2-6

屋敷の中は銃声一つ聞こえない。もうヴォルフ・プラトフの連中はいない。

エルの背中越しに、凄まじい戦闘の跡が見えた。穴だらけの壁に天井。床一面に転がる薬莢と瓦礫。廃墟と化したエントランス。まだ塵で靄っぽく、火薬の匂いが濃く残っている。

要塞の正面にはぽっかりと穴が開いて、壊れたブルドーザーはその中央で瓦礫に埋もれて沈んでいる。

その鋼鉄のルーフの上に立つのはシルヴィア。この屋敷で手に入れた書面を眺めている。

「終わった。回収したぜ」

サンプルが入ったメタルケースをシルヴィアに見せた。それを見て彼女は口元を緩めた。

「ご苦労様。これから“それ”をNOVAのお偉いさんにそれを渡しにいくわ。それともあなたの手で渡す?」

エルと顔を見合わせる。不安そうな表情で見てくるが、決まってる。腹の傷はもう痛みはない。

頷くと、シルヴィアは軽々とルーフから降りて、外に向かう。その姿が何となく猫みたいだ。

先には黒くて角ばった長い影。

「うわぁ!リムじゃん。うちにこんなのあったんだ」

「昔の衝動買いよ。仕舞い込んでたけど、ブルと一緒に倉庫から出してみたのよ」

シルヴィアは観音開きにドアを開く。対面式のレザーのシートに、レースのカーテン、小さな冷蔵庫と冷凍庫、木目調パネル。カクテルテーブルにはシャンパングラスが用意されている。シルヴィアの執務室のような車内。

「いいのかよ、シルヴィア。……その、汚いぞ。私たちは」

「くだらないこと言わないでちょうだい。お祝いよ、二人とも乗りなさい」

エルが私を、革張りのシートにゆっくりと置いた。柔らかいシートに身体が沈む。消毒液の匂いのする救急車の診療台よりも、居心地がいいだろう。乗り込むとシルヴィアが運転席に合図するとリムジンはゆっくりと発進した。

「ヴォルフの拠点を潰して、仕事も達成、おまけに大量の武器とヘリのボーナス。ま、構成員には逃げられたけど……得たものは、ずっと多いわね」

シルヴィアがシートに背中を預けて満足げにシャンパンを開けて、三つのグラスに注いだ。その横顔は、貴重なシルヴィアの笑顔。

エルは隣で、半分眠りかけている。口をわずかに開けて、柔らかな呼吸。額にはうっすらと汗が浮いていて、頬もわずかに紅潮している。きっと、張り詰めていた神経がようやくほどけたのだろう。そして身体は煙と鉄の匂いがした。

……私も同じ。

腹の奥がまだ熱を持って疼いていたが、不思議と心は穏やかだった。窓を開けるとまだ燃え殻の匂いが残る。

「そうそう、地下の車。あなた達の好きなのをあげるわ」

何気ないシルヴィアの一言に、エルがぱっと顔を上げる。

「えっ、本当に……?!じゃあ、マジェスティのセダンがいいな。クラシックなやつね」

さっきまでの戦闘が嘘のように、目を輝かせる彼女に私は小さく笑って頷いた。

「私はテツマのスポーツカー、あとパーツも少し欲しい」

シルヴィアはグラスを持ち直しゆっくりと頷いた。さらに満足げに微笑む。その笑みを見ながら、私もシャンパンを一口——喉を通った刺激に咳き込む。

エルがゆっくりと背中をさすりながらも、自分のグラスをちびちび飲んでいた。唇の端がわずかに笑っている。

窓の外では、ゾラの要塞が遠ざかっていく。焼け焦げた鉄骨。まだ立ち上る煙。破壊された残骸が、ゆっくりと朝の光に飲まれていく。

さっきまでの“地獄”が、まるで遠い昔のように流れていく。

「……それにしても」

シルヴィアが、ゾラの部屋から持ち出した一枚の写真を見つめた。

「イリーナ・セミョノフが本当に生きていているなんてね」

冷徹で美しい女——赤い瞳の異形が、無数の視線でこちらを睨んでいた。

「荷物も取り戻して、拠点を潰した。イリーナの顔にも泥を塗った。実に、愉快ね」

満足気に、グラスを軽く掲げた。そんなシルヴィアの様子に、思わず口を開いた。

「シルヴィアの言う通り、“別格”だ。遠くからだが、死ぬかと思った」

あの、屋上にいた——視線ひとつで空気を支配した、“女”。シルヴィアは写真を伏せて、軽く息を吐いた。

「えぇ、だから手出ししちゃダメ。あなた達も運が良かったのよ」

「だねー。……怖かったよ、ほんと。眼が離せなかったもん」

エルがそう言って身体を伸ばす。こうなったエルは、オフになっている。

「でもさ、ちょっとだけ。…シルヴィアに似てたよ」

その言葉に、シルヴィアが小さく吹き出す。

「ふふ、言ってくれるわね。まあ、確かに目つきは似てるかも。昔の私とね」

冗談めかして笑っていたが、その笑いの奥に、ほんの少しだけ、イリーナと違うものが見えた。黙ったまま、あの赤い目を思い出した。

シルヴィアと、イリーナ。確かに、何かが似ている。けれど、違う。シルヴィアの目の奥には、情がある。イリーナの目には……命さえも“モノ”でしかないような、徹底した冷たさがあった。

「ま、これから会うNOVAのお偉いさんにも話しておきなさい。喜ぶわよ」

シルヴィアが再び、グラスに注ぐ。エルは注いだが、私は断った。穴の開いた腹からシャンパンが出てきそうなだから。

「私と一緒にイリーナと戦ったことがあるから」

「旧友って……その人?」

「ええ。名前はダリア。昔の私の部下よ。戦後にNOVAに引き抜かれて、今はそこそこ昇進したらしいわ」

懐かしそうに目を細めながら、グラスを傾ける。

ポケットからメタルケースを出す。このデータがこの一件の始まりだ。これを巡って、大変なことになった。

「……シルヴィア。なぜ、こんなものを奴らが欲しがったと思う?」

シルヴィアにケースを手渡す。彼女はそれをゆっくりと見て、机の上に置いた。

「さあね。中身のデータはわからない、これがどれほど価値があるのかもね。ただ、ヴォルフは“特別な”理由があったんでしょうね。金でも、武器でもない、別の何かが、ね」

車内の空気が冷え、シルヴィアが窓を閉める。

その特別な理由。いくら考えたってわからない。ただヴォルフのような潤沢な資金と武器を持った組織とウイルスを結ぶと嫌な予感しかしない。

「……でも、本当に嬉しいわ」

シルヴィアの次の言葉には、酔いも、飾りもなかった。

「我が子たちが、勝利を掴んだ。あのヴォルフに勝ったですもの……」

言葉を失った。シルヴィアの言葉が、こんなにも温かく響くなんて——あの口から、こんな本音が出るなんて。

だからこそ、何も言わず、ただ小さく頷いた。

エルは照れて微笑みながら、シルヴィアのシャンパンをもう一口。その頬には、少しだけ紅が差していた。

静かで、ささやかな勝利の夜だった。

だが、その背後には、イリーナの影がずっと——横たわっていた。

いつの間にか窓から見える風景は街だった。屋敷に一番近い湾口都市だ。

リムジンは屋敷から街の中心にそびえる高級ホテルの車寄せに静かに滑り込んだ。鋼とガラスで構築された、やけに派手なビル。玄関は白いタイルと植木で囲まれており、朝まで飲んだ酔っ払いの喧騒とは切り離されている。

その最上階——重厚なセキュリティドアの先が、今回の受け渡し地点。

部屋に一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。静謐、というよりは無音の威圧。天井近くの四方にはNOVAの精鋭隊員たち。無言で警備に就き、誰一人として瞬きすらしないで私たちを見ていた。

その緊張感の中、中央の応接室へと通された。

——そして、彼女はそこにいた。

ダリア。NOVA戦略部所属、階級は“少佐”。

今は軍服ではなく、艶のない黒のスーツに身を包む。姿勢は直立したまま微動だにせず、灰色の瞳が鋭くこちらを射抜く。

だが、その視線がシルヴィアへ向けられた瞬間、微かに震えた。

「“大佐”……お久しぶりです」

——それは畏敬。

彼女の中に深く刻まれた過去の忠誠心が、表情をわずかに揺らした。その声には“感情”があった。だが、シルヴィアがすかさず、口を挟む。

「“大佐”はやめなさい。私はもう軍人じゃないわ」

そして小さく笑った。眼を緩ませて、旧友との再開のように。

「ダリア、あなたは変わらないわね」

その言葉に、ダリアは一歩だけ背筋を伸ばした。かつての癖が体に染みついているようだった。

「差出人は……残念だったわね」

シルヴィアが静かに告げる。あの、廃工場を思い出す。最後まで任務を全うした男のことを。

ダリアの瞳が一瞬だけ曇り、シルヴィアから目を背けた。

「……はい。明日、奥方に会って伝える予定です。もちろん亡くなった事、以外は話せませんが」

感情を殺している声だが、確かに痛みと誠意がある眼をしていた。

「慣れることはない。覚悟は決めときなさい」

シルヴィアの言葉に、ダリアは無言で深く頷いた。

しばし、室内に沈黙が満ちる。

やがて、エルが数歩前に出る。データの入ったメタルケースをまっすぐに差し出した。

「これが……“お届けもの”。確認して」

ダリアは一歩踏み出し、丁寧にそれを受け取る。指紋認証で慎重に開き、端末に繋いで中身を確認する。

薄く光を反射する瞳。“中身”をしっかりと確認する、正確無比な眼。

「……任務、完了と認定します」

簡潔な一言。

しかし、その一言で肩の力が少しだけ抜けた。完全に終わった。腹の底から力が抜ける感覚。

「支払いは後日、指定口座に送金します。依頼金の三倍——“作戦中に消費した武器と弾薬、及び交渉金”。そちらも特別危険任務指定で処理しますので、安心してください」

その口調は一貫して冷静だったが、言葉の端々には労いの熱がわずかに滲んでいた。

「ウイルスのデータらしいわね。またテロかしら?そんなニュースは見てないけど」

シルヴィアが目を細める言った。ダリアは手のケースに視線を落とし、わずかに口元を引き結んだ。

「数日前、南方の小国のとある村が全滅しました。もちろん、ウイルス感染で。これは、そのウイルスのデータです」

一瞬の間。町の火が記憶によぎった。遠い、遠い昔の記憶が。

「感染力はさほどありません……ただ構造が不自然すぎるます。恐らく設計された“新種”です」

次の言葉を遮るように、ダリアはあえて咳払いした。

「……あとはトップシークレットですので、この場では控えさせてください」

空気が、わずかに冷えた。シルヴィアが口を閉じる。

「また、ご提供いただいたゾラの写真を照合したところ、ゾラ・モロゾフという人物が該当しました。強盗、殺人、誘拐、テロ等でスヴェトで指名手配の生粋の悪人ですね。今後、彼女のような腫瘍は優先排除対象としてリスト化されます。……あなた方の働きに、心より感謝いたします」

ダリアがそう静かに告げると、隣でシルヴィアがふっと鼻を鳴らした。

「“優先排除”ね。まぁ、ゾラは確かに目障りだったわ……」

手元のグラスを揺らしながら、彼女は言葉を続けた。

「……ああいう“爆弾”を抱えるイリーナの思考もわからないものよね」

その名が出た瞬間、ダリアの灰色の瞳が、わずかに動いた。

「イリーナ・セミョノフ……」

声にはわずかに戸惑いと緊張が滲んでいる。

「イリーナは今でも……」

言葉を濁すダリアに、シルヴィアが静かに頷いた。

「ええ、生きてるわ。——この子たちが、その目で確かに見ているのよ」

私は無言で、ゾラの部屋で見つけた写真を一枚、応接テーブルの上に滑らせた。血のように赤い瞳、白い肌、黒い軍服。あの夜、月明かりの中で見た“氷の女”と、まったく同じ顔。

「見たのは……この女だ。接敵してないが、ゾラとは“格”が違った」

ダリアは写真を手に取り、そのまま数秒、呼吸を止めて沈黙した。手が微かに震えていた。過去の記憶が理屈を超えて、恐怖となって襲う証。

「……今夜は祝杯よ。我が子たちが、また一つ、地獄を越えて戻ってきたんだから」

シルヴィアがグラスを高く掲げた。その声音は冗談めいていたが、滲んだ本音に、胸の奥がわずかに熱くなる。

その瞬間、ダリアの表情がわずかに揺らいだ。灰色の瞳が、私とエル、そしてシルヴィアを順に見比べる。それから、静かに口を開いた。

「……“我が子たち”、ですか。まさか……大佐、世継ぎを?」

真顔だった。まっすぐで、誠実で、どこか切ないほど不器用なその問いに、私たちは一瞬言葉を失った。

シルヴィアは、ふっと肩をすくめる。

「……ダリア。ほんと、昔から変わらないのね」

呆れたようでいて、どこか優しくて。そこには戦場を共にくぐり抜けた者同士にしか生まれない、深い絆のようなものなのか。

「でも、まぁ……あなたが“堅気”になったのは正解だったのよ」

シルヴィアはグラスを軽く揺らして、それを照らした。

「だから、今でも——信頼できる。……まぁ、“当局のリスト入りの元上官”と、今も繋がっている時点で、それなりに道徳ラインは怪しいけど」

随分と毒を含んだ冗談だった。だが、確かな“誇り”と“信頼”が見えた。ダリアは言葉を返さず、ただ小さく頷いた。

「……任務はここで完結します。ですが——戦争は、まだ終わっていませんね。お互いに」

ダリアの声は静かだったが、その響きは確かだった。

それに小さく笑って応えた。

「……ああ。たぶん——始まったばかりだ」

部屋の空気が、微かに張り詰めた。

私とエルは、黙って目を合わせる。生きてここにいる。それだけで、今夜は——少しだけ、意味があったと思いたい。

沈黙の中、シルヴィアのグラスがカチリと音を立てた。

その音で、本当に仕事が終わった。

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