2-4
最上階のフロアは静まり返っている。どうやら誰もいないようだ。まだ下で全員戦っているのか。
ゾラはいなくても部屋はあるはず。
空調の唸りも止んだコンクリートの廊下を走る。度々、下の階での爆発音が鉄骨を伝い、窓を震わせている。
すると廊下の一番奥に異質な扉が見えた。重厚な鉄扉。その前に立つ。
ゾラの執務室。部屋からは物音ひとつどころか、気配さえしない。
呼吸を一つ置いて、銃を確認する。
勢いよくドアを蹴り開けた。その先には——誰もいない。
室内は異様なほど整然としていたので一瞬で分かる。打ちっぱなしのコンクリートの壁。無機質な金属机、硬い椅子。資料棚に並ぶ型番だけのファイル。
パソコンも、端末も、モニターすら存在しない。確かにゾラが座って仕事をするタチには見えない。
だが、部屋の脇の隣のドアがわずかに開いていた。
そこから流れ出る、ねっとりとした熱と甘ったるい“匂い”。あの女の香水の匂いだ。
一度だけ鼻で息を吐き、銃を構え直す。数歩。そしてその扉を、押し開けた。
見えたのは赤。
深紅のベルベット絨毯。金縁の家具。
そして天蓋付きのベッド。そこからは湿り気を帯びた香り——それはゾラの肌の匂い。
眉をしかめた。 無性に腹が立つ。
武器ラックには過剰な火器が整列し、骨董品の刀剣のように展示されている。
その横には実際には見たこともない拷問具や悪趣味な玩具が所狭しと並べられていた。
壁一面には、同じ女の写真が貼られている。血のような瞳、白磁の肌と長い髪、黒い軍服。
その一枚一枚には、血でなぞったズヴェト文字が刻まれていた。書いてある内容はわからない。
「……病院に行け、サイコ野郎」
その奥に、あった。
黒いアタッシェケース。即座に開封し、残っていたサンプルを確認。
「返してもらう」
ケースをもって、不快な部屋から廊下に出て、執務室の扉を閉める。
その瞬間。
「……何してんのよ、泥棒猫」
背後から、冷たい油に火を点けたような声が響いた。振り向くと、廊下の奥にゾラがいた。
真紅の双眸が怒りに滾り、だがどこか粘ついた快楽の匂いを帯びている。
その手には短機関銃が握られていた。
「返してもらうわ。それに勝手にレディの部屋に入ったことも――」
執務室へ飛び込む。
同時に、連射。機関銃の銃声が廊下を引き裂き、壁も床も天井も蜂の巣になる。破裂する空気。跳弾が髪をかすめる。
執務室の机を蹴り上げてカバーを取り、弾を撃ち込む。
だが敵は引かない。ゾラの連射は止まることがなく、頭を下げた。音と火薬の熱が天板越しに伝わってくる。
銃声が止まる——再装填だ。
跳ね起きて構えた瞬間、煙幕弾が床に転がった。
「なんてヤツだ」
白煙が爆発的に広がり、手元すら見えない視界。だが耳も鼻も生きている。
「それを返しなさい、雑魚」
その声が迫る。姿は見えない。だが感覚で読んだ。
“音”と“匂い”。
煙の中、足音が近づく。横に転がって回避。
その直後、銃弾がさっきまでいた場所に食い込んだ。手探りで握られた機関銃を蹴り飛ばすと、ゾラの足音が跳ねる。
目の前からナイフが閃いた。銃尻でそれを弾くが、背後から飛んできた肘が脇腹を抉った。
「……ぐっ……!」
アイツの身体どうなってんだ。
呻きとともに銃を落とす。すかさず反撃。後ろ蹴りがゾラの腹に突き刺さる。
「ぉあっ……!」
湿った吐息を漏らし、ゾラは数歩後退。だが嗤っていた。
「やるわねぇ…あなたの事、好きになって来たわ」
声が、完全に“昇天”していた。
次の瞬間、煙の中で再び激突。拳と膝、肘とブーツが交錯する。
拳が頬に沈む。ゾラの膝がみぞうちを狙うが、それをブロックしつつ足を払う。
格闘技などではない。本能で叩き合う、殺し合い。
段々とスモークが溶けていき、ゾラの顔が露になった。
その瞬間、ゾラの拳が頬を裂き、牙が私の肩に食い込んだ。
「お前…犬かよ……!」
引きはがし、頭突きを返すと、ゾラは笑ったまま数歩後退。ゾラは額から血を流し、目の奥が光っていた。
「返してもらったわよ」
その手には、アタッシェケース。器用に私の死角からそっと掴んでいた。ゾラはそのまま、踵を返して走る。
「逃がすかよ……!」
滲む脇腹を押さえながら立ち上がり、落ちた銃を拾う。
「絶対に逃がさないからな」
ゾラの背中を追い、階段へと駆ける。
脇腹の痛みがずっと警報を鳴らしていたが、今はそれすら気力になる。
——ゾラ。
逃げ場はない。下は制圧されたんだろ。地下駐車場も防がれている。なら、行き先はひとつ。
屋上の扉を蹴り開けた瞬間、潮風が顔を撫でた。
夜の湿気に混じる、かすかなガスの臭い。
視線の端。そこにいた。
ゾラ。
ヘリの側、アタッシェケースを左手に、月光の下に立っていた。
背中から見てもわかる。奴の肩は揺れていた。あれは焦り。いや——苛立ち。
逃げてるんじゃない、追い込まれてるんだ。
……ざまあみろ。
そのまま、銃を構える。
ゾラはヘリを見ていた。燃料タンクの横、白いガスが静かに揺れていた。
——今さら飛べるはずがない。
「……やってくれたわね」
風が変わる。
ゾラが振り返り、こちらを見た。真っ赤な目。頬が笑いに歪む。
まるで、また“終わらせる”とでも言いたげに。
「ほんと、気に入らないメス犬ね」
その声に血が逆流した。体が熱くなる。
「殺されないで済んだのに」
視界の中心に、あの顔がある。
「遠慮する。今度は、こっちの番だ」
セーフティを外す音がやけに響いた。
一瞬の静寂。
——次の瞬間、銃撃。
閃光。轟音。屋上の鉄板が火花を散らし、互いの影が遮蔽物を飛び越える。
一発ごとに位置を変える。撃つ、動く、撃つ、伏せる。
ゾラも同じ。だがあいつの右手の動きが甘い。銃を蹴ってやったときに捻ったようだ。
数発の撃ち合いの後、金属音——弾切れ。
「っ……!」
互いに構えたまま、視線が交錯した。動いたのは——ほぼ同時。
銃を捨て、拳を握る。遮蔽を蹴って、肉体がぶつかり合う。
ゾラが膝を跳ね上げてくる。私の肘が頬をかすめ、奴の回し蹴りが脇腹を抉る。
傷を的確に抉るゾラの蹴り。痛みとアドレナリンがぶつかり、理性が削られる。
「くそっ……!」
左肩を軸に回転し、踵をゾラの腹へ叩き込んだ。
「——がはっ!!」
ゾラが膝をついた。赤い液体が口から滴り、奴の手が地面に這う。
——終わった。
そう思った。
……が、その時。
「舐めるなよッ!!」
ゾラの手がアタッシェケースから離れ、それを海へと投げた。
「なっ——!?」
目が、そちらに向く。
その一瞬。
腹に焼けるような衝撃。身体が跳ね、地面に叩きつけられた。
「ッ……ぁああっ……!」
腹から熱い液体が溢れる。それを触ると手がべっとりと赤く濡れている。視界が染まる。耳鳴り。呼吸ができない。
ゾラが見下ろしていた。口に、小さな小瓶を咥えている。左手には、小型の拳銃。銃口からは煙が出ている。
「切り札はとっておくものよ……ほんと最高よね」
小瓶を指で弄びながら笑っている。本気で、笑っている。
銃口が顔向けられる。
汗が止まらない。考えろ。この状況を乗り切る手段を。だが、何もまとまらない。呼吸整える以外になにもできない。
しかし、エルの顔が浮かんだ。飛び切り明るいあの笑顔が。
風が熱い身体を冷やした。
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