第8話 息子・拓海
玄関の扉が開く音がした。
父だ。今日は会社に行ったのだ。
家の中から、父の気配が消えていくのを確かめてから、僕はやっと顔を上げた。
張りつめていた空気が少しだけゆるんだ。
昨日痛めた腕をそっとさすりながら、ほっと息をついた。
しばらく、父は帰ってこないはずだ。
クローゼットの奥に隠してある箱の中から、母のスマホを取り出した。
画面を見ると、祥子おばさんからの着信が何件も並んでいた。
父は、母がスマホを家に置いていったことに気付いていた。
位置情報では、この家にあることは分かっても、正確な場所はわからない。
だから家中を血眼で探していた。
僕も疑われた。
「隠しているんじゃないか?」
父の目は、いつもと違い、怖かった。
僕が「知らない」と答えると、怒りに震えた声とともに、足に激痛が走った。
――父に蹴られた。
何が起こったのか、しばらく分からなかった。
父は僕を睨みつけ、部屋を出ていった。
これが、最初の暴力だった。
父は、僕のために毎日ご飯を買ってきてくれた。
でも、優しさなんかじゃない。あれは支配だ。
部屋の前に袋を置いていく日もあれば、部屋の中に入って、物を投げ散らし、僕を殴りつけ、蹴りつけた日もあった。
息が詰まるような恐怖の中、ただ縮こまるしかなかった。
階段を上がる足音を聞くたび、僕は恐怖に怯えていた。
今日は大丈夫だろうか。
殴られないだろうか。
ふと、母もずっとこうして怯えていたのかと思った。
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
母に会いたい。
会いたくてたまらない。
父がいない時、母のスマホを探していた。
引き出しも、タンスも、押入れもどこを探しても見つからない。
ふと、幼い頃に母と一緒に宝物を隠した場所を思い出した。
押入れの奥の古い段ボールの下だったはず。
誰も気付かない場所だ。
そっと段ボールをどけると、小さな箱が現れた。
中で、スマホが静かに光っている。
パスワードはかかっていなかった。
画面には、父やおばあちゃん、祥子おばさんの名前が並んでいた。
――母は、僕にこのスマホを見つけてほしかったのだ。
だから、ここに隠したのだ。
もしかしたら、母から連絡がくるかもしれない。
絶対に、父には知られてはいけない。
僕は、かすかな希望を見つけた。
ある日、父は、いつも以上に機嫌が悪かった。
僕は、背中を丸め、肩を震わせながら、理不尽な攻撃に耐えていた。
でも、いつまでこんな生活が続くのだろうと思うと、胸が締めつけられるように痛み、どうしようもない虚無感に襲われた。
スマホには、母からの連絡はない。
このスマホを母が置いていったのは、意味のないことだったのだろうか。
かすかな希望が、絶望に変わろうとしていた。
無意識のうちに、祥子おばさんに電話をかけていた。
――でも、何を言えばいいのか、まったく分からなかった。
必死に問いかけてくる祥子おばさんの声に、何も答えることができなかった。
もしかしたら、父に連絡がいくかもしれない。
そう思うと、すぐに電話を切ってしまった。
それからしばらく、スマホを見ることができず、ずっと隠していた。
箱から取り出したスマホを見つめていると、また祥子おばさんからの着信があった。
僕は、とりあえずこのスマホの存在を秘密にしなければと思い、電話に出た。
「拓海くん?拓海くんなの?」
祥子おばさんの焦った声が、聞こえてきた。
「この前は、ごめんなさい。…あの」
「良かった!やっとつながって…大丈夫?お父さん、そばにいない?」
電話なのに、なぜかこそこそ小さな声で話すおばさんが、不思議と心に温かかった。
「今、ひとりです」
「そう。――拓海くん」
祥子おばさんは、一息ついてから言った。
「今から、明おじさんと恭介が迎えに行くから、家を出よう」
「――え?」
驚きで言葉が続かなかった。なぜ、そんなことを言うのか理解できなかった。
「・・・お父さんと一緒がいい?」
祥子おばさんは、ためらいがちに聞いてきた。
「父と一緒にいたいか?」
そんなわけない。そんなわけあるはずがない。
僕に愛情なんてない父。
母も僕も、父の怒りのはけ口にすぎなかった。
今すぐでも離れたいのに、どうすることもできなかった。
「・・・いやです。いやです。助けて・・・」
涙が溢れ、喉が詰まって声にならなかった。
母が出て行って以来、初めて泣いた。
「大丈夫。大丈夫だから。待ってて」
祥子おばさんの声も震えていた。
「――拓海くん。お母さんは、きっと帰ってくる。それまで、私たちと一緒に暮らそそう」
僕は、泣きすぎて声を出せなかった。
祥子おばさんは、電話越しで、僕の気持ちが落ち着くまでずっとつきあってくれた。
僕は、荷物をまとめていた。
お母さんのスマホをどうすればいいのか、悩んだ。
僕が持っていることがばれたら、父はどうするだろう。
スマホを使えなくされるかもしれない。
でも、それでもいい。唯一、僕と母をつなぐものなのだから。
祥子おばさんは、「何も心配しなくていいから」と優しく言ってくれた。
もう少しで明おじさんたちが迎えに来てくれる。
僕のことを気にかけてくれる人がいた。
僕は、孤独じゃなかったんだ。
僕は生きていていいんだ。
きっと、母も僕を迎えに来てくれる。
祥子おばさんもそう言っていた。
根拠なんて、ないのかもしれない。
それでも、僕は信じている。
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