4-2

「……何であんな事したの?」

エルが立ち上がっていた。テレビの青白い光が背後から彼女の輪郭を縁取り、長い影を床に落としている。画面では誰かが大声で笑っているが、私には届かない。

油が酸化したピザの匂いと、抜けたビールの匂いが部屋にこもっていた。

「ミスを庇っただけだ、エルのな」

軽く言ったつもりが、部屋の空気をさらに冷やす。

青い瞳がわずかに揺れた。ショックを受けた時の目。

冷めきったピザをむりやり口に押し込み、ぬるいウイスキーサワーで胃に流し込む。味なんてわからない。喉を何かで塞がなければ、この空気に耐えられない。

「……命を捨てるような真似はしないって、約束したよね?」

エルの声は低く、押し殺した震えが混じっていた。

「平気だって言ってるだろ。大げさなんだよ、エルは」

グラスから落ちた結露の雫がテーブルに弾けた音が妙に耳に残った。

エルは黙ってこちらを見ている。目を逸らさない。責めるようでも、泣き出しそうでもあった。

「……ひどいよ、そんな言い方。それに、傷跡は一生残るのに!」

テーブルを叩く音が部屋に響き、テレビの笑い声が一瞬かき消された。

「これか?」

わざと笑って、首の傷を指でなぞる。弾痕。未だに火傷のように微かな痛みが残っている。でも、この傷は私にとって特別だった。

「いい傷だ。勇気の証だ。拍が付いた」

エルの眉が下がり、口は硬く閉まり、目が細く暗く落ちる。なぜだか、その顔が心地良い。

彼女の視線が逸れ、次の瞬間、叫びが飛ぶ。

「もうやめて!!」

その声で、テレビすら遠くに消えた気がした。時計の秒針だけが部屋を満たす。

「……できたもんは仕方ない。それにエルだって、ついこの間、骨まで折ってたろ」

あの列車の夜。数人に蹴られれば、あばら骨くらい意図も容易く折られる。少し投げやりに言うと、エルはすぐに返した。

「私のは自業自得!でも、ミアが私をかばうのだけは……やめてって言ってるの!」

テーブルの上で転がったビール缶がカランと小さく転がった。青い瞳は決壊寸前で、唇が震えていた。

「無理。エルがミスしなきゃいい」

食べる気もない冷めたポテトをつまみ上げ、指で弾いて皿に投げ戻す。

「なっ……!」

エルの頬を涙が伝い、ぽたりとテーブルに落ちた。その一滴がやけに大きな音を立てた気がした。

「それに……いつも私を子ども扱いするよな。いい加減にしろよ」

声が思わず荒くなる。エルは目を見開き、結露で濡れたグラスを震える手で抱え込んだ。

「ミアを子ども扱いなんかしてない!私は――」

「いいや、してる。私がファミリーに入ろうとした時……無理やり止めようとしたろ。大学の願書まで書いてな」

否定する。エルを。その行動を。過去も現在も。全てを。

「違う!誰だって、妹には安全に暮らしてほしいの……!」

違う。そんなモノじゃない。

グラスがテーブルに叩きつけた。サワーが半分はこぼれて、甲高い音が部屋を切り裂いた。

「私だけ綺麗でいろって?学校に行けって?エルが殺して得た金でか?ふざけんな!私がそんな人間に見えたのかよ、エルは!」

勢いに任せて空き缶を薙ぎ払うと音を立てて床に転がる。

「なんでそんなこと言うのよ!私は……ミアだけは幸せになってほしかっただけなのに!」

その言葉で胃の中のものを吐きだしそうなくらい腹が立った。指の先にまで血が一瞬で巡る。

「勝手に“私の幸せ”を決めんな!エルにそんな資格はない」

「待って、私は――」

瞳には涙が溢れて、口を歪ませていた。聞こえるすすり泣く声。そんな事にも腹が立って仕方がない。

「いつまでもガキ扱いして……見下すな!」

半分だけのサワーを飲み干す。酸味がレモンなのか胃液なのかもわからない。ただ刺激が喉に刺さり、胃の奥が熱くなる。

エルは声を詰まらせ、それでも言い返そうとしたが、言葉にならなかった。

「私はこの道で幸せだ。エルの言うことなんか聞かなくてよかった!」

空のグラスを机に叩きつける。テーブルの上のシャンパングラスが転がり、床に落ちて割れた。

「……っ!」

「だからエルの言葉なんか聞かない。私は……私のやり方でやる」

目を逸らし、テーブルに残った冷えきったピザを見つめた。

「……もういい!勝手にすればいい!」

エルは立ち上がり、乱暴にジャケットを羽織った。足音が床を叩き、テーブルが微かに揺れる。

「二度とミアの行動になんか口出ししない!勝手に怪我して、どうにでもなっちゃえ!」

ドアが叩きつけられる音が、テレビの笑い声をかき消した。

残ったのは冷めきったピザと、自分の荒い息だけだった。

テレビの中では、コメディアンたちが派手に転んで笑い声を響かせている。

『お前はこの国で一番の大バカ者だ!』『なぜお前は言うことを聞かない』『どこかわからんか、わからんさ』

その台詞に胸がざわつく。そして大きな観衆の笑い声。

思わずリモコンを掴んで画面を暗転させた。黒い画面に、ひどい顔をした自分が映っている。

「……なんだよ」

床の空缶を壁に投げつける。高い音と跳ね返る飛沫。

熱い指で首の傷跡に触れるが、何も感じなかった。静寂だけが残る。

遠くでサイレンの音がかすかに響く。

立ち上がり、一直線にソファに飛び込む。胸と腹と足には冷たいレザーの感触、一か所を除いて。

頭、頬を置いたのはエルがさっきまで座っていた場所。その温もりに異常に腹が立ったが起き上がる気力も、言い合いで使い果たした。

寝たい訳ではないが少し休みたい。あと三分で起き上がり、まずはテレビを消す。次にゴミ袋とふきんを持ってテーブルの惨状を片付ける。ゴミ袋を玄関に放って、次に服を洗濯機に放る。熱いシャワーを浴び、最後に歯を磨いて寝る。

完璧だ、明日に何も持ち込まない。

計画を立てると抜ける力をふり絞ってクッションを寄せてに頬を押し付ける。

このクッションは気に入っている。中綿が多く、細やかで柔らかい小動物のような感触。そこから僅かに甘い匂い――イランイランの香り――が僅かにした。

それが、無性に神経に触った。さっきまでいた誰かのシャンプーの匂いだからだ。

だが、もう動く気はない。僅かな休憩を無駄にしない。

息を吐いて目をつぶって休む。

頭の中に反響していたエルの言葉が消える頃に目を開ける。

ぼやけた視界の中で、天井のシーリングファンがゆっくりと回っていた。カラカラと微かな羽音が、なぜか耳の奥で重く響く。

眩しすぎる照明で目の奥が痛い、視界の端でテレビのニュースがぼんやりと点滅している。

言葉の意味は頭に入ってこないのに、ハッキリとした声が耳をつんざき、気分をさらに悪くした。吐き気が込み上げる。胃液と酒の酸っぱい味が喉にまとわりつき、顔を歪める。まだ血の味の方がマシだ。

「あ……?」

うつ伏せだったはずなのに。いつの間にか、見えるのは天井。クッションとお揃いのブランケットにくるまったまま、レザーと背中の汗が密着する不快な感触。シャツもショートパンツも汗ばんでいる。足元で転がっていた缶を不用意に蹴ると、乾いた金属音が部屋に刺さった。

「…あぁ…クソ…」

声はひどく掠れていて、妙に震えていた。

寝てしまった、それも最低の状態で――そう思った瞬間、耳鳴りが脈を打つ。昨日の怒鳴り声が蘇る。エルの涙。赤らんだ頬。あの青い瞳。

胸の奥がざわつき、吐き気がさらに増す。力任せに抱いたクッションから、エルの髪の匂いがした。その匂いを感じた瞬間、拳が勝手に動いてクッションを殴っていた。

「…ふざけんな…」

額を押さえて身体を起こす。それだけで視界がぐらつき、酸っぱいものが喉元まで込み上げる。テーブルには食べかけのピザ、潰れて冷え切ったポテトフライ、缶ビールとグラスが無造作に転がっている。

油と酒の匂いはもう不快を通り越し、怒りの段階。窓の外では昼前の街がざわついているのに、この部屋だけは死んだみたいに淀んでいる。

テレビが無神経にニュースを垂れ流していた。

『世界はウイルステロに悩まされている。…カリム財団は――』

「だまれよ」

リモコンを探り当て、力任せに電源を切る。残ったのは自分の荒い呼吸と部屋の惨劇。

首の傷跡がじんわりと熱を持っていた。鏡の前に立つと、映っているのは昨日とは違う自分だった。唇はひび割れ、目の周りは赤く腫れて、肌でややむくんだ頬。

傷跡に指を当てる。かすかな痛みが、頭の中のもやを一瞬だけ吹き飛ばした。

ジャケットを無理やり羽織り、玄関を開ける。途端に、街の雑多な音が耳に飛び込んできた。排気ガスの匂い。観光客の笑い声。路地裏のチンピラが吐く安いタバコの煙。

トラックのクラクションが響き渡り、ビル風がアルコール臭を散らしていく。

それは頭痛すらも心地良く感じさせた。虚ろな部屋よりも、この雑踏の方がまだマシだった。

行く当てもなく、気付けば足はカジノに向かっていた。

昼前のカジノはもう熱気に包まれている。スロットの電子音、チップを投げる音、歓声と罵声が入り混じる独特の空気。普段なら鬱陶しくてたまらないのに、今は頭痛を上書きする雑音としてちょうどよかった。

扉を抜け、カーペットを踏む。奥のエレベーターホールからシルヴィアのオフィスへ。

ノックし、返事も待たずに開けると――外の喧騒が一瞬で途切れた。

空気は止まっていた。ラベンダーと紅茶の柔らかな香りが鼻に届く。壁には絵画、重厚な机と革張りの椅子、計算され尽くした調度品たち。

カーテン越しに射す昼の光は柔らかいのに、ここだけ季節が違うように冷たい。

シルヴィアは机に広げていた新聞を畳み、目だけをこちらに向けた。深い緑の瞳が、まるで射抜くように私を見つめる。

「…ひどい顔ね、ミア。何か用かしら?」

その声は低く、よく通る。頭の奥でまだ耳鳴りが残っているのに、彼女の声だけは鮮明に聞こえた。

「あー……何か仕事はないか」

声が掠れていた。自分でも嫌になるくらい情けない声だった。シルヴィアは小さく眉をひそめて頬杖をつく。その仕草ひとつで、室内の温度が二度下がった気がした。

「仕事?今はないわ。…それにミア、酷い顔よ」

ティーカップを持ち上げる仕草が美しい。紅茶をすする音が、時計の秒針よりもはっきりと耳に届いた。

「…そうか」

ただそれだけ言って、私はドアへ向かう。このままここにいると、何かを見透かされそうで落ち着かなかった。

「珍しいわね。エルと一緒じゃないのかしら?」

その一言に、足が止まった。肺の奥が熱くなる。エルの泣き顔、青い瞳が脳裏を突き抜ける。唾が口の中に溜まり、吐き気と一緒に込み上げてくる。

「…あぁ。そうだ」

それだけ押し込むように言い、私はドアを閉めた。扉の向こうにはまた喧噪が戻ってくる。

雑多で不快な街の音が、今は逆に安心させた。結局、街を歩き回っただけで、一日は終わった。

気がつけば夕方。

部屋に戻ると――昨日の惨状が、そのまま残っていた。酒と食べ残しの腐臭が鼻をつき、溶けかけたチーズの甘ったるい悪臭と脂の匂いが胃の奥を刺激する。

窓のカーテン越しに差し込む光だけが頼りで、埃が舞っては光の柱に照らされ、部屋の汚れをこれでもかと晒し上げていた。

身体は鉛のように重かった。それでも自分に鞭を打ち、足を動かす。カーテンを乱暴に開けて、窓を全開にした。街の排気ガスと、屋台の焦げた油の匂いが流れ込み、この部屋にこもった腐敗臭を押し流す。

ゴミ袋にピザの残骸や缶を詰め込むたびに、酸っぱくて甘ったるい匂いが鼻にまとわりつき、吐き気を誘った。

缶の底に残ったビールが手にかかり、ぬるい泡が腕を伝う。胃が反応し、喉に逆流する胃液を押し戻す。軽く咳き込み、その拍子に頭痛が蘇った。

薬棚を乱暴に開け、胃薬と頭痛薬を2錠、噛むようにして飲み込む。口の中に広がる粉っぽい苦味が、さらに気分を悪くした。

不快感から逃げるように、床やテーブルにこびりついたケチャップや油を拭き取る。布巾が真っ赤に染まるたび、昨日の自分を心底恨んだ。

一つひとつ痕跡を消していくたび、エルの顔が瞼に焼き付いて離れなかった。部屋がようやく元に戻る頃には、頭痛も少しだけ薄らいでいた。

空っぽになった酒瓶が床に転がっているのを見て、改めて自分の無様さに苦笑する。

「……バカみたい」

シャワーを浴びた。熱い湯が皮膚を焼くように流れ、アルコールと汗の匂いを洗い流していく。湯気に紛れて昨日の自分が剥がれ落ちるような気がした。身体を拭き終え、新しい服に袖を通すと、少しだけ呼吸が楽になった。

ソファに沈み、まぶたを閉じかけた――その瞬間。

鍵の開く音。次いで聞き覚えのある足音。ドアが開き、逆光の中にエルが立っていた。

目が合った瞬間、一瞬だけ驚いたように目を見開く。けれど次の瞬間には、冷たい光を宿したあの目に戻っていた。

無言で部屋に入り、自室へと向かう。こちらを一瞥もせず、扉が閉じられる音が嫌な余韻となって部屋に残る。

胸の奥で、何かが弾けた。

「……ふざけんな」

反省していたはずの自分の声が、どす黒い感情に飲み込まれていく。青い瞳を悲しみの涙で溢れさせたい。口を苦痛で歪ませたい。

そして――許しを請わせたい。

眠気は一瞬で吹き飛び、代わりに胃の奥から酸っぱさが込み上げる。頭痛が再び脈打ち、耳鳴りが響く。

ソファを殴ると、埃とエルの残り香が舞った。

「……何だよ」

首の傷跡が脈打つように痛む。勢いよく立ち上がり、ふらつく足を無理やり前に出す。そして、自分の部屋のドアを乱暴に開けた。

「ふざけんなよ……」

わざと勢いよくドアを閉めて、そのままベッドに飛び込む。

枕に噛み付き、何度も殴る。怒りが収まり、虚しさだけが胸を焼いた。

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