3-2

麗軒飯店の話は、シルヴィアにとってかなり意外なようで、眼鏡がズレた。

シルヴィアは机の書類から眼を放す。ワイングラスの縁をなぞって麗軒飯店に届いた脅迫状を手に取った。口元は笑っているのに、視線だけは氷のように冷たかった。怒ったサインだ、それもかなり激しく。

「全く……誰がそんな、くだらないことをね」

手紙をそっと机に伏せると、猫のように背筋を伸ばし、唇から長く息を吐いた。思案の合図だ。

「心当たりを一掃しようかしら。見せしめも兼ねてね」

「……それ、やりすぎじゃない?」

すかさずエルが割って入る。冗談だと思いたいが、シルヴィアの“冗談”は時々無情にも実行される。

「冗談よ、でも妙な話ね。狙いが全く分からないわ」

再び手紙に目を落とし、流れるようにメモをした。彼女なりに手助けしてくれるようだ。

「今はまだ考えがまとまらないわ。でも困ったら、来なさい。あの店は……特別だから、ね」

あの店の味は、シルヴィアにとっても思い出の一部なのだろう。

しかし、今の彼女は忙殺されていた。カジノの強盗未遂、従業員の不審死、武器の密輸品。そして、ヴォルフ・プラトフの奇妙な動き。イリーナがNOVAの荷物を狙っている理由を追っているらしいが、それも容易にたどり着ける真実ではない。

だから、彼女は一言だけ言った。

「……もし、行き詰ったらマゼランに聞きなさい」

その名前を聞いた瞬間、エルの顔がわずかに引きつった。私だって一瞬ためらう。

オフィスを出てからは、“彼”に頼らぬように情報屋たちを片っ端から当たってみた。

だが――成果はゼロだった。「どこぞの女優が司法取引を交わした」とか、「某レストランの裏メニューは絶滅危惧種を使っている」、笑えたのは「金歯の成金市長が背骨まで金にして腰痛。次は頭蓋骨で頭痛」だとか。いつから情報屋はゴシップ専門記者になったんだ。

そして、麗軒飯店への悪質なデマがさらに増えていた。

“店主が元売人”とか、“人肉を使っている”とか。ふざけすぎて笑える話だが、被害は現実だ。

エルがハンドルに顔を埋め、低く呻いた。私たちの陰鬱な気分に関わらず、ゼニス・スパイアの空は珍しく快晴だ。数日前からホログラム広告が出ていないから、その青さが余計に目に染みた。

「うーん……思った以上に、わかんないもんだねー……」

旧車特有のソファのような白革のシートに身を沈めていても、身体は楽にならない。それどころか、肩も腰も硬く、冷たくなった。

乗り心地がいいエルのコンバーチブルも、今は金属の棺に思えた。

「……あとは、アイツしかいない」

そう呟くと、エルが反射的に顔を上げ、胸がハンドルに押してクラクションが一瞬、間抜けに鳴った。甲高い音が街に跳ね返り、一羽の鳥が電柱から飛び立つ。

「えぇ……アイツ……?」

エルは眉を寄せ、シートに頭を打ちつけるように前かがみになる。

「銭ゲバで、不潔で、気持ち悪くて、それに悪態……最悪だよ……あの男……」

ぶつぶつと文句を呟きながら、諦めたようにキーを回した。

「……そうも言ってられない。レイと約束したろ?」

重く頷いた私の言葉に、エルの顔はますます渋くなった。バックミラーには、明確に「最悪」と書かれた表情が映っていた。

《マゼラン》――ゼニス・スパイア一の情報屋。

この街がもっと血と汚泥にまみれていた頃から彼はすでにそこにいた。元・某国の諜報員やら、巨大企業専門ハッカーという噂もあるが誰も真相は知らない。

ただ一つ確かなのは――マゼランは秘密を暴くのが大好きだ。いつ誰が缶ジュース一本買ったのも、原潜がどのルートを通るのかもわかる。でもシルヴィアは「直接出向きたくはない」と顔をしかめていた。

「……分かったー。行くよ」

エルが低く、不機嫌さを隠さずに吐き捨てる。アクセルが唸りを上げ、車はマゼランの巣窟へ向かって、街を滑っていった。

情報は、命より重い。いや、時には命そのものだ。

マゼランの“巣”は、ゼニス・スパイア北東部にある“倒壊寸前”のマンションの最上階。外観はただのゴミ溜め同然――だが中に一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。

薄暗い通路、明滅する裸電球。壁には茶褐色や黒い染みが無数に広がり、ベタつく床には何がこぼれているのか分からない。住民も闇医者や指名手配犯、しょぼいディーラーってところだ。家賃さえ払えば、どんな人間も住める。ゼニス・スパイア中のろくでなしが集まる場所だ。

雑に這わせた電線が絡まり、機械の熱とカビ、そしてどこからか流れた腐臭が混ざり合って、呼吸するだけで胃を焼いて吐き気を催す。。

そして――マゼランの扉を開けた瞬間。

「……うっ」

エルが鼻を押さえる。目の前に広がっていたのは、“現場慣れ”していてもおぞましすぎる空間だった。

壁一面のモニターが明滅し、視線を刺してくる。足元には腐った段ボールと、潰れた中身の入ったピザ箱。空き缶の口から見える無数の触覚、白くカビの覆ったカップ麺、蛆がひしめくビニール袋。酸化した油、甘ったるい電子タバコ、生ゴミの腐臭……凍えるほど冷たい空調が異様なほど効いているせいで、それが部屋中に循環していた。

主人の死後一か月、と言われても誰も疑わないだろう。天井から垂れ下がる配線は、まるで血管。そこに群がる蠅が静電気に焼かれては、また羽音を響かせる。

その中心に――いた。マゼラン。

白シャツは脂で茶色とも黄色とも言えないに変色し、無数のシミと食べこぼしが模様のように染み込んでいる。ズボンの裾はカビで黒ずみ、後頭部に束ねた髪は油で固まり、そこにも埃が積もっていた。

まるで、部屋そのものがマゼランの身体の一部だった。

その横を、異様なものが練り歩く。

――アンドロイド。

それも全員、ほとんど下着同然の格好。光沢のある人工皮膚が照明を鈍く弾いている。彼女たちは時折マゼランに身体を擦り寄せ、プログラムされた笑顔で媚びる。

「……くっ……」

エルが目を逸らす。気の毒そうに、肩をすくめた。主人を選べず、自らが持つ掃除機能さえ使えないことへの憐れみだった。

「何の用だ。見ての通り、俺は今忙しいんだ」

マゼランはモニターから一度も視線を動かさない。脂ぎった指でキーボードを叩き続けながら、投げ捨てるように答えた。

「あぁ、友人が脅迫されててな、カシャ系レストランの麗軒飯店の店主だ。一週間前から嫌がらせは始まった、これが手がかりだ」

脅迫状を差し出すと彼は目線は変えずにアンドロイドを指さした。それに紙を渡し、しっかりと拭いてから彼に渡した。

到底理解できないがマゼランは極度の潔癖症だ。この部屋は彼にとっては清潔らしい。

彼はしばらくそれを眺めて聞いた。

「他に情報はないのか?全部話せ。お前らにどうしようもない情報でも、俺なら金にできる」

嫌味ったらしく言うとマゼランはディスプレイに向かってキーボードを叩き始める。

「デマが流れてるの。人肉を使ってるとか、劇薬入り、店主はディーラーとかね」

「使えん。他は」

マゼランの即答にエルが睨む。

「……っ!それに窓ガラスが割られたの。あとは、レイには心当たりがないらしいの」

「使えない二つも情報をありがとう。心当たりがあったら、ここに来ないだろ」

今にも殴り出しそうなエルを抑える。これがエルがここに来たくなかった理由の一つだ。

「あまり情報がないんだ。あとはゴミが店先に巻かれてるとかな、豚の頭もあった」

一瞬、キーボードの音が止まる。そして先ほどよりも何倍も早いタイピング音が聞こえた。ヒットかも、しれないな。

「いつだ。豚の頭は?」

「二日前だ」

「見ろ」

彼の指示と同時に、壁のモニターが一斉に切り替わる。

映し出されたのは、“ロース 三五キロ”、“モモ 四十キロ”。どうやら品名と個数が書かれた表。

「……なにこれ?」

エルの声に舌打ちが返ってきた。

「黙って聞け」

エルは歯を食いしばってマゼランの背中を睨む。その背中にネグリジェ姿のアンドロイドが抱きつく。だが彼は無視し、ただキーボードを叩き続けた。

「これは、とある精肉業者のレストランに出した出荷表だ。ここを見ろ」

画面がスクロールされて、ある欄で止まった。そこには“ポークヘッド 八”とある。そして隣のモニターにメールの文章が映った。

「三日前のレストランが業者に向けて送ったクレームのメールだ。ポークヘッドが一個足りないってな」

僅かな点が線になった。

「このレストランは配達ルートの先頭。……つまりだ、受取人がサインを書く前に」

「焦らすな、結論を言え。わかるのか?その犯人は」

マゼランが息をたっぷりと吐いて息継ぎをする。きっと酔いしれているところを邪魔したのだろう。

「無理言うな。あとは手に入れられるのも防犯カメラの映像くらいだ。わかる訳ないだろ……いや」

そう言うとマゼランは映像の静止し、凝視する。気味悪く笑って言った。

「運がいいな、犯人は有名人だ。ある意味な」

画面いっぱいに男のマグショットが映る。貧相な顔だ。私もエルも心当たりがない。

「通称“オレンジフッド”。窃盗と公然わいせつ、それにストーカー。なかなか良い逮捕歴があるチンピラだ」

驚くほどに小物。だが、この男がレイを狙った理由がますます謎だ。怨恨か?

「サービスで居場所も教えてやる。ここと近い、ノース・トレーラーパークの崖に面したとこだ」

マゼランがぬるりと笑い、飲みかけのコーラ缶を床へ投げた。甲高い音と共に、部屋の片隅で缶の山が崩れ、発酵したような甘い悪臭がさらに漂ってくる。

「脅迫状の数字は何の意味がある?金に変えてくれよ」

マゼランは不自然にもその数字には振れていない。その意図はわかる、がエルの仕返しをしないとな。

「知らん、オレンジフッドが適当に付けたんだろ。その数字でヒットしたのは時計会社の銘柄コード、印刷局労働組合の識別番号。それと冴えない警官のバッジナンバーだけだ」

少しだけイラついた様子のマゼラン。エルが私を見て、少しだけ微笑んだ

「今わかるのは、ここまでだ。金を、アレに渡せ」

アンドロイドの一体がすっと前に出てきて、無言で手を差し出した。“金の受け渡しすら人間とはしない”――それがこの男の流儀。分厚い封筒を手に握らせると、彼女はニコリと笑って後ろに下がり、開いた腹にそれを閉まった。

「……助かった」

マゼランは一言も返さず、再びキーボードへ没頭する。部屋の空気はゴミ捨て場のようだが、自然と気にならなかった。エルは、私の袖を握って逃げるように廊下へ飛び出した。

扉を閉めた瞬間――。

「……はぁぁぁっっ、生き返ったぁ……!」

マンションを出るとエルが路地の隅で茜色の空を仰ぐ。肺いっぱいに空気を吸い込み膝に手を付く。頬に涙、髪には異臭が染みついていた。

「ミア、マジで平気なの? あんな部屋、絶対ヤバいって……!」

「……仕事で慣れた。エルも慣れたほうがいい」

エルは顔も上げずに頭を大きく振った。嫌悪と吐き気の渦の中で疲弊していた。そんなエルは珍しい。だが、頭の中で――“オレンジフッド”、“脅迫状”、“麗軒飯店”、“レイ”――点と点が、わずかに細い線が繋がる。

「ねー。そのオレンジフッドってさ、何のためにそんな事したの?」

エルの声が低くなる。私は短く答えた。

「……本人に聞くしかないな、多少痛めつけてな」

心の奥で、レイとヤンヤンの顔が浮かぶ。なぜ、あの店なんだ。レイへの嫌がらせ?ヤツもゼニス・スパイアの住民ならそんな真似しないはずだ。それともシルヴィアがターゲットか?それとも――知らなかったのか。

「うん、そうしよ。でも…何がオレンジなんだろ。マゼランに聞き忘れちゃった」

エルは重そうにドアを開けて、シートに倒れ込むように座る。

ヤツの口から何が出てくるか楽しみだ。その先に、何が待っていようと。

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