アイスコーヒー

ウラカミツヨシ

第1話

映画の序盤の、主人公が報われない時間帯。


ラストを盛り上げるために、序盤は苦しい時間帯を作り出す。

おそらくこれから主人公の前に現れるいくつかの問題を、おそらくこれから主人公は精神的な意味で乗り越えていくのだろうなと想像する。


邦画ってそういうものだよなと、なんとも夢のないつまらない予知に加えて、本来は独立したそれぞれの作品を「邦画」という大きな括りでカテゴライズすることにより様々なものを満遍なく軽く見下し、そうすることで映画というものの全体を分かったような顔をしながら、男はアイスコーヒーを一口飲む。


つまらない人間になったなと自嘲しながらも、一歩引いた視点を持って映画、ひいては「ものごと」を観ているような自身の雰囲気に、この男は僅かばかりの優越感のようなものを感じながらスクリーンを見続けている。

するとその時、隣に座っている女優志望の女(本人曰く"志望"ではなく私は既に"女優")が、鼻を啜る音が聞こえてくる。


まだ序盤の、女性主人公が報われない時間帯。


主人公が報われない、この男にとって退屈な時間帯に、その隣で女優志望の女は鼻を啜りながら泣いている。


女優志望の女は今、作中の主人公の心を推し量り心が動いているのではなく、自分自身のために泣いているのであり、それは金という対価を支払った観客の持つ権利としては大変結構なことなのだが、男はこの女優志望の女の、映画を自分の快感のために消費する身勝手さのようなものに苛立ちを覚える。隣から聞こえてくる啜り泣く音を聞きながら、ひょっとしてこの女は、隣に座っている自分に何かを示すために泣いているのではないか、たとえば純粋さや同情のようなものをー。とすら思えてくる。女が啜り泣く音(なるべく音が出ないように配慮はしているようだが、それすらも何かの表明に見える)と混ぜ合わせるように、アイスコーヒーの入ったカップをほどよく揺らし、氷の音と隣から聞こえる啜り泣く音を絡ませてみる。特に意味はない。当然何も起きない。


ストーリーに全く集中できない男をよそに、映画は進んでいく。


それなりに有名な俳優がそれなりに登場し、それなりに話も盛り上がっていく。「1人で観に来ればもっと感情移入して観られただろうな、でも誘われでもしない限りこの映画を観ることすらなかっただろうな」などとありふれた他所ごと考えながらも、やはりプロが作った映画というものはそれなりに面白さもあり、この劇場のなかで最も散漫な観客である男でさえもそれなりに引き込まれていく。


ラストシーン。父の死をきっかけに、バラバラだった主人公の家族が結束を取り戻し、それぞれの登場人物が精神的な進歩やカタルシスを感じたような顔をしてどこかへ歩いていく。


男は涙を流しながら(結局!)スクリーンに映る彼らの表情を見ている。大きくなっていく音楽と共に、この後の、映画が終わった後のことを考えて憂鬱になっていく。


女は隣で嗚咽を漏らしながら泣いている。金という対価を支払っているので大変結構なことではあるのだが、男はこれ以上は勘弁してくれとげんなりする。


これから女と同じ部屋に帰り、それなりにそれなりなやり取りなどをし、それなりに相手が不機嫌にならないように気を回したりしなければいけないし、おそらくこの後訪れるであろう、難しそうな表情をして「返信が冷たい」などと言い出す時間帯には、それなりの感じで「そんなことはない」みたいなことを言わなければならないだろう。


エンドロールが流れる。男はハンカチで涙を拭く。女も涙を拭っている。自身の手で。


この男が「俯瞰してものごとを冷静に捉えているという自分」や「他人を分析できている自分」を感じられた時に快感を覚えるように、この女もまた、「感受性が豊かな自分」を感じられた時に、言われようのない快感を覚えているのだろう。

どちらも等しく人間の「欲望」であり、それは自身の快感を追い求めている行為に過ぎず、そして人間の欲望に本来優劣はない。


自身の欲望を棚に上げて他者の欲望を批判する者は多い。誇りを捨てて金を追い求めた者がいたとして、それを糾弾する者たちは自身の気高さや清廉な心持ちを誇るが、「金を多く手に入れたい」という欲望と「自身の誇りを貫きたい」という欲望を、仮に「相容れない二極対立の欲望」とした時、彼らは自身らの欲望を上位に置こうとする。


どちらも等しく、単なる「人間の欲望」でしかないのに。


しかし彼らは、今述べたものとは違った欲望を解消している可能性もある。たとえば「他人を見下したい」というものかもしれないし、「自分は優れていると思いたい」というものかもしれないし、あるいは「見下され、軽蔑されたい」という欲望が深層心理にあるという可能性もある。


この後の様々な面倒なことを考えて、何とかしてここで解散できないかと憂鬱になりながらも、もしかしたら「理不尽に思える感情論に振り回され、絶望的な気持ちになりたい」という破滅願望のようなものが男の深層心理にあり、彼は自分が今、その欲望を満たそうとしているに過ぎないのかもしれないと思い当たる。そんな風に考えることでストレスを軽減しようとしているのかもしれない。もう飲み干していると自覚しているのに男はアイスコーヒーが入っていたカップのストローをもう一度啜る。


劇場が明るくなる。


泣き腫らした目を伏せ、少し照れたような様子で「良かったね…」と小声で、自身の荷物をまとめながら女優が言う。


男はなるべく女優を見ないようにしながら、「途中からずっと我慢していたので漏れそうだ。急いでトイレに行くので後で出口で落ち合おう。」とおどけた様子で嘘をつき、右手に持ったアイスコーヒーのカップをやや強調するように小走りをするような小芝居をしながら、誰よりも早く劇場を出ていく。


走る演技の際に腕を強めに振ってしまったため、空になったアイスコーヒーのカップが、くしゃっと小さく音を立てる。


しかしカップを持つ張本人にはその音は聞こえていない。誰にも聞こえていない。

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