Chapter One: The Package
1-1
カチッ。
目覚ましが鳴るより一瞬早く、アラームの解除ボタンを押していた。
午前八時。
眠気はまだ残っているのに、頭痛と吐き気が容赦なく頭を殴りつける。
鉛のように重い体。かすんで揺れる視界。ただ、天井を見つめる以外にできることはなかった。
秋も中ごろ。全員が過ごしやすい時期は私にとっては地獄だ。
五分ほど、膝を抱えて深い呼吸を繰り返す。
ようやく血管が緩くなり、引きずるように起き上がる。寝室を出て、ぎこちない足取りでリビングのテレビをつけた。
画面に映ったのは“見慣れた顔”。
脅迫の件は証拠不十分で取り下げられたらしい。彼女はいつものように“何事もなく”あっさりと勝った。
「…よくやるよ」
無意識に出た独り言。
ニュースキャスターの声を遠くに聞きながら、主張の強いテーブルに目を移した。
そこには作り置きの朝食。
クロワッサンとスクランブルエッグ、コーヒー。
姉のエルヴィラが置いていったものだ。すでに出かけたらしく、部屋にはいない。手を伸ばし、フォークでクロワッサンをつつく。少し焦げていて、見るからに硬そうだ。
スクランブルエッグは……水っぽくて形も崩れている。火加減の失敗だろう。
温め直す気力もない。たんまりケチャップをかけて、ぬるいコーヒーで流し込む作戦で行こう。
そして口に広がるのは、期待を裏切らない味。ぼやけた味覚と、ぼやけた気分。
――明日の朝は作っておくからね!楽しみにしててね!――
昨夜のエルの声が、ふいに脳内で流れた。
「期待はしちゃないさ」
着信音が鳴る。端末のディスプレイに表示された名前に、肩の力が抜けた。
発信者は今朝のシェフだ。
『おはよ!ミア!ごはんちゃんと食べた?』
電話越しでも明るさ全開の声。笑顔が透けて見える。
「……ああ、食べたよ。どうしたんだ、エル」
『よかった~!今日のは自信作なんだよ!ね、ね、美味しかった?』
無言のまま、フォークの先の卵を見下ろした。
形の崩れた、液状のスクランブルエッグ。もはやスープと言ってもいい。
「エル……感想じゃなくて、なんか用があるんだろ?」
「あっ、ごめん! シルヴィアが呼んでるの!大事なお仕事の話!九時に来てくれる?」
シルヴィアが直接呼ぶのは珍しい。どれだけ“大事な仕事”なんだろう。
コーヒーにたっぷりとミルクと砂糖を注いでゆっくりと混ぜる。
「……わかった。9時前に着く」
「ありがと~! じゃ、着いたら感想聞かせてね!ポーチドエッグの!」
「え?」
「まったね~!」
一方的に通話が切れる。改めて皿の卵に視線を落とす。
──ポーチドエッグ?
どう肩を持って見ても、水っぽくて崩れたスクランブルエッグだが。
額を押さえ、深く息をついた。
「……朝食は私に戻して、ポーチドエッグの作り方も教えないとな」
最後の一口をコーヒーで流した。
それから、ゆっくりとシャワーで肌に付いた寝汗を流す。いつもの服に着替え、いつものブーツを履いた。
玄関のドアを開けた瞬間、街の不快な熱と風がひったりと肌を舐めた。
オフィスに着く頃はシャワーを浴びる前よりも汚れるだろう。私の古いTETSUMA製クーペにはエアコンがないから。
そう思いながら車に乗り込み、手動の窓を上げ、オフィスへ向かった。
ゼニス・スパイアは目覚めてなどいない。眠らずに蠢いて止まらない。
陽の光は白く濁る。砂と酸性雨対策の石灰で白くなった街を、数百メートルにも及ぶ巨大ホログラム広告が照らしていた。
『今年もあなたを守るのはルネル・シャンプー。艶と美しさを永遠に――スモッグ、紫外線、酸性雨対策にも』
『世界中どこにも安全な場所はない。ウイルスがいる限り……だがカリム財団は戦う。あなたと大切な人を守る』
『新型ノワレア登場!世界を塗り替えたスポーティーでラグジュアリーで安全なノワレア。 今すぐTETSUMAの販売店へ』
虚ろな色彩が空中を漂い、ぼやけた広告はまるで催眠映像のよう。視界に入るだけで眼の奥に鈍い痛みが走る。
視線を下ろしても変わらない。今日は独立記念日なのか街灯や街路樹、ポストの何もかもにカナルタの星の国旗が下げられている。
更にメインストリートは渋滞で埋め尽くされ、クラクションとサイレンが乱雑に響き渡り、脳を揺らした。
ホテルの窓からは観光客が顔を出し、珍しい見世物でも眺めるように覗く。
渋滞の遥か先、スモッグ越しに見える赤と青の閃光――パトカーと救急車が、じわじわと滲むように光っていた。
「お巡りさん、今日は何なんだ? 宇宙人でも来たのか? それとも監督が変わったか?」
苛立った声が後ろから響く。後方のトラック運転手が通りがかりのハイウェイ・パトロールに怒鳴るように問いかけた。
運転手は焼けてしわが深く、白いひげを生やし、そのままクリスマスセールの呼び込みになれそうだ。
「ビッツ・ホテルで抗争があった。チンピラが数人死んだ」
「へぇ……。あんな安ホテルでな。かわいそうに。あんなとこじゃ死んでも死にきれねぇな」
バックミラーに映った運転手の眉が大きく下がった。
「あぁ、全くだ。…あと監督は続投らしい」
ハイウェイパトロールは、淡々と告げるとバイクを走らせ去っていった。
運転手の怒鳴り声と、野太いホーンが街の騒音に混じり合った。
ゼニス・スパイアは、昔に比べれば“いい街”になった。
エルと初めて来た頃は、濃いスモッグと鼻を突く悪臭で外に出ることすらためらう程だった。人間も目を合わせれば銃かナイフを突き出され、道路の隅には新鮮な死体が毎日転がっていた。
今は――青空がわずかに覗き、抗争も月に一度程度。それに観光客が道を埋め尽くすほどには「平和」。
急に涙に濡れたエルの横顔が、脳裏に蘇る。
「……ミアは、この街から出たほうがいいよ」
その声ごと、思い出したくもない記憶を胸の奥に押し込むとクラクションを鳴らされた。
渋滞がほどけていく。
いつもより少しかかったが遅刻する程ではなかった。
――《カジノ・エルドラド》。
豪華絢爛なアールデコ“風”でゼニス・スパイアで一番最大で高層なホテル付カジノ。金メッキと大理石が照り輝く。もちろんシルヴィアの趣味ではない。
最上階のシルヴィアは窓を開けるのだろうか?そんなことを思いながら車寄せに停める。
白いジャケットを着た上品で細身な駐車係うやうやしくキーを受け取る。高価なサービスだが、もちろんカジノの料金に含まれる。
チップを出すも「ミアから取ったらどやされる」と受け取ってくれなかった。脇の駐車場にはエルのクラシックな赤いコンバーチブルが煌々と輝いていた。
赤く分厚い絨毯の上で談話する観光客をかき分けて扉をくぐる。
中は昼夜の概念なんてない。二四時間三六五日、一秒も欠かすことなく常に営業している。
カードを弾く乾いた音。チップを積む律動。 スロットマシンの電子音がリズムを刻み、歓喜と怒号がアクセント。 タバコと香水の匂いが、それに折り重なる。
観光客が浮かれた顔で「ちょっとだけ」と遊び始めるが…… “ちょっと”で済む者は、ほとんどいない。
その中央、テーブルとスロットマシンの間の革張りのソファにエルはいた。
いつもの黒いライダースに同じ色のショートパンツとブーツ。白いオフショルダーが一層白く、胸を強調する。
彼女は脚を組み、退屈そうに磨かれた爪を眺めていた。
ライトに照らされた金髪が、風もないのにふわりと揺れる。どこか遠くを見つめる淡いブルーの瞳は白い肌に浮き、どこか現実味がなかった。
そばにいる者達はその姿に一度は目を奪われる。声をかけようか、ステータスを差し出そうか、有り金を誇示しようか。どちらであれ本人はまるで興味がない。
「よ、お待たせ」
その声に、エルがピクリと動く。次に彼女はソファから飛び上がり、前触れもなく私へ飛びつくように抱きついた。
「っ──!」
不意打ちに、息を呑む。髪がふわりと顔をかすめ、鼻がくすぐったい。衣服越しにでも伝わる高い体温と、潰されそうなほどの胸の感触。私の数倍大きく重量がある。
身体が動かない。いつの間にか手を背中に回されホールドされていた。
「今日は一緒に仕事かも! 早く、シルヴィアのとこ行こっ!」
そう言うなり目の前に満面の笑み。
解かれたと思ったら私の手をぐいっと引いて、エルは迷いなく歩き出す。
「おい、ちょっ……何だよ。離せよ」
私の僅かな抵抗も空しく、痛みのない万力のような手は離してくれる事はなかった。そしてエルはニッコリと微笑んだ。その大きな青い瞳は真っ直ぐ向いていた。
仕方なく、手を少しだけ強く握り返す。二人でそのままエレベーターに乗り込み、シルヴィアのオフィスへと向かう。
エレベーターのボタンを押すときにようやく手を解放された。手が熱い。
最上階まで誰にも邪魔されることなく着いた。
フロアはシンメトリーの取れた構成でアイボリーの壁紙にオークの床、絵画と彫刻が並ぶ。美術館さながらだ。この階だけシルヴィアの好みが出ている。もちろんシルヴィアのオフィスにも。
その中央の黒いドアのノブにエルが手をかけて勢いよく開けた。
「シルヴィア、お待たせ!」
ノックもせずにドアを開けたエルの声が、部屋の温度を上げた。だが背中を向けて革張りのチェアに座った女はびくりともしない。
椅子がゆっくりと椅子がを回転し、カップを摘みソーサを持ったシルヴィアが姿を現す。暗い髪に隠された頬の古傷がデスクランプの淡い光に照らされている。
「エル……ノックをしろと、何度言わせるのかしら?」
低く、湿度を帯びた声。だがもちろんそこに怒りはない、というよりお決まりの常套句だ。
「ごめんねー。でもさ、ミアと一緒に仕事できるの、久しぶりなんだもん!それと裁判無くて良かったね!」
エルは飄々とした笑みを浮かべながら、柔らかい革のソファに勢いよく深く腰かける。
私も無言のまま隣に座り、じっとシルヴィアを見据えた。
「……市長相手にどうやって片付けたんだ?」
問いに対し、シルヴィアの口元がわずかに歪んだ。“悪戯の話”でもするような、意味深な緩み。
「道で会ったの。“よろしく”って言ってやったら、その日のうちにね。アイツは見た目の割に胆力がないのよ」
「えー。あんなに威張ってたのに、それはないよねー」
エルは肩をすくめて、つまらなさそうに足を延ばした。
ゼニス・スパイア最大のファミリーに睨まれたら、誰だって裁判になど持ち込めない。
これでこの街の実権は、完全にシルヴィアの手中に落ちた。
表向きの顔は真っ当なカジノのオーナー、実態はマフィアの頂点。そして私とエルはシルヴィアの影。
「これあげるわ、市長からの贈り物よ。毒は入ってないと思うわ」
シルヴィアはデスクの上の木箱を開けて中に入った瓶を見せた。三十年物のスコッチだ。
「うわっ!これいいやつじゃん!いいの?」
エルがデスク手をついて覗き見る。眼には飲みたいと書かれている。
「苦手なんだろ。スコッチは」
「えぇ。気にしないであなた達で飲みなさい」
シルヴィアはワインしか飲まない。市長はまたも選択を間違えた。
「ありがと!シルヴィア!!ミア一緒に飲もうね!!」
エルはもう木箱を子供のように抱きかかえていた。
「で、今回の仕事は? 私とエルで組むんだろ?」
私の問いに、シルヴィアは紅茶に口をつけた後にようやく答えた。
「ええ。内容は鞄一つの“運び”。時間は今晩。場所は湾口の廃倉庫」
「でしょ!」
いつの間に隣に座ったエルがにっこりと微笑む。
だが胸には妙な違和感が残る。“二人”でやるにしては、簡単すぎる。
「大げさすぎないか…依頼人は誰だ?同業者じゃなさそうだな」
その質問に、シルヴィアの動きがわずかに止まる。カップをソーサに戻して目を細めた。
「……察しがいいわね。NOVAよ。ただし公式なものじゃない」
その有名すぎる名を聞いて私とエルの眉が同時にわずかに動いた。
NOVA──Neutralization of Viral Agents。
ウイルステロ専門の特殊部隊。完全武装の生体災害対応組織。その組織が私達に仕事を依頼してくる。しかも“運び”。普通じゃない。
「NOVAって軍みたいなとこでしょ。なんで私たちに?」
「あそこも一枚岩じゃない。組織の内部に知られずこっそり運びたいのよ」
シルヴィアは、そう言って微笑を浮かべた。幾重もの裏を知っている顔だ。
「ややこしい依頼だな」
「大丈夫よ。これは旧友の頼み。信頼できる“筋”からの話よ」
それだけで十分だ。シルヴィアを知る者なら、それがどういう意味か分かる。彼女にとっては裏切りは死と同義だ。
「で、荷物は?ウイルスのサンプルとかか?」
ウイルスなら私達の得意分野だが、シルヴィアが僅かに笑って首を振る。
「荷物はデータよ。サンプルじゃなくてウイルスに関するデータ。覗いちゃダメよ」
「うわー、ヤバそう。邪魔とか入るかな?」
エルが足をぶらつかせ、軽く肩を揺らす。いつもの無邪気な仕草が部屋の空気を和らげた。
シルヴィアが再び紅茶を口にする。
「そう……ヴォルフ・ブラトフの噂があるわ」
その名が放たれた瞬間、部屋の空気が凍りついた。エルの動きが止まる。私も息をのんだ。
ヴォルフ・ブラトフ。数年前にこの国に入り込んできた、スヴェト系の組織。
冷酷無比。交渉無用。“処理”することに、何の迷いも持たない連中だ。数日前にも小さな旅行鞄にどこかの誰かが収められていた。
エルと顔を見合わせる。青い目も私の意思ももう決まっていた。
──面白い。
「了解。引き受けた」
「私もー!面白そうだし!」
シルヴィアがゆっくりと笑みを浮かべる。
口元は静かながらも、その瞳は鋭く輝いていた。
「では準備に取りかかれ。詳細は追って連絡する。車は整備工場よ」
「了解~っ!」
エルが勢いよく立ち上がり、木箱を抱えてスキップで部屋を出て言った。
私もそれに続き、部屋を出る前に何の気なしに振り返った。
シルヴィアはデスクの写真立て手に取っていた。私とエル、それと母さんが映った写真を。
小さく口が動いていたが何も聞こえない。既に彼女の時間だ。
邪魔しないように私はゆっくりとドアを閉めた。
エレベーターでエルはクリスマスの朝の子供のように待っていた。
「そうだ、ミア!朝ごはん、どうだった?やっぱ、朝食担当は私でしょ?」
私が入るなり、無邪気な声が小さな個室に響いた。
先ほどまでの話が嘘のようだ。
「……いや、朝は私が作る。今朝のは特にひどかった」
私のため息交じりの返答に、エルは抵抗の構えを見せた。
「ええ~!? せっかく上達してきたのに!」
そう言いながら、大型犬のように顔を覗いて全身で駄々をこねる。
「……分かった。あと一回チャンスをやる。でも次もアレだったら、もう二度と包丁を握らせない」
耐えかねて提案すると、エルは動きを止め、表情を凍らせた。
「えええええ!? ………じゃあ、次は絶対に成功させるからね!」
扉が開くなり出口に走り出す金髪の背中。
頼もしくも眩しいその姿を見送りながら、そっと額を押さえた。
「……本気で教えなきゃな」
もう後には引けない。
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