【全八話完結】ゼロ・パルス~脈無き者~
冬蜂(FuyuBachi)
第一話:坊さんが気絶するほどの静寂
――カフェ「すのうどろっぷ」の店内。
コーヒーの香りが鼻を掠める。
ゆったりとしたジャズが、蓄音機を模したプレイヤーから流れ、カフェ内に溶けていく。
白い天井。赤レンガの壁。ステンドグラス風の窓――
ぶら下がる円錐の照明は、各テーブルとカウンターを柔らかく照らしていたが、その席には誰も座っていない。
元はアイリッシュパブだった店だが、出入口だけが妙に新しい。
そこだけ段差が削られ、車いすでも通りやすい緩やかなスロープに変わっている。
矢上が自費で直したと聞く。
「マスター。今日も誰も来ないよ」
「それでいいんですよ」
マスターと呼ばれた
目尻に刻まれた皺がひとつ増える。
二十歳の心春と四十代の矢上。アルバイトと雇い主。
気さくなラフな口調と丁寧な言葉遣い。不釣り合いな会話。
それでも違和感を感じないのは、心春の人徳か、矢上の懐の大きさか。
あるいは両方か。
「毎日ほとんど来ないじゃない。大丈夫なの? お店、つぶれない?」
矢上は一瞬、スマートフォンの投資先の画面に視線を戻した。
そこにはS&P500のチャート――世界の経済を映す鏡。
緩やかな上昇線が、穏やかな海のうねりのように光っている。
世界の波は、今日も静かに彼のもとへ利益を運んでくれていた。
「心春さんが心配してくれる限り、まだ大丈夫ですよ」
矢上はふっとほほ笑み、軽い冗談を返すとスマホの画面を消した。
黒い画面に、自分の顔が映る。
額には深い傷跡が浮かんでいる。
それを隠す前髪を指先で整えるのが、いつの間にか癖になっていた。
「そろそろ夕食の時間ですね。
まかないを用意してあります。温かいものと冷たいもの、どちらが今はお好みですか?」
◇
五月の上旬とはいえ、その日は夏のような暑さだった。
心春は冷たい料理を頼み、矢上は冷蔵庫から金属製タッパーから食材を取り出すと、涼やかな手つきで皿に盛りつけていく。
やがて、カウンター席に座る心春の前へ、矢上は音も立てずに皿を置いた。
「
「
心春は“ボクゥ”の語尾を、喉の奥でふるわせるように発音した。
「フランス語の発音、上達しましたね」
「えへへ……。いつもマスターが“ボナ・ペティー”って言ってくれるから。
――と言っても、これしか言えないけど」
心春は照れくさそうに笑いながら、皿に視線を落とした。
皿の中央に、深い紫のナスが静かに横たわっていた。
割れ目から除くトマトの鮮やかな赤と、玉ねぎの金色が、輝くオリーブオイルの膜につつまれ艶めいている。
しばらく見つめたのち、心春はぱっと顔を上げ、目を輝かせた。
「……これ、パトゥルジャン・イマム・パミュじゃない!!」
矢上は目を丸くした。
「よくご存じですね!
正しくはパトゥルジャン・イマム・バユルドゥ
――平たく言えば“坊さんが気絶するほど旨いナス料理”という意味なんですが……どこでそれを?」
「私が中学生の頃、サーモスのフライパンのCMで紹介されていて……
そのとき料理界隈のSNSでちょっとバズって……。
でも、食べるの、初めて!! いただきます!!」
心春の頬が少し赤くなる。
矢上はその横顔を見て、胸の奥にふっと火が灯るのを感じた。
それは彼が今まで経験してきた世界とは、最も遠い感覚だった。
「トルコでは家庭料理の定番なんですよ。
冷やしても温めても、美味しいんです。
出来立てもいいですが、一晩置くと味が染みて、ぐっと深みが出るんです」
心春はナイフをナスに入れ、フォークで掬って口に運んだ。
「うわ、なにこれ……! ナスがとろけてる!
ニンニクって、やっぱり万能だね! トマトも玉ねぎも甘くて最高!
オリーブオイルが全部をまとめてくれてる感じ。
あ、レモンの酸味もすごくいい!
でも……この甘さ、玉ねぎだけじゃないよね? 砂糖、入れてる?」
矢上は頷いた。
心春のそばへ歩み寄り、カフェオレをそっと置く。
そのまま、几帳面に折りたたまれた真っ白なふきんで、空いたカウンターを静かに拭きはじめた。
「さすが料理研究会サークルの方ですね。食レポも完璧です」
心春は照れくさそうに笑った。
「あ、そうだ。マスター。今度の月曜日、サークルがテレビの取材受けるの。
生中継――といってもローカルだけどね。神居テレビ」
矢上と心春の目線が合う。
心春は少し慌てた様子で目を逸らすと、熱いカフェオレを慎重に口に含んだ。
「それは素晴らしいですね。何時からですか?」
「放送は五時半ごろから。
準備と片付けで前後二時間くらいかかるらしくて……
だから月曜日、お休みしてもいい?」
「えぇ、もちろん。頑張ってください」
「マスターもSNSとかで宣伝すれば、絶対お店繁盛するのに!」
「お気持ちはありがたいですが、私はこのままで大丈夫ですよ」
「えーもったいない! だってこれも――」
心春が体をひねり、矢上の方へ向き直った瞬間、右ひじがカップに触れた。
カップが揺れ、傾き、重力に引かれるように落ちていく。
矢上の視界では、その動きがスローモーションのように見えた。
カップが床に届くより早く、彼の手が音もなく伸びる。
次の瞬間、陶器が掌の中に収まっていた。
淹れたてのカフェオレが手の甲を焼くように伝った。
熱は確かにあったが、矢上は眉ひとつ動かさなかった。
「ごめんなさい、マスター! 大丈夫?!」
心春は慌ててカウンター椅子から降りた。
床にしゃがみ込んでいる矢上のそばに膝をつき、ポケットからハンカチを取り出す。
同じ高さで目が合った瞬間、心春の息がわずかに止まった。
矢上の手を拭おうと差し出したその手を、彼はそっと押し返した。
その仕草には拒絶ではなく、温かな敬意が宿っていた。
「大丈夫です。――ハンカチが汚れてしまいます」
矢上はそれだけ言うと、手早く掃除を済ませ、心春にカフェオレを入れなおした。
コーヒーとミルクの匂いがより一層濃くなった。
心春は複雑な表情でお礼を言い、矢上の横顔をじっと見つめる。
その瞳には純粋な疑問と好奇心が宿っている。
「マスターって……元、何していたの?」
「……何がですか?」
「だって、反射神経すごいし。痛みや熱さにも動じない……。
それに背も高いし、体もしっかりしてる。
もしかして、消防士とか?」
矢上は首を横に振った。
「違いますよ」
「じゃあ、自衛隊?
それか……忍者とか!!」
心春は楽しそうにくすくす笑いながら言った。
矢上もそれにつられて口角を上げて笑った。
「……そんな立派なものじゃありません。
市場の中にいました。
上がれば成功、沈めば終わり――その境目を読む仕事です」
「投資とか、そういうこと?」
心春は小首を傾げた。
「えぇ。似たようなものです。
もっとも、投資先は――人間ですが」
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