2-3

足音が消えた二階の廊下に這い出る。その手すりの下に広がるのは、闇に沈んだ屋敷のエントランス。照明は死に、センサーは沈黙し、セントリーガンは首を垂れたままだ。

銃声と軍靴の打音と怒鳴り声が入り混じる。まだ要塞は混乱の只中にあるが、猶予はもうない。

腕のデバイスが着実に時間を刻んでいた。予備電源の再稼働まで、残り――三十秒。

「エル……急いでくれ」

通信機からはノイズ交じりの音。だが、その中に、聞こえた。

『もう突っ込むよ。派手に行くからねっ!』

その声が耳を打った一瞬後、地を割るような咆哮が、要塞の外壁を震わせた。

──来た。

闇の向こうから現れたのは、轟音とともに突進する怪物。バリケードを薙ぎ倒しながら現れた、鋼鉄の塊のブルドーザー。

構えた警備兵の一団に、モンスターのヘッドライトが鋭く光を浴びせて、一斉に銃を放つ。

しかし、鋼鉄には鉛玉は意味がない。次の瞬間には全員が逃げ出す。

だがもう遅い。

「っ……!」

轟音。衝突。崩壊。巨体が外壁ごと突入した。歪む金属、砕けるコンクリート。粉塵と火花が爆ぜ、要塞全体が悲鳴を上げて軋んだ。

地面が揺れ、階段が落ちる。廊下に埃と塵が吹き込んだ。

視界の下、ブルドーザーは止まることなく、瓦礫を押しのけてエントランスの中央へ進み出る。

「……かましてやれ」

警備兵も再び応戦を始める。重機関銃が火を噴き、ライフル弾がモンスターの装甲に連続で叩き込まれる。

だが、その鋼鉄の巨体は火花に囲まれても止まらない。

〇秒。補助電源が作動し、要塞に灯りが戻る。

照明が一斉に点き、警報が唸り、天井のセントリーガンが動きを取り戻す。赤いセンサーが再点灯し、首をもたげた銃口がブルドーザーに照準を合わせた——

……が、それも遅い。

通信機に、あの声。

『撃つよ!でっかいのを……!』

心臓が跳ねた。同時にブルドーザーの主砲が車体の後部からせり上がる。壊れそうなほどエンジンの駆動音とモーター音を響かせた。

ゴロリと傾いたその砲口が、青白く光を蓄える。

そして――閃光。

「っぐ……!」

とっさに顔を背け、耳の通信機を投げ捨てる。EMPの白い閃光が炸裂し、ガラスがビリビリと震え、外気が一瞬真空になったかのように音が消えた。

照明が一つ、また一つとスパークしながら沈黙し、セントリーガンは首を落とし、監視カメラが煙を上げて崩れ落ちた。オートガトリングが沈黙していく。それを見届ける前に、モンスターの背後からトラックのエンジン音。

シルヴィアの突入部隊だ。時間通り。完璧な連携。

この要塞にいる全員が今、手探りだ。ようやく“アウェイ”と“ホーム”の差が埋まった。

もう一度だけ下を見た。衝突の衝撃で車体の前部がへしゃげたブルドーザーの隣に、エルの姿が見えた。顔は汗に濡れ、アサルトライフルを抱えて息を整えている。身体が熱い。

「……ちゃんと守ってるぜ、エル」

彼女は彼女のやり方で、この要塞を切り崩した。なら、私もやる。もう迷っている時間はない。

煙の満ちるダクトを這い進み、闇の向こうへと体を滑らせる。

「約束、だからな」

今度は私の番だ。ゾラの“足”を奪いに行く。

一呼吸。呼気と一緒に胸の重さを外に押し出し、地下の階段に走る。

地下駐車場はもうすぐだ。走る。身を低く、気配を殺して。鋭角に折れ曲がった廊下を抜けると、階段が口を開けていた。

壁際を這って下りる途中、下層の暗闇から足音――二人。反射で脚を止め、死角に沈む。二つの光が揺れている。

その光が通り過ぎる瞬間、警備兵の額に、膝を撃ち込む。骨が鳴る。悲鳴が出る前に、踵で押し倒す。

すかさず背後のもう一人に踏み込むが、読まれていた。兵の腕が振り上がる。咄嗟に身体を反らし、何かが頬を掠めて暗視ゴーグルが取れた。

頬を触るとべとついて濡れた感触。ナイフだな――間違いなく、訓練された動きだ。

「…そうこなくちゃな」

腰のナイフを抜き、間合いを詰める。

その刹那――相手のナイフが、弾丸のような速度で首を狙う。それを受け止めた波刃で絡み取る。刃と刃が交錯する金属音が響く。

相手がナイフと急に離す。直後、相手ののキックが脇腹に炸裂する。

「……っ!」

激痛を押し殺し、そのままに突進。体当たりで相手を掴んで、階段を転がり落ちる。

「っが、くそっ……!」

何度も壁に打ちつけられながらも、拳を叩き込む。腹を殴られ、顔を殴り返す。

肉と骨がぶつかり合い、息と血が交ざる。

階段の突き当りの壁に相手の頭が叩きつけられてようやく止まる。

隣を見る。兵士は後頭部を壁にぶつけたまま、白目を剥いて伸びていた。

「隠密…だからな…」

口に溜まった血を吐き捨て、首を鳴らす。肋骨がきしみ、腕に痺れが残る。手探りで暗視ゴーグルを掴んでかける。

足音を殺して、そばの壁の陰から駐車場を覗く。

外に繋がるシャッターは半開き。その奥に――黒光りする装甲車。エンジンは付けっぱなし。だが、乗員の姿はない。

エントランスに応援に行ったか、EMPの影響で一度逃げたか。

とにかく好機だ。あれを動かせば、出入口は潰せる。

視界の端、柱の影、右手。銃を構えた警備兵。こちらに目を向け銃を向けた。

楽はさせてくれない。

――即座にスライディングで滑り込む。足元に飛び込み、膝を払う。

銃声が爆ぜる。耳の真横を弾が流れた。鼓膜が焼けるようだ。

肘を相手のみぞうちに押し込んだ。呼吸が潰れる音と共に相手は地面に伏せ、その首に踵を落とした。

警備兵はぐったりと倒れた。

「この野郎、耳のそばで撃ちやがって」

左耳を押さえながら、装甲車に駆け込む。

アクセルを踏み込む。エンジンが唸り声をあげた。

「……よし」

車体が震え、シャッターへゆっくりと滑り出る。出入口を横向きに塞ぐよう、車体を差し込む。

重たい鉄の塊が、まるで巨大な栓のように出口を塞いだ。

さらに念を入れて、エンジンを切ってから鍵を折り、タイヤにナイフを突き立てた。

「もう逃げ場はないぜ、ゾラ」

その時。視界の端、並ぶゾラの愛車の車列の中に――ある一台が目を引いた。

最新の高級車とは違う、美しい曲線を描いた旧型の赤いスポーツカー。

純正の大型のリヤウイングに大口径のホイール、バケットシート。丁寧にワイドボディキットまで装着されていた。

海の向こうで製造された、規制前の大型ターボエンジン搭載車。かつて憧れた一台。今では滅多に姿が見られることはない。

「へぇ……いい趣味じゃん」

指先で車体を撫でて、軽く笑う。だが、今はその時じゃない。

「後でな」

そのまま身を翻して駆け出す。次は翼だ。逃げられないよう、空の道も叩き潰す。

駐車場の薄闇を抜け、エレベーターの扉をこじ開けた。

昇降路は銃声や爆音、怒声が響いていた。だがその先に点検梯子が見えた。残された“縦”の道——それが今の唯一の突破口だ。

背中で壁から伝わる振動を感じながら、手足を交互に動かす。焦げた埃の臭い、電気焼けした金属の匂いが鼻を突く。

下からは、再び大きな爆音。エルと、みんなが戦っている。

「…やることやらなきゃな」

一段ごとに脚が軋む。息を吸うたびに肺が焼け、喉がざらつく。だが止まらない。そんな時間はどこにもない。

三階ぶんを上がったところで、金属の軋む音。

——扉が開いた。

影。ひとり。扉の隙間から顔を出す警備兵と視線が交錯した。

目を見開く相手より先に、体を跳ねさせる。梯子を蹴り、跳び上がり、反動を殺さずにブーツの底を相手の顔面に叩き込んだ。

肉が軋み、銃が宙を舞う。そのまま兵士は廊下の壁に叩きつけられて崩れ落ちた。

「……あっぶねぇ」

額にいっぱい溜まった汗をふき取る。歯を食いしばり、再び昇降路の梯子に戻る。脚は熱く、腕は痺れる。汗と血で濡れた手が、滑りそうになる。

そしてようやく最上部の扉に付いた。

バールを差し込むと金属の隙間から、夜の風が流れ込んでくる。

ゆっくりと扉を開けた。瞬間——冷たい風が顔を撫でた。

そこは、屋上。誰もいないヘリポートに、ひときわ異質な鋼鉄の機体が鎮座していた。

攻撃ヘリ。双発ターボシャフト。まだローターは回っていない。

だが、燃料ホースが接続され、もうじき“飛び立とう”としているところだった。

——今しかない。

走る。ヘリに向かって一直線に。

ホースの根元を握り、力任せに引きちぎる。

次いで、燃料バルブを開く。鈍く噴き出す音。高揮発性のガスが白煙のように立ち昇り、潮風に散る。

指先に冷気がまとわりつき、ほんの一瞬、火を点けたい衝動に駆られた。

だが、火は不要。逃げ場を潰せばいい。

屋上の縁に立ち、下を見下ろす。

玄関にはシルヴィアの武装車両が数台止まっている。そして闇に乗じて侵入してくる味方の影がエントランスに入る。

それと度々外まで吹き出す黒煙と炎。

「……さて、離脱か…」

電気も逃走経路も断った。私の仕事はこれで終わり。

脳裏に声が響く。

『ミア、約束だからね』

通信は途切れている。けれど、それでも聞こえる。記憶の奥から、胸の底から、記憶とともに声が湧き上がる。

だが、その約束を破りたくてしょうがない。

エルがあそこまでやっているのに、自分はクルージング。それは違う。

目を閉じ、そして開いた。風が止んだような錯覚。だが身体は静かに熱い。

「エル、悪い。約束破る」

今、要塞は“目”も“翼”も砕かれた。

残すはただひとつ——ゾラ。

燃料の匂いを背に、階段に向かう。ゾラはいるかもわからない。もちろん荷物も。

だけど行かなきゃ。エル、ごめんな。

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