Chapter Two: Pay Back

2-1

「まだこんな状態なのに何考えてんの!」

エルの怒声が、車内と身体中の傷に鋭く響いた。腹に巻かれる包帯が、やや強めに締め付けられる。

「これくらいは問題ない。それに…私じゃないとできないだろ?」

絶対に譲れない。だがエルは険しい表情のまま睨みつけている。アタッシェケースはだけじゃない。

ハメられ、踏みにじられたままじゃ終われない。

「でも単独潜入なんて……本気で言ってるの?」

エルの声が震える。怒りというより、不安の色が濃いように見えた。

「シルヴィア、何とか言ってよ!単独は無理って」

そう運転席の彼女へ視線を向ける。

だがシルヴィアは一度バックミラー越しに私たちを見て、小さくため息をつくと、あっさり言った。

「……わかってるでしょ、エル。こうなったミアはテコでも動かない。誰かさんと同じで頑固よ」

「でもっ……!」

「生かせてくれ。……お願い、エル」

包帯を巻いていた彼女の手が止まる。ゆっくりと顔を上げたその青い瞳に、まっすぐ目を合わせた。

「……っ!」

エルは視線を逸らして助けを求め、再びシルヴィアを見た。だが返ってきたのは、半ば呆れたような声。

「諦めなさい。ミアが“行く”って言ったら、止められないわ」

それだけ言うと重厚なエンジン音が鳴った。会議室のような車内までも伝わってくる。夕陽に染まったトレーラーを私たちのセダンが追い越した。シルヴィアも相当ムカついている。

「……絶対、無茶しちゃダメ。約束して」

エルが私のジャケットの端をきゅっと握った。彼女の肩がわずかに震えている。また泣き出しそうなその顔を、そっと胸へ引き寄せた。彼女の金髪が指の間からすり抜ける。やわらかく、そして温かかった。

「……あぁ、できるだけ守る。約束だ」

エルの震えが、次第に落ち着いていく。その温もりが、逆に痛む体をじんわりと和らげていく。

前方から、シルヴィアの声が落ちてくる。

「決まりね。……あのゾラとかいう女、捕まえるのが楽しみだわ」

「荷物が最優先だ、シルヴィア」

「もちろん。でもね、あの女をタダでリリースするの? 

ゾラの顔が脳裏に浮かぶ、悪意に満ちたあの顔が。奪い返して、それを歪める。

「……きっちり“礼”は返す。利子をつけてな」

そう言うとバックミラーにシルヴィアの意地悪な笑みが見えた。そしてステアリングを握る指先が、かすかに白くなっていた。

「あなたならそう言うと思ってたわ」

抑えられた怒りの気配。その声は冷たく、表情こそ笑っている。だが内側では確かに切り替わっていた。

あの女、ゾラの顔が脳裏に焼きついて離れない。赤い瞳、あの笑み、あの声。今は痛みよりも、怒りが先に立つ。

次は私の番だ。

——受けたぶん、多めに返す。単純な等価交換。それだけの話だ。

ふと——あの女が口にした名を思い出す。

「……なぁ、イリーナって知ってるか?」

隣のエルが小さく首をかしげた。

「イリーナ……誰?」

曖昧な語感を探って声を出した。だがシルヴィアはピクリと反応した。

「ゾラが何度も言ってた。イリーナ…だ」

その言葉の端を拾うより早くシルヴィアが口を開いた。その名が、何か忘れられないものであるかのように。

「……イリーナ・セミョノフという名なら知っているわ」

瞬時に硬くなる声。彼女はハンドルを握る手に力を込めたまま、視線をハイウェイの先に張りつけていた。

「ミア、それ……本当に、聞いたのね?」

無言で頷く。

一瞬、車内が静かになる。だがロードノイズが遠くなった気がした。

「……昔の名前よ」

シルヴィアが口を開いた。乾いた吐息混じりに。

「戦争で名を馳せたスヴェトの将校よ。狡猾で冷酷な女狐よ」

そして——

「でも顔はなかなか整ってたわよ。……仏頂面だったけどね」

冗談めかした言葉にしては、声が低すぎた。思い出している、というより、忘れていなかったのだろう。今もずっと。

「へぇ……そのイリーナが、ヴォルフ・ブラトフにいるんだ」

エルが特に興味を持っていない様子で答えた。

「確定じゃないわ」

シルヴィアは目線を動かさない。

「砂漠で死んだってのが“公式”よ。埋葬も済ませた記録まである。でも——」

「……でも?」

「簡単に死ぬような女じゃない、ことは確かよ」

声に、僅かな迷いと確信が重なる。

「もし本当に生きてるなら……それこそゾラよりも厄介ね。——もし出てきたら」

ポケットから銀色の薬ケースを取り出してシルヴィアを見る。

「会ってみたいわね」

シルヴィアの声に僅かに温かみがあった。それを聞いて安心した。絶対に勝てない相手ではないようだ。

痛み止めとカフェイン剤を一本ずつ取り出し、歯で砕く。苦味が口内に広がる前に酒で流し込んだ。喉に火が走る。胃が焼け、血が熱くなる。刺激に耐えられず少しうずくまる。痛みが、ぼんやりと薄くなって身体を起こした。

「まぁ……屋敷にイリーナがいるとは思えないけどね」

ミラー越しにシルヴィアの目が私を刺す。

「仮にいたとしても、絶対に近づかないこと。それが私からの“命令”よ」

本気の声が車内の温度が数度下げた。

血管の隅々まで渡る張り詰めた緊張感。どんな薬や酒よりもシルヴィアの声が一番、頭も体も覚めさせた。

心地良い冷たい空気。だが、エルがそれを破る。

「でも、シルヴィアが屋敷に行くのはやめたほうがいいんじゃないの?」

「エル……急にどうした。誰が指示するんだ?」

私の声は少し荒いが、エルは気にした様子もなく続ける。

「ウイルスの兵器でも持っているかもしれないじゃん。だってウイルスのデータ盗んだんだよ。私たちは大丈夫だけどさ」

エルが私を見て、ねっと言う。

「それはないわ」

だが、シルヴィアの目は違った。自信というより確信に満ちた声。

「あの屋敷にウイルスを保管するような大がかりな設備はないわ」

納得したようにエルは頷く。

「それに、あの女はそんな真似はしないわ」

「信じていいのかよ、そのイリーナって女。ゾラを部下にしてるようなヤツだぞ」

私の声に大丈夫よ、とだけ言って少しだけ彼女は笑った。

「ね……ミア。ほんとに、忘れないでよ」

エルが耳元でぼそりと呟いた。

「無理は決してしないで。ミアの役目は、忍び込んで、電気室と逃げ道を破壊して逃げる。……ドンパチは、なし。隠密ね」

静かな声。けれどその言葉には温かみがある。エルの目を見た。潤んでいるが、そこにははっきりとした“信頼”もあった。

一瞬だけ心が揺れる。

「……わかった。でも、もしエルがピンチなら……助けに行くから」

「ミア……」

エルの声が掠れる。だが、すぐに涙を指で拭って、ぎこちない笑みを浮かべた。

「なら、私がピンチにならなければいいんだよね。……うん、大丈夫」

そしてまた包帯を巻き続ける。その手つきは先ほどよりもずっと落ち着いていた。

「あなたたち、ほんとに変わらないわね」

シルヴィアが苦笑する。

「どうせなら、十分に楽しんでくることね」

そう言ってアクセルを踏み込む。大排気量エンジンが唸りを上げ、身体がわずかに後ろへ沈む。

橙色に染まった都市の光が、窓の外を流れていく。

この道の先に“ゾラ”がいる。そして、決着の時も。

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