1-4

グリーン・フィールドのあの頃の風の匂い。緩やかに揺れる草原。太陽は暖かく身体を包む。

素足の足裏を柔らかな芝がくすぐる。私は駆けていた。公園の丘を越えて、その先へ。

「レナ、こっち!」

遠くで姉の声が弾ける。ジュリア――姉が花畑の向こうで笑っていた。

風に金色の髪が揺れている。

その隣には、白衣を羽織った母。買い物袋を片手に、ゆるやかな表情で笑っていた。

「二人とも、転ばないでよー!」

その夜、食卓には母のシチュー。焼きたてのパン。ジュリアが「そっちの皿の方が多い!」と拗ねて、私は牛乳をこぼして笑い転げた。

暖炉の火はゆらりと揺れ、窓の外には満天の星があった。

——なのに、突然。

星空が赤に染まった。何かが遠くで鳴っていた。大きな音、割れる音、重たい音。

母の声が聞こえた。

「靴だけ見なさい!」

その手は震えていた気がする。だけど強かった。次の瞬間、景色は変わっていた。

起きろ。

赤く染まった街、誰かの叫び、焦げた匂い――けれど視界はぼんやりとしている。

ただ、ジュリアと抱き合って泣いていた。

醒めろ。叫べ。

そして、母は……。

夢の映像がぐにゃりと歪む。

色が、音が、熱が、すべて黒に塗りつぶされる。気づいたときには、ジュリアの姿は消えていた。

そして、世界は……なくなった。

終わりだ。眼を開けろ。

──それでも、ひとつだけ確かだった。

痛い。頭が割れる。息をするたび肺に針が刺さったように痛む。全身を打ち付けたように。

皮膚が裂け、神経が焼かれるような感覚。

「……っ」

目を開く。視界は白く、耳鳴りが遠くで唸っている。

ああ、夢だ。途中からわかっていた。だけど最後まで醒めなかった。

……だが、現実のほうが悪夢だ。

ぼんやりとした光が視界ににじむ。焼けつくような鈍痛が、全身をじわじわと蝕んでいた。焦点が合わない。頭の奥がひどく軋む。

いや、それ以上に、身体中の神経が悲鳴を上げていた。

不快感からせき込むと、頭から足の先までの神経が痛む。動脈に針が流れているような。焼けた鉄線で肉の内側をなぞられるような、全身に広がる痛み。

息を吸うだけで、喉の奥が焼けるように熱い。

痛み慣れるというより、耐えた時にようやく現状が分かった。

薄暗い室内。裸電球がぶら下がり、鈍い黄色い光だけが明滅している。

壁には錆びまみれの拷問道具が並んでいた。巨大な鋏、欠けた鋸、錆びた火かき棒。倒れた拘束椅子は血と錆で覆われ、長方形のテーブルには万力と血が乾いた跡があった。

鼻を突くような血と鉄の匂いが充満している。

……普段の行いからして天国には行けないとは思っていたが。

記憶がぼやける。どうしてこうなったのか。考えようとすると頭が締められるように痛む。だが大切な何かを忘れている気がして記憶を辿る。すると手が痛んだ。

両腕は天井から吊るされた鎖に縛られ、動くたびに枷が食い込んで痛む。口には硬質な拘束具が嵌められているが、噛みちぎる力もない。右腕には点滴用のチューブが差し込まれ、脈動に合わせて栄養剤が流れ込んでいた。だが、身体は満たされるどころか、むしろ乾いていく。

視線をずらすと、隅の階段の上にあの女がいた。赤い瞳を細め、棒型のスタンガンを手にしてゆっくりと降りてきた。

「起きたのね。お寝坊さん」

全ての記憶が戻った。あの時、あの部屋が爆発して……ハメられた。あの女に。いや、エルは?大丈夫なのか?あの爆発で……。背筋に悪寒が走る。心臓が縮み、違う汗が出た。

いつの間にか女は階段を降り、バレリーナのようなステップでこちらに向かっている。手のスタンガンをバトンのように投げて回していた。

目の前に来ると女は満面の笑みを浮かべて、長い舌で唇を濡らす。

「さぁ、ここからが本番よ、子猫ちゃん」

その赤い瞳が濃くなった。

——引き金が落ち、棒が左脇腹に食い込んだ。

「ッ……あ゛ああああっ!!」

身体中の神経に串が無理やり通る。腹に突き立てられた電撃が、脊椎を通って脳まで駆け抜けた。

血が沸騰する。筋肉が勝手に収縮し、筋線維と関節をいたぶる。肺が悲鳴を絞り出すが口枷がそれを殺し、嗚咽と唾となって吐き出される。

脇腹を捩じって痛みを逃がすと女がスタンガンを振りかぶる。

強烈な一撃。伸びて柔らかくなった逆の脇腹にスタンガンが食い込んだ。

意識が飛びそうになる——が痛みで飛べない。目の奥が灼け、視界が逆に鮮明に研ぎ澄まされていく。

「どこが一番、響くのかしら?」

少女は甘ったるく囁くと、電極を腹から胸、肋骨、脇腹、背中に振りかざした。

焦げた皮膚の匂いが立ち込め、痛みは熱となって体内を灼く。骨の芯まで凍るような震えと、皮膚に焼けるような熱が交互に波となって襲ってくる。

女は艶っぽく赤らめ、私の顎の付け根を掴んだ。更に息ができない。

「暴れないでよ……まだ、始まったばっかりなんだから」

そう言うと突然、みぞうちに電極が沈んだ。肉が捩れ、骨が軋む音が内側で響く。

わからない。今のが痛いのかさえも。熱いのか冷たいのかさえ。

——ただ、苦しい。喉がぎゅうと詰まり息ができない。

その時、急に口枷を取られる。だらりと粘度の高い唾と共に落ちた。

薄い空気を吐き出し、新鮮とは言い難い空気を飲み込む。脳に酸素が周り、ほんの僅かに頭痛がほぐれた。

呼吸を繰り返すうちに段々と胃がムカついた。

「……何も…話す気はない。ガキめ…」

吐き出すように女に言い放った。

だが、女は笑った。腹を抱えてまともな冗談を聞いた子供の用に。

「ほんとうに……面白いわね。あなたから聞きたい情報なんてないの。ただ……もっと聞きたいの。あなたの魂の声を、ね」

女は完全に陶酔していた。いつの間にか上着を脱いでおりしきりにチューブトップ姿の身体をさすっていた。

――とんだサド女だ。

目的はなんだ?何も聞いてこない。そんな事に興味さえないのか。

女は熱くなったスタンガンを放り、電極パッドを私の身体中に貼った。

「“ただ”のマッサージよ。緊張しないでね」

「マッサージなら田舎のお袋にでもしてろよ」

それを聞いて女はにんまりと笑って、最後の電極を心臓の上に貼った。地獄は、まだまだ終わってないようだ。

「さ、時間が惜しいわ」

女はスイッチを押した。何度も何度も。リモコンをもって子供のように笑いながら電流を強めて、弱めて、止めて、また流した。

スイッチが入っているのか、いつまで経ったかもわからない。皮膚が焼け焦げ、汗が目に入り、焼けた肉の臭いが鼻腔に突き刺さる。耐えるための叫び声すらもう出てこない。筋肉の痙攣に逆らえずに、ただ身体をばたつかせる。

前にシルヴィアの拷問の訓練で味わった痛みの十倍だ。いや、それ以上。

……エル。

焦点の合わない視界の中、名前を呟いた。声に出していたかもわからない。

だが――その名を口にした途端、胸の奥に微かな温もりが蘇った。金色の髪が頬を撫でる。優しい青の瞳が覗き込み、柔らかな眉を寄せる。

「あ、ミア!やっと起きたのね!」

耳に届いたのは、かつて何度も聞いた声だった。

嗅覚まで幻に引きずられる。ふと感じたシャンプーの甘い残り香。革のライダースに染みついた油と革の匂い。

それが痛みをかき消し、胸を締めつけるように広がる。ふと笑いが出た。

伸ばした指先が――エルの手を掴んだような錯覚に震えた。現実では鎖が鳴り、ただ空を掻いているだけなのに。

——死ぬ。このままでは、確実に。

その瞬間、電流が途切れた。

重力に身体を預けるも、鎖がそれを拒む。吊られたまま、全身がぐったりと揺れる。心臓の鼓動だけが唯一生きてる証拠。

そのとき——髪を掴まれた。

無理やり顔を持ち上げられ、視界に映った女は、恍惚とした表情でこちらを覗き込んでいた。

目元は吊り上がり、頬には熱の色がにじむ。指先が顎をなぞる。冷たい爪が皮膚を撫で、僅かに香水の匂いがした。

「強いわね。普通なら壊れてるか、死なせてくれって叫ぶわよ」

吐息混じりの声が、耳をくすぐる。

次の瞬間、ぺたりと軽い平手打ち。頬に熱が走る。目だけを動かして女を睨み返した。体も鎖に縛られて動けない。

食らっとけ――サド女。

奥底から絞り出すように唾を女に血交じりの唾を吐く。ぺちゃりと唾が女の頬を流れる。

女はそれを手に取り、口に垂らす。それを舌で受け止め、味わうように飲み込んだ。ずっと私の眼を見ている。

「それに……とっても元気ね。……良いことよ」

まるでペットの粗相を諭すような柔らかな声で。

こいつは“本物”だ。

――目的なんかない。ただ拷問が好きなイカれた女だ。感覚が人間とは違う。悪魔だ、地獄の奥底から産まれた。

そう思うより早く、横腹へと蹴りが飛んだ。内臓がずれ、呼吸が止まる。咳き込んでいると女の満足そうに笑った声が聞こえた。

そして今度は私の首に手をかけた。

「もう少しだけ、ね?いいでしょ、イリーナ」

女は誰もいないのに天井に向かって請う。そして爪を首筋に食い込ませる。

皮膚が割れ、首には血が流れる感覚がする。空気が、どんどん薄くなる。

「お願いっ!ねぇ!!――イリーナッ!」

ひたすら名前を呼び、首を更に締め上げる。身体は持ち上がり、呼吸が完全に止まる。

女は悦に浸り、とろんと歪んでいた。僅かな力で足をばたつかせるも無意味。

目の前が滲み、視界が崩れていく——。

また突然ふっと力が抜けた。

女はゆっくりと手を離し、血に濡れた指を見つめる。その血を、紅のルージュのように、自らの唇へと撫でつけて私を覗き込む。

「……危なかったわ。やりすぎちゃうとこだった。最近はね、あなたみたいな“頑丈な子”が減ってて……ほんと、退屈だったのよ」

湿った吐息が、汗と血の臭いに混じる。赤い瞳が私を“獲物”としてではなく、“玩具”として見ていた。

そしてその女が求めるのは――快楽。

「今日は……もう、ダメね。もうちょっと遊びたいもん」

視線を投げつけられるだけで、身体がこわばる。ただの“声”が心臓を圧迫する。

突如、私を吊っていた鎖が緩み、地面に叩きつけられた。

女は更に枷を解く。そして階段を一歩一歩ゆっくりと登る。そして扉の前で一度だけ振り返りった。

「また来るわ。次も遊びましょうね…運び屋さん…」

唇の端を持ち上げて微笑んだ。

聞こえたのは勢いよく扉の閉まる音。続いて、錠が落ちる音。そして壁の向こうから、誰かと話す女の声。

だが、もう内容は聞き取れなかった。

私はただ、汗と血と焦げた匂いに包まれながら、意識が落ちていった。

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