1-5

冷たいコンクリートが傷と胸に沁みて起きた。感覚は鈍く、意識はまだ途切れ途切れ。

焦げた匂いと、金属の錆び、そして血と湿気が混ざり合った空気が肺の奥をじわじわと侵食してくる。

頭が重くて痛い。鼓動がうるさく、思考がハッキリとしない。

——あのサド女。

だが身体は自由だ。だが、それだけだ。指一本動かすにも神経に一直線に痛みが走り、痺れる。まともに動けない。

目を細めると、灰色の部屋の中で、裸電球がぐらりと揺れていた。

あれからどのくらい経った?

頼りない光が、身体の傷に沁みる。

這い上がろうと、力を込める。だが、それも無意味に感じた。

身体が震え、痛みが全身にばら撒かれるように広がり、あっさりと倒れ込んだ。倒れた痛みも鋭く、だが鈍く、熱い感覚が内臓まで届いた。

意識だけが宙ぶらりんで、身体の輪郭がぼやけていく。身体がまだあるかも分からない。

食いしばって這うように進む。

剥き出しのコンクリートに身体と傷を擦りつけながら、出口へ続く階段を目指す。

椅子が転がっている。壁にこびりついた血の跡。湿った天井から垂れる配管。血で詰まった排水溝からは腐った匂いがした。

腹と胸が、床に触れるたびに電撃のような痛みが貫いた。

歯を食いしばって腕を伸ばす。……だが、力が入らない。内臓が引きちぎれるような感覚。視界が一瞬、赤黒く染まる。

何分かかったかわからないが階段の前まで這い上がったとき、身体は限界を迎えた。

その場に仰向けに倒れ込み、呼吸を整えて痛みに耐える。

今、あの女が戻ってきたら終わりだ。あいつは死ぬまで拷問する気だ。次こそは耐えられるかわからない。

剝がれかけた天井がぼやける。

そのとき。耳が、音を拾った。ネズミか。いや、違う。

明らかに、それ以上の質量がある“何か”が、ダクトの向こうを這っている。

金属が歪む音。ダクトが僅かに膨らみ、上から空気の流れが変わった。冷気が肌をなぞり、心臓が異常な早さで鼓動を打った。

何かが、この上に——。

「……ミア?」

……声。声が、静かに、でも確かに、私の名前を呼んだ。

その瞬間、緊張が崩れ落ちた。張り詰めていた全身の神経が、ふっと緩み、滲んでいた視界の奥に光が差す。

「エル……」

喉からこぼれたのは、かすれた吐息だけ。でも、向こうにはそれで十分だったみたいだ。

視線を上げると、ダクトの格子の向こうに金色の光が揺れていた。

……見慣れた瞳。懐かしい表情。あの少し抜けた、でもどこまでもまっすぐな笑顔。

「ミア!大丈夫!?」

焦る声。震えるような呼吸。身体が熱を少し取り戻した。

「……大丈夫……じゃ、ねーな……」

言葉にするのがやっとな状況。それでも、口角だけは上がっていた。

……ああ、本当に。

エルの声を聞いただけで、ようやく、地獄から戻ってこれた気がした。

「今、行くね」

声と同時に、エルが勢いよく通気ダクトの網を蹴破った。大きめの胸と尻を引っかけながら、むりやり身体を滑り降ろし、床に膝をついて着地する。そのまま銃を身構え、素早く周囲を見渡した。

空気を一瞬吸い込み、彼女の表情が固まる。焦げた布、血と錆びの匂い、焼けた皮膚の残り香。空間と私に染み込んだ拷問の跡を、一息で理解したのだろう。彼女の視線が、こちらに戻る。

その目が揺れた。

「……やだ、……ひどい……こんなの……」

掠れた声が聞こえた。どこか呟くような、震える言葉。いつも陽気で無邪気なエルの声じゃない。

視線が私の体をなぞる。焦げた肌、打撲の痕、擦過傷。

そのすべてを見て、エルはわずかに唇を噛んだ。

一歩、こちらへ。そして、何のためらいもなく、強く、優しく私を抱きしめた。

「……ただの火傷だ。電流だけ。骨は折れてない」

そう言おうとしたが、口の中が乾いていて、うまく声にならなかった。強がりたかったが、それも叶わず笑った。

「何も話してない。安心しろ」

「ミア……安心できないよ……こんな……」

エルの声が耳元に触れた瞬間、震えた。

——久しぶりだった。エルが泣くのを見たのは。ぐしゃぐしゃに崩れた表情も、止まらない嗚咽も最後見たのはいつだったか。

どれだけ危ない目にあっても、どこかで軽口を叩いて、励ましてくれた。それなのに、今は泣いている。

ゆっくりと彼女の後頭部に手を伸ばし、そっと撫でた。細い金色の髪が、指に絡まる。

「……ごめん」

それだけを、ようやく呟いた。するとエルは小さく首を振り、さらに強く、腕を回してきた。

その腕は、微かに震えていた。だが、その震えすら押し殺すように、さらにきつく、強く——

「もう離さないから」

その声には、決意があった。私はただ、力なく頷いた。

——本音を言えば、少し痛かった。

肋骨が軋むほど強く抱きしめられていて、傷口も多少うずいた。けれど、痛みよりも先に、心がほどけていった。

鎖でつながれた時間。焼けた肌。貫かれた苦痛。すべてが、このたった一度の抱擁で、少しだけ和らいでいく。

──その時。

『美しい姉妹愛で心が洗われたわ。でも、そろそろ仕事の話をしないとね、お二人さん』

耳元で、甲高い女の声が響いた。

……シルヴィアだ。

通信、繋がったままだったのか。エルの手元を見ると、端末の電源はまだ点灯している。

「……まさか」

『ええ。聞かせてもらったわ、全部』

エルが一瞬で凍りついた。

「え、これ……チャンネル繋がってたの……!?」

慌てて通信端末を操作するエルの手元を横目に、私は目を閉じる。

シルヴィアの言う“感動的”な再会、全部──彼女に聞かれていた。身体の痛みよりも少しキツかった。

『もちろん。あなたが一人で突っ込んだから繋げたのよ。こっちは親切でやったのよ。……で、ミアが起きたなら、さっさと説明してあげなさい。応援はすぐ着く。じゃあね』

ピッ──という電子音が鳴り、通信が切れた。再び、静寂。けれどさっきより数段、気まずい。

「……ごめんね。嬉しくてつい……」

エルが頬を掻きながら、顔を赤らめる。

「別にいいけど……」

そう言いながら、自分の頬も少し熱いことに気づき、慌てて話題を切り替えた。

「それより……鎮痛剤、あるか?」

エルはすぐにポケットを探り、注射器を出した。

「うん!腕出して」

「助かる」

エルが腕に注射器を刺した。冷たい針と鎮静剤がじわじわと腕から身体に染み込む。少し軽くなった。

──さて、本題だ。

「サンキュ。それより――ここから出ないとな、女がいつ戻るかわからない。それにアタッシェケースも取り返さないと」

その一言で、エルの目の色が変わった。さっきまで私を抱きしめていた柔らかな表情は消え、仕事の顔に戻っていく。

「……女?ゾラっていう金髪の小さい女の子のこと?」

少し遅れて頷く。ゾラ――少女のガワを被った悪魔。そんな名前なんだな。

「だったらならもういないよ、ケースを持って出ていったの。ここにいる奴らも大半ね。だから…ここは安全だと思うよ」

「……どういうことなんだ?最初から聞かせてくれ、あの受渡しの部屋のところから」

エルはこくりと頷き、少し息を整えてから語り始めた。

「あの時、部屋の外で待ってたの。……でも突然、部屋が爆発して……その衝撃で吹き飛ばされて、エントランスの床を突き破って地下の空調室まで落ちちゃって」

痛々しい笑いを浮かべる彼女の目元に、かすかに悔しさが滲む。

「気がついたときには、とっくに明けてた。慌てて戻ってみたけど、あの部屋はもぬけの殻。ミアの姿も、誰の気配もなくて……それで、シルヴィアに連絡して、応援を頼んだの」

エルは少し目を伏せた。あの時の不安が蘇ってきたのだろう。

「周囲を探してたら怪しいトラックがあって、止めさせて調べてたら……無反動砲が積んであったの」

彼女の声が低くなる。それで部屋を破壊したのだろうな。

「……乗ってたチンピラを捕まえて問い詰めた。そしたら……本物のNOVAの受取人はヴォルフ・ブラトフに殺されてたんだって」

呼吸が浅くなる。私が会った“ゾラ”は、あの死んだ隊員の代わりをしていた。

「受取人を殺したのも、爆撃したのも、ミアを攫ったのも 全部ヴォルフ・ブラトフの仕業。そして、あのゾラって女……ヴォルフの幹部みたい」

わかっていたが重く、鈍い事実が胸に沈む。簡単にハメられたんだ。

「で、ヴォルフのアジトの場所も吐かせた。ここね。旧市街の外れの使われてない精肉工場。シルヴィアにも報告したけど……『待機しろ』って言われた」

「でも、ここにいる」

私の言葉にエルはウインクした。

「どうしてもミアを見つけたくて…。ダクトがあったから、中に入って探したの」

彼女の瞳が、少しだけ鋭く光った。

「それで見えたの。ゾラがアタッシェケースを車に積み込んでるところ。それに構成員のほとんどが出て行ってた」

「……察知して、逃げた、か」

エルは頷いた。でも逃げるほどなのか。ヴォルフも大したことないのか?

「それから必死で探し回った。でも地下に入ってから迷って……ぐるぐるして……それで……」

エルの目が、私を見つめた。

「それで見つけたってわけ」

エルは一通りの説明を終えると、深く息を吐いた。

「で、今はお昼だよ」

彼女から数時間溜め込んでいた緊張が、少しずつ抜けていくのがわかった。

さて、どうするか、と思った。

急に地下室を揺るがすような爆音が、突如として鳴り響いた。壁が震え、天井からは粉塵が雪のように舞い落ちる。裸電球がチカチカと明滅し、鉄と火薬の匂いが鼻腔を突き、上で複数の銃声が連続して鳴った。コンクリートの床が低く唸り、どこかで崩れた鉄骨が転がり落ちる音がした。

戦闘、いや戦争が始まっている――シルヴィアの手は、もうすぐそこまで来ている。

エルは一瞬、耳を澄ませ、すぐに微笑んだ。その顔には、ほっとしたような安堵と、ここが崩れないかの不安が宿っていた。

「……来たみたいね」

「あぁ、やりすぎないでくれよ。ゾラの居場所は、まだ吐かせてないんだから」

そう言うと、エルは小さく肩を竦めて笑った。

「安心して。あそこに残ってるのは現地で雇われたチンピラばっかり。吐かせるような情報なんて、持ってないわ」

彼女は端末を取り出し、すでに開いていた画面をこちらへ向ける。

「でも、ゾラの居場所は特定できてる。シルヴィアが不動産記録を漁って、スヴェト圏の偽名で登録された“豪邸”を突き止めたんだ」

私が受け取った端末には、航空写真と設計図、物流の記録がずらりと表示されていた。

それは豪邸ではなかった。要塞だ。戦争でもするつもりなのか?

高さ三メートルの外壁。厚さ一メートルのコンクリート。監視センサーは赤外線、感圧までフル装備。自動砲塔、重機関銃、高射砲。屋上には攻撃ヘリの発着場まである。

防弾仕様の高級車に、軽装甲車。巡回する傭兵たちの装備も、軍並みだ。

「……大したもんだ。ここと似たような掃き溜めと思ってた」

ぼそりと呟くと、エルが真剣な面持ちで頷いた。

「そういう規模よ。シルヴィアが言うには船も持ってるらしいわ。あ、取り返せば多めに報酬は出るって。今回の件が表に出たらヤバいからね」

「そりゃ良かった。で、シルヴィアの方は?」

「かなり怒ってるわ。情報が漏れてた上に、ミアがここまでされたんだもん。当然だよ」

いつもの冗談っぽさは、どこにもなかった。エルの声は荒っぽく、目を細めている。

――“戦う”という意思が見えた。

「……私は行く。ミアをこんな目に遭わせた奴を、絶対に許さない」

その声の深さに、思わず息を呑む。普段は軽やかな彼女が見せた、久々の“本気”。

「エル……」

小さく名を呼ぶと、彼女の目が揺れずにこちらを見た。もう、迷いはどこにもなかった。

私も、だ。私も行く。

この痛みを、無駄にはしない。この怒りを、沈めはしない。すべては、決着をつけるために。

「……行く」

エルが目を大きくした。次に来る言葉はわかってる。

でも仕返ししなきゃな。

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