夜明けを待つ星

途乃ヨアケ

第1話 夜明けの騎士

 囚われの乙女――。彼女は冷たい牢獄の窓辺で、水平線が白んでいく様子を見ていた。

 視界の端では、大波が街を飲み込んでいく様子が映っているはずなのに、乙女の表情は穏やかだ。


 ――水滴の落ちる音、そして水をかき分ける足音と共に、人影が近づいてくる。


「……この鍵の存在が無かったのなら、私たち、ずっと一緒にいられたかしら」


 乙女は振り向きもせず呟き、夜明け前の星空へ視線を向けた。


「ルー・メイ。夜明けを閉じよう」


 それは唯一許された選択。

 夜明けの騎士団長の言葉に、乙女は頷き返した。

 騎士は続ける。


「世界の終わりを防ぐにはそれしかない……そうだろう?」

「ええ、この蝕まれた年月の罪は、それだけ重いわ」

「俺が、その罪と……永遠の闇を引き受ける」


 広がる星空を眺めながら乙女は黙ってしまう。


「……黄金の鍵を、どこに隠した」


 騎士団長の言葉には、もう曲げようのない覚悟が滲んでいた。

 水深が彼の膝上まで迫るころ、乙女が彼の方を向く。

 満月のように美しい黄金の瞳が、ツヤのある漆黒の髪の隙間から覗いている。その小さな満月は若き騎士団長の覚悟に穴をあけるようだった。


接吻くちづけをしてくれたら教えるわ」


 乙女の月の瞳には、シャツを乱雑に纏った騎士団長の姿が映る。

 夜明けの騎士でありながらその立場に見合わない月光を愛するような、黒髪の騎士。海のように深い蒼色をしたシャツの隙間から覗く分厚い胸板は、未だ上下していた。


「よほど焦ったようね」


 騎士はその脚で水をかき分け、鉄格子の前へと来た。

 乙女もスカートの裾に包んでいた爪先を水の中へ沈んだ床へと下ろす。

 足元から鎖の音と水をかきわける音を立てながら、騎士へと近づいていった。


「私たち、婚姻の約束をした仲なのに、接吻くちづけすらもしていないわよね」

「それは、きみが月光の巫女だったから」


 鉄格子に近づくほど水深は深くなっていく。

 すでに、この街で一番高い位置にある城の最上階にある牢獄までも、呑まれ始めていた。

 満月の瞳は、騎士の深い夜のような瞳へと月光を与えている。

 乙女の華奢な手が狭い鉄格子から伸び、その手を待っていたように騎士も彼女の細い指を絡め取る。


「あなたが憎い」

「奇遇だな。俺もだ」


 天井に近い窓からは、滝のように水が降りてくる。

 まるで深い水瓶を創るかのようだ。

 ふたり交わることは生涯無しとでもいうように、月光の巫女と夜明けの騎士の身体を呑み込んでいく。

 騎士の手は巫女に触れている間、ひりひりと熱を持っていた。

 乙女の満月の瞳が瞼裏に隠れると、騎士の夜の瞳からも灯りが消える。

 間隔の狭い鉄格子を避け、顔を寄せ合うふたり――。

 しかしその先を許さないように、ゴツ、と鉄格子が頬やあごにぶつかる。

 最後の接吻くちづけすらも叶わないとは。

 やはり自分たちは罪深い関係なのだと、ふたりは苦しそうに眉を寄せ、笑う。


 そうしている間にも、乙女の身体が浮力で浮かび始めた。

 乙女は騎士の視界に入らないよう顔を背け、口元に手を運ぶ。

 もうすぐお互いの顔すら見られなくなってしまう……。

 乙女は自分の舌の裏から黄金の鍵を取り出し、騎士の手を再び取った。


「さようなら――」


 言い切ると、ついに乙女を水が呑み込む。

 そして乙女の手から騎士の手へと黄金の鍵が渡された。

 接吻くちづけの代わりに……とでも言うかのように、乙女は微笑みを浮かべている。

 騎士もついに水中の中へ呑まれていった。

 手を離さなければ、自分もこのまま水底で息絶えるだろう。

 しかし彼女の眼差しは変わらず騎士を強く見つめ、やわらかく瞬きをしたあと、頷いてみせた。

 思わず口を開いてしまい、残った酸素が水中に空気の泡を作って浮かんでいく。

 耐えきれず、騎士はついに乙女の手を放し――まだ空気のある天井を目指して泳いでいった。

 乙女は騎士が生き延びることを祈りながら、自身の願いが届くことを祈る。

 そして薄く口を開き、空気の泡が口元から散っていく。

 そのまま乙女は鎖に引かれながら水中を漂った。


「はぁ、っ、はぁっ」


 水面から顔を出し、騎士は自分のズボンのポケットにある懐中時計を取り出す。

 水圧に押し上げられながら、必死に最後の深呼吸をする。


 そして……巫女から受け取った黄金の鍵に祈りの眼差しを向け、朝を閉ざす儀式をした――。

 

 とぷん。


 ・

 ・

 ・


 世界を覆う大波。

 それは太陽を食らうと漆黒の海だけを残して退いていった。


 宵闇の中、騎士団長の髪は常世をかぶったように光りを失っていく。

 月光の巫女は床に横たわり、永遠の眠りについていた――。

 冷えた鉄格子越しを掴み、彼女を見つめながら、騎士は何度も格子の扉を開こうと揺らす。

 騎士は格子を数度殴りつけ、彼女を解放しようという願いすらも叶える資格がないのだと気が付いた。

 そして深い漆黒の瞳を瞼の裏に隠す。

 震える口元。大声で叫びたい気持ちを噛み殺して。


 ようやく深く息を吐くと、騎士は瞼を開いた。

 その目は鷹のように吊り上がっている。


「げほっ、騎士団長……巫女様は……」


 この城の中には、かろうじて生きている者もいるようだ。

 騎士団員は金の目を不安げに向け、肩で息をしながら団長の前に崩れた。


「朝は永遠の眠りに就いた。夜明けの騎士団は……解体する」

「騎士団長?!」

「ヴォルト――おまえはルー・メイの名を継げ」

「何を……申しますか……! 巫女様の名を名乗るなど恐れ多い」

「頼む。そして永遠の夜を始めた俺の罪を――これから先の未来へと伝え続けてくれ」


 そして常夜の鷹は名を捨てながら生きることを選択した。


 600余年という償いの時間が過ぎ去っていく――。


 ◆


 ――夜を舞う鷹の目の青年。

 彼は常夜をかぶったような漆黒の髪をなびかせながら、風を切って走る。


 代々男系一族の家系に、女の赤子が生まれたという。

 それも、黄金の鍵を握りしめていたという不可能を叶えて。

 青年の頭の中では警鐘が鳴り響いている。


「黄金の鍵……あれは月光すらも見つけられぬ場所へ葬ったはずだ……」


 冬の星がいつになく瞬いている。まるで夜鷹の訪れを報せるように。

 青年は黄金の鍵と赤子が生まれた、『ルー・メイ一家』の屋敷の塀を超える。

 樹々を伝って屋根へと舞い降り、肩を上下させた。


 息を整え、足音もなく、夜鷹の青年はバルコニーへと降り立つ。

 身も、息も潜め、赤子と家族の笑い声がする部屋の窓を静かに開けた。

 その時……。


「ッ!」


 すらり。


 剣先が夜鷹の頬をかすめた。


「我がルー・メイ家に何用か……」

「……」


 夜鷹は頬を伝う血を……幾年ぶりに見た己の血をその指先で拭い、腰に隠したナイフを引き抜き、構える。

 

「ただ者では無いようだな」


 若き父、ヴィーラント・ルー・メイが呟くと、彼へと目掛けて夜鷹のナイフが飛ぶ。その夜鷹を迎え討とうとヴィーラントも剣を構えた。


 キィンッ!


 高い音が響き、剣に弾かれたナイフは目的を果たし進路を変えた。

 ヴィーラントは自身の注意が夜鷹から外れたことに気がつき、室内へ向けて声を張る。


「ルリィ!」


 夜鷹は身を低くして色とりどりのランプが灯る室内へと入る。

 光も忌避する宵闇の男。

 彼は生まれて間もない赤子を抱いている若き母・ルリィが扉の前へと走る姿を確認した。


「黄金の鍵を渡せ……」


 男の低く、ひどく掠れた声のあと、床を蹴る音がする。

 そしてルリィの前に夜が降り立った。

 彼のいる場所だけ、穴が開いたかのように暗い――。


 その時、もう一人の子供の泣き声が響いた。


「――はっ、リアンク!」


 母がその夜の化身を見て息を呑んでいる間。

 そして、年子の息子の泣き声にほんの一瞬気を取られている間。

 その一瞬を縫って夜鷹は赤子を抱いて姿を消した。


 ――暗闇を駆け抜けていく。

 まだ深夜オワヨだというのに夜の深度が浅く感じた。


「あーぅー……」


 赤子の声が漏れたその時。ようやく赤子の方へ意識が向き、夜鷹は視線を落とした。

 その漆黒の瞳を、星を纏うように輝いた白金の髪が照らす。

 赤子のまだうつろな瞳が泳いでいて、まるで夜鷹を探しているように見えた。


 青年は星の赤子が楽しそうに笑いだした様子を呆然と見つめる。

 ルー・メイ一家は代々男系で、赤毛の子か茶髪の子が生まれると、決まっている。

 なのにまるで地上に舞い降りた星のようなこの赤子のきらめきを見た青年は、この時、罪を償う夜鷹ではなく……ひとりの男に戻った。

 漆黒の瞳から一筋の涙が流れていく。


「すまない。すまなかった……」


 青年は赤子を優しく抱きしめた。

 星がいくつか流れた後――夜の鷹としての覚悟を再び胸に浮かべた彼は、赤子を宵闇のジャケットにくるみ、神殿の門の前に寝かせた。


「ぅー! あ!」


 星の赤子がジャケットの隙間から夜鷹へと両手を伸ばす。

 その手に黄金の鍵がないことに安堵しながら、夜鷹は再び宵闇へと身を馴染ませた――。


 ◆


 あの日、神殿の前に寝かされた赤子も19歳。

 月光の啓示を受け、大神官が門の前まで神官たちを向かわせると、宵闇のジャケットに優しく包まれた星の赤子が眠っていた。


「メイ! ク・ルー・メイ……! リアンク・ルー・メイ!」


 ぱち。


 怪我ひとつなくルー・メイ家に戻った、あの日の乙女が目を覚ます。

 すると母が逆さまになっている娘を睨んでいる姿が彼女の目に飛び込んだ。

 乙女はベッドから落ちていたのだと気がついた。


「母さま」


 乙女・リアンクは海のように深い蒼の瞳を丸くさせて、自身の母に声をかける。

 一方で母はずいぶんとお怒りの様子だ。

 美しいその顔へいつになくしわを集めている。


「いつも、いつも、いつまでも! あなたって子は寝てばかり! 侍女たちの仕事を母さまにまでさせるな……と言っているでしょう?」

「すみません。夢を見ていました」

「ええ、そうでしょう。ずいぶんと深い夢だったようですね」


 皮肉にヒールの音を鳴らしながら、せかせかとクロゼットの方へ行く母は、娘の今日のドレスを選ぶ。

 一方で、床に座り直すと、リアンクは勢いをつけて起き上がった。


「それはもう本当に……燃えるような明るい月が! この瞳のように蒼い夜空が広がる夢です! あと……なんだったろう」


 ひどく大げさに身振り手振りと抑揚をつけて話すリアンクに呆れながら、母はピンクのドレスを手渡し、また彼女へと怒りを向ける。


「いい加減に黙りなさい。一体なにがどうなって……こんっなにもおしゃべりな女の子が生まれたのかしら」

「コウノトリさまが間違えたとおっしゃってましたね」

「全くです。まったく。我がルー・メイ家は代々、茶髪か赤毛の男系一族だというのに」

「でも母さまはそんな私の、星の色をした髪も海のようなこの瞳も大好きだとおっしゃる!」


 リアンクは腰に手を当て、下着姿で力強い目を向けると、したたかに微笑んで見せた。


「……まったく……ほらっ! 食事にしますよ。お兄さまも今日、旅立つのですから」

「兄さま……ああ、今日は成人のお誕生日でしたね」

「今思い出したように言うんじゃありません。ほら、お着換えなさい」

「ただいま向かいます~!」


 目を細め陽気に返したリアンクは、いつものように母に渡されたドレスをクロゼットに仕舞う。

 そしてズボンとベスト……シャツにブローチを取り出し着替えを終えて走りながら部屋を出た。


「リアンク! おまえという子は成人も近いというのに、また男装など……」

「父さま。夜浅ヨハジの月も美しいですね」


 夜が浅い午前7時を指す時計を背にして、窓へ身を乗り出し月を眺めるリアンクに、父は呆れた表情で返す。


深夜オワヨとなにが違うというのだ……? いや。そうではない! そもそも兄が旅立つ日に寝坊など!」


 深夜オワヨの月を頭の中で振り返ると、昨夜の夢を思い出し、リアンクは再び夢の話を始めようとする。


「とても深い夢を見ていました……」

「ハンッ! 夢に酔うなどまさに乙女だな」

「あ。兄さま、ご成人されてもお変わりのないパツパツ。素晴らしいですね」


 兄の視線と声にようやく気がつくと、リアンクも胸を張って自身の筋肉と兄の筋肉を比べ始める。

 すると兄はリアンクが言った「成人しても変わりない」という部分に強く反応を示した。


「なッ! ど、どういう意味だ?! 父上、僕はもう一人前になってますよね?!」

「……だというし……まったく……おまえはいつになったら男装をやめるのだ!」


 延々とリアンクに説教を続けていた父に対し、アントリーは涙目になって声を上げる。


「父上! 僕にも心を向けてください!」

「あなた。少しはアントリーの話も聞いてあげてください」


 かつて偉大な剣士であった父が、成人を迎えた兄・アントリーの話を聞いていない。その様子に呆れた母の言葉に、アントリーは強く頷く。

 するとリアンクはようやく食事の席に着いた。


「さぁさあ! 兄さまの成人を祝して! 今日は盛大にお見送りをいたしましょう」


 一人でグラスを持ち上げ、水で乾杯をして見せるリアンクに続き、全員がいつもの癖で同じようにグラスを掲げてしまった。


「って、女が仕切るな! 一家の恥め!」

「ハハハッ」


 アントリーの言葉を笑って受け流すリアンクは、男ばかりのルー・メイ一家、唯一の乙女である。

 そんな彼女は一部の者の間で恥だ汚点だと言われていた。

 すると母と父がアントリーの言葉を制す。


「アントリー、言いすぎですよ」

「まったくだ。アントリー。妹にかける言葉ではないぞ」

「父上母上はいつもリアンクにばかり甘いですよ!」


 筋肉に似合わず涙もろいアントリーは頭を抱えた。


 この賑やかな朝も、兄が出発するころには変わってしまうだろうか。

 リアンクの心に少しばかり苦さがにじむ。


 食事を済ませると、一足早く兄が屋敷を出て行く。

 それからリアンクも身支度を整え、神殿へと向かった。

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