2-5
「逃げ道はないぜ、残念だったな。……ついでに、あの車も貰っておいてやるよ」
そう言うとむせこんだ。鮮血を霧吹きのように吐き出した。
ゾラは更に歪んだ笑顔を見せる。怒りを通り越したような歪な笑顔を。
「フフッ。アハハハハッ!アッハッハッハ!」
ゾラは笑った。高い声を上げて本当に面白いように。違う、その笑い声は負け惜しみではない。
「本当に馬鹿なのねぇ!たかが車とヘリを潰したくらいで何てことないのに。……本当におかしいわ」
そうゾラは空を眺めた。遥か先に小さな赤い点滅が見えた。増援、か。一定時間、連絡がないと来るようになっているんだろう。
「ここ一帯をあなた達ごと焼け野原にしてやるわ。……でも、あなたは特別に、私がやってあげる」
銃口が額に向いている。躱せる距離ではない。シルヴィアの武器を持っていくべきだった。
……ここまでか。エル、ごめん。ミスった。
引き金にかけた指が白くなるのが見えた。
その時、銃声が空を裂いた。ゾラの手の中の拳銃が吹き飛んだ。
「なっ……!」
驚愕と怒りと恐怖が、ゾラの顔に同時に浮かぶ。
そして次に銃声でゾラの肩が抉られる。飛び散る鮮血と共にゾラは倒れ落ち、小瓶がヘリポートに転がる。
私も顔を向ける。
視界の端。そこにいたのは——エル。
立っていた。そこに、エルがいた。
月明かりを背に、銀の銃身を傾けていた。彼女の瞳はくすんでいる。いつもの無邪気な青ではない。冷たい、鋼の色。
「よくも……ミアにッ!」
その声が聞こえた瞬間、一転。ゾラの笑みが崩れた。痛みすら忘れるような、冷たい空気が流れる。
エルは拳銃を捨てて背中に背負った銃を構える。手にしているのは、見慣れた銃じゃない。……対物ライフル。あんなもの、撃ったら——ゾラは一撃で消し飛ぶ。
「……“それ”はやめろよ、エル」
立ち上がって言うも、声にならない。口が動いたのに、肺が鳴らない。
ゾラがゆっくりと立ち上がる。肩はぶら下がり、血がコンクリートを打っている。けれど、目は死んでいない。それどころか、まだ戦う気だ。
でも——エルも、終わっていなかった。
狙いが定まっている。彼女はもうゾラしか見えていない。ライフルの引き金にかかる指が、ほんのわずかに——沈む。
「やめろ!! 生け捕りだッ!!」
私は駆けた。同時に、腹の傷が破れた。熱と圧が一気に弾け、血が吹き出す。肺が押し潰され、視界が真っ白になる。
「エル……だめだ……撃つな……!」
膝が崩れそうになるのを無理やり踏みとどめ、次の地面を蹴る。左足、滑る。右足、靴底が裂ける感触。
「おいッ……エル!!」
喉が破れるような声を上げて射線に跳び込んだ。
エルの瞳が揺れた。指が、引き金から離れようとする。でも、もう遅い。
バレルが軋み、銃口が爆発する。エルの腕がその僅かな時間で無理やり銃口を逸らす。
一瞬、音が遅れてやってくる。
髪が裂け、頬が風で焼けた。弾丸が顔面すれすれをかすめて、夜空を引き裂いていった。
次の瞬間、背後のコンクリートがはじけ飛び、散った。
……ほんの数ミリ。たった、それだけの距離。エルは逸らした。
「ミアァァ!!?」
叫びが傷にジリジリと響いて痒い。
急に視界がひっくり返り、足がもつれ、膝が折れ、崩れ落ちた。
エルが駆け寄ってきて、震える手で私の腹を押さえた。白い手が血に染まり、顔は歪み、声は震え、目には……涙があった。
「悪い……こうでもしないとな……」
身体中から滴る汗と血が混ざって、地面にじわりと染み込んでいく。
「大丈夫!? お腹……すっごい出血……」
まただ。また泣かせた。
「……弾は抜けてる。大丈夫……たぶん」
息を吸うたびに、内臓が軋んだ。でも——今は、それでいい。
「……あれ……頼む」
指差した先。血だまりの中に、ひときわ光る小さな影。
——小瓶。あれが、すべての始まり。あの小さな小瓶、あのウイルスのサンプルらしい。私たちが“運んできたもの”。
エルは静かにそれを拾い上げ、両手で包んでポーチへ収めた。……仕事は、これで終わった。
そう思った。
でも——次の瞬間、足音。
「……何よ……なんなのよ……!」
ゾラの叫びが、砕けた硝子のように空気を裂いた。耳を刺すようなその声は、怒りというより、喉を焼き尽くすような——。
ヘリポートに冷たい風が吹きすさぶ。火薬と鉄、そして血の匂いが混じった空気が、湿った吐息と共に肺を焼いた。
私は、ゾラを見ていた。
足を取られながらも、奴は立っていた。血まみれの身体、崩れかけた姿勢、なのに、赤い瞳だけが、鋭く私とエルを見据えている。
だけど……もう“戦う眼”じゃなかった。
「一人じゃ……なんにもできないくせに……」
「ただの雑魚のくせに……!!」
言葉はめちゃくちゃで、声も割れていた。だけど、その奥にあったゾラの感情だけは、嫌というほど伝わってきた。
——痛みだ。
隠しようのない、本能からの悲鳴。自分でも気づいていないほど深く、心の底で腐っていた何かが、溢れ出していた。
背後は、空と海だけ。
吹き上げる夜風がゾラの身体をぐらつかせる。それでも目は逸らさない。焼きつけて、睨み続ける。
「なんなのよ……あなた達!!」
怒鳴るたびに、声が震える。足も、肩も、揺れているのに——瞳だけが、凍りついたように動かない。
「殺す……絶対に……全部引き裂いてやる……!苦しめて、苦しめて、殺してやる!」
息も絶え絶えの身体で、血と泥にまみれながら、それでも奴は、怒鳴り、吠え、最後の言葉を吐き散らす。
だけど、そこにもう力はない。あれはチンピラじゃない。獣ですらない。ただの——壊れた女だった。
「ゾラ!!やめろ!!」
思わず声が出た。反射的に。止めなきゃ、と心が叫んでいた。
だけど。
ゾラは、ふらりと一歩、前へ出た。顔には怒りと憎しみが溢れている。自分の存在の終わりを突きつけるような——最後の足取り。
次の瞬間、重力がすべてをさらっていく。
飛び降りる、その直前まで。
ずっと私とエルを睨みつけていた。最期に口元には、笑みが浮かんでいた。
ゾラが視界から消え、風が残る。ただ冷たいだけの、通りすぎる風が、ゾラの姿を連れて行った——はずだった。
——轟音。
凄まじい風圧が、ヘリポートの床をまるごとめくり上げるように吹き上がった。肌の表面ではなく、皮膚の内側を逆流して全身に入り込んでくる。
ゾラの身体は——落ちていなかった。
驚愕に目を見開いたまま、見た。下から、漆黒の武装ヘリがせり上がって現れた。
そこにはゾラ。歪んだ笑みを浮かべて私たちを見下していた。
滑るような軌道、信じられないほどの精密さで、ゾラを空中で回収した。いや、ゾラが合わせたのか?呆然と、いや、呼吸すら止めてその機体を見ていた。
だが……本当に恐ろしいのは、その中にいた“女”だ。
操縦席のすぐ隣。
無言で座っている、その女の姿が視界に焼きついた。ゾラの部屋で見た写真の女。白銀の髪。長く曲がりもないストレートの前髪の奥に、真紅の瞳。
こちらを、見ていた。
一瞬、心臓が止まったかと思った。腹の痛みさえその間は忘れる。
怒りじゃない。軽蔑でも、侮辱でも、同情でもない。あれは……“観察”だった。
何かを憎んでいるわけでも、否定しているわけでもない。ただ静かに、私とエルを見ていた。
空気が変わった。
重い。肺が潰れそうだ。まるで、この空間そのものが“処刑台”になったような。
隣で、エルが小さく息を呑む音がした。私も同じだった。
——この女は、違う。
シルヴィアでも、こんな目はしない。獣の目でも、女帝の目でもない。
「生死の司る死神」——まさに、それ。
そして、彼女は一言も発さないまま、ただ操縦士に視線を落とし、わずかに口を動かした。
その一瞬が——判決だった。
武装ヘリが風を裂き、空へと飛び去っていく。ゾラを回収しながら、こちらには一発の弾も、一言の宣言もなく。
ただ「見るだけ」で、すべてを終えた。
残されたのは、振動と、耳にこびりついた機体のエンジン音だけだった。
その女が去っていくまで、私もエル……一歩も動けなかった。呼吸を取り戻したのは、ヘリが完全に見えなくなってから。
まるで身体の中から重しが剥がれ落ちたようだ。肺を大きく開かせた。隣のエルも、無言のまま空を見上げている。
イリーナ・セミョノフ。一瞬で分かる。シルヴィアの忠告は正しい。それが今、視線ひとつで理解させられた。
——あれが、“本物”だ。
ヴォルフ・プラトフ。ゾラは確かにその「牙」だった。だが、その全ては、あの女の身体の一部でしかなかったのだ。
「……今のが……」
口にした言葉は、最後まで声にならなかった。エルが、小さくうなずいた。
「……たぶん、イリーナだね……」
夜の風が、冷たく頬をなでた。そこにもう温もりはなかった。
嵐は去った。
けれど——“心臓”は、まだ落ち着きそうにない。
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