ゴーストタウンで会いましょう
左右
第1話 もし部屋にピストルがあったら……
もし部屋にピストルがあったら、いつ銃口をこめかみに当てて引き金を引いていてもおかしくない――
高校を卒業後、僕はずっとそんな心地のまま生きてきた。
そこから解放されるなんて、思ったことはない――ただの一度だって。
一人暮らしを始めるのも、べつに将来への希望に胸を膨らませてとか、何かを期待してとか、そんなことじゃなかった。
どちらかと言えば、逃げたかった。
何から逃げたかった?
そう訊かれれば、何かから、だと答えるしかない。
その「何か」が何なのか、それが僕にはよくわかっていなかったけれど。
でも、とにかく、
――逃げたかったんだ。
1
いつもどおり昼近くに起床。洗顔とか歯磨きとか髪に寝癖直しのスプレーを数回プッシュするとか、そういういつものルーティンをこなして階下に降りる。
ダイニングルームに入ると父さんと母さんがいた。父さんがテレビの野球中継を観ていて、母さんがキッチンで昼食の仕度をしている、というのも、休日あるあるだ。
ただ、あるあるじゃない要素が一点だけ混ざっていた。キサラギがいるのだ。僕の部屋ならともかく、階下にいるのはとても珍しい。
「おはよう、宗介」
母さんが朝の挨拶をしてきて、父さんが振り向いて、「おう」、そしてキサラギが、
(よォ、伽羅)
伽羅宗介――それが、僕の名だ。
キサラギはテーブルではなくお隣、ダイニングと地続きになっているリビングのソファへ腰かけていた。長い脚を組み、片腕を背もたれのうしろへ回している。上下黒のスーツに黒ネクタイというのはいつもどおり。とんでもなく整った白皙の顔に、いつもの、好意的とも悪意とも取れない微笑を浮かべ、僕を眺めている。
反対側の手にワイングラスでもあったら、絵画みたいにサマになったかもしれない。
父さんや母さんには見えているはずのないキサラギに応えるわけにもいかないので、悪気はないのだけど無視して、
「おはよう……」
ぼそっと言って椅子を引き、腰掛けた。
「時間、何時だったか」
むかいの父さんが尋ねてくる。
「午後二時」
「二時、か……じきだな」時計をチラ見して言った。
二時という時刻は、僕が生まれてから二十一年間暮らしてきたこの二階建ての一軒家を離れる時刻を指していた。
そう――僕は今日、この家を出ることになっている。
手配した引っ越し業者がやって来るのが、午後二時ということだ。
母さんの作ってくれた昼食を食べ終えると、速やかに部屋に戻ってゆく。
父さんは何か話したそうにしていたし、キッチンの母さんは実際いろいろ話しかけてきていて、僕は食事をとりながら応対していたのだった。
僕がそのままリビングにいれば、会話はまちがいなくもっと続いていたはずだ。「ごちそうさま」で席を立ったことで、僕はそれを一方的に中断したというわけだ。
部屋に入ると、キサラギがいた。ベッドに腰掛け、やはり長い脚を組んでいる。
重さがないからか、ベッドがまったく凹んでいない超常現象も、もう見慣れてしまった。アイシャドウで縁取ったような、涼しげを通り越して絶対零度的な目で、こちらを見返してくる。
「……いつのまにこっちに来てたんだよ」
両親の目を気にする必要がなくなったので、僕はそう尋ねた。
(ついさっきだ。つーかリビングで気づかなかったのか、おまえは、俺が消えてることに)
「気づかなかった。そっちに背中が向いてたんだから仕方ないだろ」
ふんと鼻を鳴らすキサラギ。
「リビングにいるなんて珍しかったね。初めてかも。さすがにちょっと驚いた」
言いながら、僕はデスクの椅子を引き、腰を落ち着ける。
(おまえが晴れて独り立ちする日だからな。とくべつだ)
「ひょっとして、引っ越し先までついて来るつもり?」
(あたりまえだ。おまえと初めて会った時、俺は言ったはずだ。しばらくそばにいさせてもらう、とな。その期間はまだ満了を迎えていねえ)
どちらかと言えば貴族的な雰囲気の外見にたがい、ややべらんめえ口調。でも声は、見た目の印象と釣り合いの取れた美声だと言っていいと思う。重低音のイケボ――たとえるなら、闇の底で揺れる蝋燭の炎みたいな声。
「まあ、好きにすればいいけど」
軽い溜め息に諦念を滲ませ、僕は言う。
キサラギと初めて会ったのは、あれは、いつだったっけ――高校を卒業して……そう、それからまもなくのことだったかと思う。
会った、なんて言い方が適切なのかどうかもわからない。
何しろ、こいつは幽霊なのだから。
(ところで、どうだったんだ、最後の昼餐の味は)
キサラギの質問を背中に聞きながら、僕はデスク上のパソコンの電源を入れる。動画投稿サイトで観たい動画がアップされていないかチェックしていく。
室内にはいくつかの段ボールが置かれている。引っ越し先へ持って行く荷物をまとめたものだ。実家から出るわけだから当然ながら家電製品とかはほとんどないし、家具のたぐいもむこうで揃えるつもりなのでそれほどの量ではない。まあ、もともとあまり物を持たないタチだったからというのもあるけれど。
あとはこのパソコンをリュックサックに入れれば、いつでも出発可能だ。
「最後の昼餐って……明日死ぬ、みたいな言い方だね」
(そういうわけじゃないが、おふくろさんのメシを食うのは最後だろ)
「べつに……戻ってくればいつでも食べられるし」
(だが、継続的な同居人としては最後だ)
ああ言えばこう言う。前からそうだった。
「いつもと変わらないよ。……ふつうに美味しかった、って意味だけど」
言いながら、食べたばかりのオムライスの味を脳裡で反芻する。
「――あ、」
思わず声を出してしまったのは、それが僕の一番の好物だということを、ふと思い出したからだ。
母さんが意識していたかどうかはわからない。でも、もしかしたらそうかもしれない。
僕の新しい生活の始まりを祝って、エールのつもりで作ってくれたのかも。
ただ、もしそうだとすると――今の僕には、ちょっと重い。
(ふつうに美味しかった、か。ふん、相変わらず面白みのねえ野郎だな)
「悪かったね。知ってたはずだろ」
(号泣したって良かったんだぜ。そうしたらおまえも多少は面白みのある奴だと認定された)
「きみにからかわれる材料を提供するつもりはないよ」
ふん、とまた鼻を鳴らす。
初めてこいつに会った時のシチュエーションも似たような感じだった。もちろんその時には引っ越しに向けて荷物をまとめてはいなかったけれど、場所はこの部屋だったし、こいつはこうしてベッドに腰掛け、幽霊のくせにやたらと血色の良い薄い唇を、悪意とまでは言えないけどどこか人を見下したような、冷たい感じのする笑いにゆがめていたのだった。
あれが、三年前。
そうか――
なんだかんだ、あれから三年が経っているのか。
三年間、僕はとりあえず生き続けてきたわけだ。
なんか……嘘みたいだ。
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