、彼女は指を鳴らした。

「二人にしろ」

ゾラがすぐさま銃をこちらに向けて、扉を顎で指した。

「おい、待て!」「大佐!」

ダリアと同時に声を上げる。

「ダリアも一緒よ」

シルヴィアはダリアを指名した。

「……いいだろう。――あの戦争の同窓会、というわけか」

イリーナが口元だけで笑って思い出すように目をつぶる。

「待て!私も――」

言葉を挟もうとするが、シルヴィアに遮られる。

「大丈夫。あなたには何もさせない」

その言葉が刺さる。否定ではない。拒絶だった。

「違う!」

私が叫ぶと、シルヴィアがそっと頬に触れた。

「頭を冷やしなさい。大丈夫。信じて」

その声は母のようで、上官のようだった。

「大丈夫。信じて」

その低い声に、抗えなかった。ゾラの冷笑とともに、引きずられる。

扉が閉まり、残ったのは静寂だけ。呼吸が乱れて止まらない。

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