2-2

「必要なものはボートに積んである。準備ができたら連絡して」

シルヴィアが車を止めた。小さな波止場には明かりもなく、車のライトしか光源がない。

「了解。センサーをしっかり切っといてくれよ。的は嫌だからな」

シルヴィアから任せろ、と言わんばかりの視線を受け取った。

「じゃ、行ってくるから」

エルの手を二度軽く叩き、ドライブインで買ったホットドッグの包を抱えてドアを開ける。片足を外に踏み出した瞬間、袖を引かれた。

「ミア、約束だからね」

青い瞳がしっかりと私を捕らえていた。今度はしっかりと強い。もし破ったら、その瞳が歪むのだろう。

「あぁ。約束だ。……そっちも気を付けて。あと新しい“おもちゃ”の感想を聞かせてくれ」

エルはしっかりと頷いて車は発進する。去り際にリヤガラスからエルの顔が覗いてるのが見えた。

それを見送ってから、波止場にぽつんと停留したゴムボートに乗った。

置いてあるリュックサックを確認したら、拳銃、弾、暗視ゴーグル、それに時限爆弾、ナイフ、救急キットが入っていた。ベルトには手榴弾、脇にはグレネードランチャーとライフルまで用意されていた。

「戦争じゃあるまいし」

乾いた笑いが出た。エンジンをかけてアクセルを踏み込んむと、波のない海を切るように進んだ。

今夜は、まるで世界が終わったように静かだ。沖に出ても、うねる波すら控えめで、空と海の境界は闇に溶けていた。

肌にかかる海風は鋭く冷たく、あの女――ゾラに焼かれた傷跡を絶えることなく刺激する。けれど、その疼きすら助けになる。

波音と心拍音だけが耳の奥で交錯する。

最後の腹ごしらえにホットドッグを頬張って驚いた。

味が最悪だ。パンは溶けるように口に消えるし、ソーセージはゴムのような感触で脂っぽい。ピクルスはスカスカでケチャップは水っぽく塩味が強すぎる。だが、これの他に食うものがない。エルが頼んでいたチーズバーガーにしておけば良かった。心からそう思いながら雑味のあるコーヒーで流し込んだ。

これが最期の飯だとしたら、どうしようもない。

しばらく進むと遠方から伸びてくる白い閃光――探照灯の筋が見えた。まるでレーザーナイフのように水面を切り裂く。

その光の根元、切り立った崖の上にコンクリートの塊のような屋敷が見えた。

暗視ゴーグルを目一杯ズームする。見えたのは高い塀の上の巡回兵。各所に設置された固定砲。無数の監視カメラ。これに加えて戦車やヘリまであるのなら、もはやトーチカだ。

この屋敷に正面突破は無謀だ。たとえあの今夜のエルの“おもちゃ”でも。だから私の出番がある。

探照灯の光を避けるために海岸すれすれを進み、屋敷の崖の下まで着いた。

錨を降ろす。リュックから爆弾と弾だけを取り出して、耳に通信機を着ける。

深く、肺の奥まで空気を入れる。もう痛みはない。身体も僅かな痛みを覗けば、問題なく動く。

「岸壁に付いた。これから登る」

小声で通信を送る。

『了解。気を付けて』

シルヴィアの声で目が冴えた。次の一瞬、ボートの縁に足を掛けて宙へ跳んだ。傾斜のある岩肌に飛びつく。

無数のヒビが走る崖の表面。その一つひとつを指先でなぞって掴み、足場を探す。痛みはある。だが、今は感じない。感じていられない。

左手、右足。右手、左足とリズムを取って登っていく。反復される登攀。

その時、左手で掴んだ岩の突起が折れた。反射的に屈んで呼吸を止めて、崩れる上半身のバランスを取る。

一瞬で汗が引いた。折れた岩は十数メートル先の海面に落ちて砕けるのが見えた。

「……まだ死ねない…からな」

一呼吸置いて、再び崖を蹴って跳躍した。数十メートルの断崖。その頂上を目指す。

要塞の警備は、当然ながら“崖からの侵入”など想定していない。そんな無謀をやる者など、普通はいない。だが“普通”じゃない者がここにいる。

ようやく、高い塀が視界に入る。コンクリートの上端に手をかけ、最後の一蹴で崖の上に立った。

目の前には高い塀――ここからが本番だ。

「第二目標地点に到達した。センサーの無力化してくれ」

『お疲れ様。ジャマー起動まであと15秒。効果は60秒、死ぬ気で走るのよ』

しゃがみ込み、塀を手に付ける。高さは三メートルはある。シルヴィアの情報は合っていたようだ。少し遠くで、構成員たちの笑い声がかすかに聞こえた。

こんな要塞でも、奴らには“家”だものな。もちろんゾラにとっても。だがそれも、今夜で終わる。

『5、4、3、2、1――起動。今よ』

その声と同時に、壁を蹴って宙へ浮かぶ。右足、左足、右足、壁を走る。

ようやく塀の上の鉄条網が見えた。身を翻し、鉄条網を飛ぶ。そのまま要塞内の影へと滑り込む。地面に落ちる音も許されない。靴底に仕込んだ吸音素材と膝でそれを殺す。もう入り込んだ、“ゾラの庭”に。

そのまま塀の内側に身をひったりと付ける。即座に周囲を確認する。暗視ゴーグル越しに遠くの巡回兵が見えた。監視カメラの死角も。一見穴のない潜入するために設計されたような構造。だが、崖と塀を登って潜入する者がいることを考えてない。ゾラの慢心だ。

「……見つけた」

目標地点、点検用ハッチ。コンクリートに埋め込まれた重厚な鉄蓋。

『あと三十秒』

サビに蝕まれた縁を指先でなぞり、ゆっくりと持ち上げる。金属が擦れる微かな音が耳を打つが、風がその音を消す。

『あと十秒』

やっと開いた闇の入口。そこへ、身を滑り込ませる。ハッチを締める。

『無力化。ミア、どうかしら』

中は鉄と剥き出しの配線で狭く、湿って、息苦しい。鼻を突く埃とカビの匂い、染みついた油の臭いが肺をじわじわと染めていく。

「ひどい家だ。玄関じゃないけどな」

身を屈め、四肢を張って進む。進むたびに肩が壁に擦れる。ここで聞こえるのは電子音と心音だけ。

たまに上から、小さな振動。床板を歩く兵士のブーツの圧が伝って身体に響く。それは神経そのものでそれを感じ取れる。

だが向こうにも同じ。だから服と壁がする音も消す。

——バレるな。今は、まだ。

光もない空間。しかし、先にわずかに漏れる白い光があった。それは、出口ではない。

“標的”だ。

最初の目標地点——電気室。この要塞の心臓部。

網越しに部屋を確認。警備は、いない。

ダクトの網に、そっと指をかける。音を立てないように、ゆっくりと、呼吸を殺しながら外す。

鉄の網がわずかに軋む。

今だ。

一息で身を滑らせ、電気室の床に降り立つ。そのまま膝を折り、周囲を見渡す。

コンクリートと金属に囲まれた無機質な電気室。配電盤、遮断装置、冷却機。そのすべてが要塞の機能を支えている。

躊躇はない。

ベルトから時限爆弾を取り出し、動きで制御盤にセットする。

起動確認、作動良好。

「爆弾をセットした。三十秒後に停電だ」

通信機のスイッチを押す。

『すぐに移動して』

点滅する赤いLED。

残り三十秒。

後ろを振り返らずにダクトへ飛び込む。狭く、鋭い鉄の腸管に身体を折りたたむようにして、奥へ、奥へと滑る。

二五秒。肘が壁に擦れ、熱を感じるが止まらない。

二十秒。さらに奥へ。ここでは吹き飛ぶ。

十五秒。口の中が乾き、呼吸が速くなる。

十秒。前方に分岐。左。狭い。だが、行ける。

五秒。手のひらが鉄のグリッドに触れる。ここだ。

三秒。二秒。一——。

轟音。

全身に伝わる空気の爆裂。内臓が揺れ、ダクト全体が震えた。

耳が鳴るが、“成功”した証拠だ。

次の瞬間、奴らの怒声が床を通して聞こえる。電気を失った要塞は、ただのデカい棺桶だ。

六十秒間。予備電源が作動するまでの猶予。暗闇の中、赤外線センサーも、巡回兵の通信も機能を失う。

通信機がかすかにノイズを走らせながら、声を拾った。

『ミアやったね。じゃ、いっくよー』

そして遠くで響く、重い鉄が砕け散る音。

エルが正門を破ったようだ。鉄の門を吹き飛ばしながら、巨大な鉄の塊が突き進む姿が目に浮かぶ。

シルヴィアが使いたくてしびれを切らしていた“おもちゃ”。鋼鉄の仮面を被った、突撃専用の装甲ブルドーザー。

おびただしく聞こえる銃声にものともせず、エンジン音がダクトの中まで響いた。

『…予定通り。攻撃はエルに任せて、次の目標へ移行して』

「了解、続行する。ヤツらの“非常口”を絶つ」

再び身体を前に滑らせた。ゾラを確実に追い詰める。

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