【2】遺構にて
――これは、その不死性を人を守るために使ったナユタの話。
新緑の山肌を冷ややかな風が滑り落ちてくる。
冬から春へと季節が移ろい、雪は溶けきったものの日の当たらない場所は未だに寒さを感じるほどだった。西世界と東世界を隔てる境界の一つ、南北に長く延びる山脈の、東側のふもとにて。
周辺も整備され見晴らしの良いそこに、一つのぽっかりと開いた穴があった。縁を石で補強してあり、馬車がそのまま通れるほどの大きさだったが、先は暗く、やんわりと漏れ出てくる空気は湿り気を帯びて冷たい。
オットハルト遺構。かつて錫の鉱山として開発予定だったそこは、掘り進める内に古代の遺跡に繋がり用途を一変させた。
灯りの一つも無い遺跡は、アリの巣のように分岐し入り組んでいたものの、うまく道を選べば山脈の向こう、西世界までを歩いて抜けることができたのだ。それが判明して以来、遺構は山脈越えの経路と並んで西世界と東世界を繋ぐ道として使用されていた。
「ごきげんよう、お兄さん方。今から潜りなさるのか?」
一人の老翁がそこへのんびりと歩み寄っていく。人の良さそうな笑みを浮かべ、顔にはいくつもの皺が刻まれていた。背嚢を背負い、使い込んだ旅装をしている。
穴の入り口にたむろしていた若い男二人が顔を上げる。
そのうちの一人、栗色の髪をした方の男が笑いながら返事をする。
「ああ。ただ道案内役が急病になっちまって、他に潜る人が通りかかってくれないかと思って待ってたところだ」
「それはそれは。こんな老いぼれでよければ、ご同行させていただけませんかの。道は存じておりますゆえ」
「どうする?」
男は僅かに年若い方の連れを仰ぐ。
「ま、いいんじゃないか」
黒髪の、少年を抜け出したばかりという年頃の片割れは、ぶっきらぼうな声でそう言った。
「ほほ、なにぶん体力の方に自信がありませんでな。ご迷惑をおかけするかもしれませんが、どうぞよしなに。ルイイと申します」
そうして老人が恭しく頭を下げていると、その背後からどたどたと走って寄ってくる中年の男と、彼に手を引かれる少年が見えた。
「あ、あの……すみません。私たちもご一緒しても……?」
「なんだ、あんたもやっぱり来るのかよ」
「ひ、す、すみません……」
先刻から遠巻きにしつつ若者達の様子を窺っていた男達だった。こちらも旅装ではあるもののあまり着慣れておる様子が無く、どこかちぐはぐな印象を受ける。
「あの、トッド、です。そこの村で司祭をしております。この子はヨキ。両親を病で亡くしたので、シュレーフェンの親類のところまで私が送り届けることになりまして」
「へぇ。そりゃ大変だったな、坊や」
「…………」
青年が顔を覗き込むと、十歳前後だろうか、ひよこのようなふわふわの髪をした子供はトッドの手をぎゅっと握ったまま俯いた。その表情はうつろで、何の感情も示しては居なかった。
「す、すみません、人見知りする子で……」
「まあ、仕方ないよ。こればっかりは俺なんかが何を言ってもどうにもならないわな。俺とこいつは……まあ、護衛と要人だから」
「あ、こら」
栗毛の男が軽い様子でそう言うと、年下の方が目を剥く。
「それを言ってどうする」
「変に勘ぐられるよりは良いだろ。俺がナユタで、こっちがジン、よろしく~」
「…………どうも」
栗毛のナユタがへらへらと笑うと、傍らの青年ジンも不本意そうな顔をしていたが一応は頭を下げる。
「さ、じゃあ準備はいいか? 行くぞ」
まるで近場に出かけるかのごとくナユタが気軽に笑い、そして遺構の入り口、闇を湛えた深い穴を指す。
山脈を上り下り横断する経路に比べて消耗が格段に少なく済むはずのオットハルト遺構だが、亡霊が出る、道が勝手に変わり迷い込んで永遠に出られなくなるなどという与太話がつねにつきまとっていた。
多少の負担を増やしてでも山越えや、大規模な隊商ならばさらに遠回りの砂漠越えを選び、遺構抜けを積極的に利用しようとする者はけして多くは無かった。
「トッドさんとヨキ君はその親戚のところまで行くとして、じゃあルイイさんは?」
前後に果てしなく続く闇をカンテラの灯りで照らしながら、ジン、ナユタ、そしてルイイとトッド、ヨキの五人はまだ幅の広い坑道を横並びになり進んでいた。
「商いをしておりましてな、こちらで仕入れたものを西で売ろうかと」
「の、割には軽そうだ」
「そこは、商売上の秘密というやつでございます、お察し下さいませ」
「へぇ~……」
慇懃に頭を下げるルイイ翁。そこまでされると矛先を下げざるを得ない。ナユタはひとまずの納得をして、前を向く。
山肌から深く穿たれ先の見えない坑道。風鳴りなのか、かずかに低い音が響いている。
道を知らぬ者ならば恐怖で一歩も進めなくなりそうなほどの闇の中、商人の翁は飄々と、若者二人は普通に、そして司祭と子供は固く手を取り合い怯えを分かち合うようにして歩いて行く。
「あ、あの、ナユタさんとジンさんは何故こちらの道を……?」
「俺ら? 里帰りみたいなものかな。元々西の出身で、ちょっと事情があって東でお勉強とか色々してたけど、機が熟したと思ってそろそろ戻ろうかなって」
「……おい、ナユタ」
しんがりを進むジンが唸ると、ナユタではなく質問をしたトッドがひっと息を呑んで縮こまってしまった。
「こいつらが刺客の可能性もあるのに迂闊なことを言うな」
「あるか? おじいさんと司祭さんと子供さんじゃないか」
「……」
栗毛を揺らし、あくまでへらへらと呑気に笑うナユタを睨むジン。発端を作ってしまったトッドがおろおろと隣の二人を見やる。ジンを端にして、ナユタが他の三人から庇うかのようにその横に陣取っている。
「分かってる、命は一つしかないんだから大事にしろってことだろ? 何度も言わないでも知ってる。命は大事、大事」
「……」
なおも不興の色を顔一杯に浮かべるジン。だがこれから二日ほどを共に過ごす間柄をこれ以上乱してはいけないと判断したのか、ぽりぽりと頭を掻いてそっぽを向いた。
「ごめんな、この子、ちょっと昔から命狙われすぎて神経質になってて」
「いやいや、それは苦労されましたな」
「爺さんこそ、かなりの死線をくぐってそうだ」
「ほほ、」
にこやかに受け流すルイイ。人より長く生きているということはそれだけで敬意を表するに値する時世だった。おそらくはこの翁も若者や子供には想像もつかない歴史を経てきたのだろう。
そうこうしているうちに、坑道はやがてゆるやかに下っていき、そして幅も狭まってきた。
鉱石を運び出すために石畳を敷かれ整備されていた地面も、やがてむき出しの土になる。踏み固められているものの、灯りが届ききらず湿り気がありざらりとした感触をしているそれはけして気持ちいいものではなかった。
山脈を抜けるには二日弱ほどの時間を要する。老人と子供が同行しているため休憩を多めに取るとなると、さらに余剰の時間を想定する必要があった。
カンテラの灯りだけを頼りに闇の中をひたすら進む。山を登りさらに下るよりは体力的には楽な道のりではあったが、時間の感覚が次第に失われていき、同行者と馬鹿な話でも続けていないと正気を保つことができない道のりだった。
「さて、ついに来たか」
途中二度の小休憩をはさんだ後、ついに一行は坑道の最深部、オットハルト遺構への継ぎ目に到達する。掘り進める工程で遺跡に突き当たり中断されたためか、そこは既に何も整備されていない。
「時間が分からないな」
ナユタは呑気にそう言って、周囲を見渡す。目の前には、継ぎ目の見えないような石で組み上げられた壁がある。その一部がぽっかりと外れており、そこから遺構に入ることができるようだった。
「油の残り具合からして、まだそこまで遅い時間では無いと思う」
ジンがそう言いながらカンテラを揺らす。
「ま、幽霊が怖いしとりあえず一休みしよう」
そうしてナユタが先んじてその場に腰を下ろす。カンテラを目の前に置き、そそくさと荷物を漁って食料を引っ張り出し、他の面子に示す。
「パンに肉にお菓子もある。ヨキ君、どう?」
「……」
紙にくるまれた焼き菓子を差し出すが、ナユタが伸ばした手の分だけ後ずさりするヨキ。結局トッドの後ろに回り込んでしまった。
「ヨキ、失礼じゃないか……」
「ああ、構わないよ。知らない人に食べ物を渡されてホイホイ食べない子はうちにも居ますんで。じゃあジン君どうぞ」
「……」
憮然とした顔で焼き菓子を受け取るジン。
「えらいね」
「黙れ」
へらへらと笑うナユタの向かい側に腰を下ろし、揶揄されながらもむぐむぐと口いっぱいに菓子を頬張るジン。灯りが揺れるたび、すみれ色の瞳が煌めいている。
「さ、他の人も今のうちにご飯を食べて、一回寝てからオットハルトトンネルに挑もう」
「はい」
トッドが素直に頷き、ヨキを促してから壁面を背にして座る。その後ルイイも反対側に落ち着き、一行はその場で仮初めの一晩を明かすこととなった。
結局お互いに持ち込んだ食料を自分達だけでで消費するかたちになった。ナユタだけはホイホイと他の人物のものまでつまみ食いしてジンに窘められていたが、へらへらと笑い「大丈夫大丈夫」と彼の怒りをあしらっていた。
「誰か、おとぎ話でもしてくれよ。トッドさん、司祭してるなら何か面白い話とかあるんじゃない?」
「む、そうですねぇ……では、ここの幽霊の噂をご存じでしょうか。通ったことのあるルイイさんは既知のものだとは思いますが……」
「いや、幸い遭遇したことがございませんでな、是非窺いましょう」
来た道に向けた煙管をくゆらせていたルイイがそう言うと、トッドは息を整えた後、静かに語り始めた。
「では……オットハルト遺構の幽霊について、私どもの村に伝わっている伝承をば……」
トッドは金髪をしていたがだいぶ薄く、頭皮が透けて見えている。ナユタが彼と話をするたびにそこばかり見ていることに気づいたジンが目線を下げるよう小さな仕草で指示を出しているのだが、ナユタはそんな様子に気づきもせずカンテラの灯りに照らされるトッドの頭をへらへらと眺めていた。
――もとはただの鉱山として掘り進められていたこの坑道だったが、百年ほど前、謎の壁に突き当たり、総出でそれを何とか外したところ、その先には驚くほど広大な空間が広がっていた。
そこはオットハルト遺構と名付けられ、怖い物知らずの盗掘屋などが次々集い、中を探索し始めた。だが古代の遺物は少なく、ただ前後左右に細い道がひたすら広がっているだけだった。
土に押され崩れているところや、人が入ったせいで新たに崩れたところもあり、遺物発見が目当ての輩は次第に興味を薄れさせていった。
それでも夢を捨てきれない者達がぽつぽつと潜ることを続けていたが、やがて、麓の村の人々は、遺構に入った人数と出てきた人数が食い違っていることに気づく。
そのうちの数人はめでたく経路を発見し西側にまで到達していたのだが、それを勘案してでもやはり、遺構に潜った人間の中でそのまま帰らぬ人になった者が少なからず居た。
帰る道を見失い遺跡の中で息絶えた人々。彼らの魂は出口を見つけられないまま彷徨い続け、通りかかった人物にとりつき仲間を増やそうとする。
そうして現在、遺構を抜ける者達が進んでいく際、いつの間にか仲間が減ることも増えることもある。誰もその瞬間を認識はしておらず、誰が増えたか誰が減ったかも分からないまま、ただ気づかないふりをして出口を目指す――
「いやー怖い怖い」
ナユタが大げさな抑揚でそう言って、自分を抱き締めるようにして左右に身をよじる。幼いヨキは耳を塞いでトッドの柔らかそうな腹にしがみついている。ルイイは慣れているのか変わらぬペースで煙管を嗜み、そしてジンはカンテラの光を眺めて何の反応も示さなかった。
「一応確認しとくけど、俺らは五人だな。俺とジンとルイイさんとトッドさんとヨキ君」
「ええ、そうですね。大丈夫ですよ、きっと増えも減りもしません。もう休みましょう」
なおも震えるふりをするナユタを見て苦笑するトッド。おびえるヨキに詫びるように何度もその頭を撫でながら、彼は背後の土壁にもたれ掛かる。
次いでルイイも足を崩し、背嚢から毛布を引き出してかぶる。
「そうですな。休めるときに休んで、できるだけ遺構を早く抜けたいものです」
「了解、おやすみ」
「おい、交代で見張りくらいは……」
「まだ遺構に入ってないからいいんじゃないか? やりたかったらジン君がやっといてくれ」
「…………」
ジンの制止などお構いなしに、めいめいが休む姿勢に入ったため、嘆息をひとつついたジンが仕方なしに寝ずの番に入るべく足を組み替え座り直す。
そうしてその場が静まりかえる。カンテラの芯が油を吸い上げる音が聞こえてくるようだった。
おそらくは皆まだ起きている。だがわざわざ無粋な言葉を発することもなく、休息すべく目を瞑っていた。
ジンはその静寂の中、カンテラの中の優しい光を見ながらじっと佇む。
不思議な空間だった。土の穴の中に突然石壁が現れている。空気がやんわりと動いており、ルイイの煙管の残り香が次第に薄れていった。
ぐるりとカンテラの周囲を見渡すと、司祭とみなしごは寄り添い、老商人は悠然と、そして自分を守るはずの青年は四肢を投げ出しお気楽に休んでいる。
損な役回りを押しつけられたジンは再度ため息を一つ漏らしてから、胡座の上に頬杖をつき、時間が過ぎるのをじっと待った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
そうして、どれくらいの時が経過しただろうか。
優しいまどろみの中に居たジンは肩を揺すられ、やんわりと覚醒する。
「ジン……ジン、起きろ」
「――ッ」
いつの間にか眠ってしまっていた。飛び起きたはずみでぶつかりそうになったナユタがのけぞった挙げ句勢い余って背後に転がる。
「……すまん、寝てしまった」
「うん、休むのは構わないんだけど……」
起き上がったナユタが言いにくそうに背後を示す。
「構わないんだけど、何だ」
頭を掻きながら辺りを見渡すジン、そして一つの異常に気がつき、息を呑む。
「……司祭は、どうした」
そこには嗚咽を堪え俯くヨキと、それを持て余すように指先だけで撫でるトッド翁が居た。
ジンと、ナユタと、ヨキと、トッド。四人。
他ならぬ幽霊の話を披露した張本人が、居なかった。
「……居ない」
「……どこかで用足しでもしているんじゃないのか」
「そう思ってしばらく待ってたんだけど、戻ってこない」
「…………」
ジンは立ち上がり、目を凝らす。カンテラを掲げて前後を照らしてみるものの、その場にいる人間以外の気配は感じられなかった。
冷ややかな空気の中、めそめそと少年の嗚咽だけが響く。
「……気づかなかった」
「いや、そこは仕方ないよ。俺だって寝てたし。ルイイさんもヨキくんも、トッドさんが居なくなったことに気づかなかったんだよな?」
「……私めも恥ずかしながら眠りこけてしまいまして」
ヨキにいたってはその慟哭の様子だけで事情が窺えるため、返事を求める必要も無かった。
「単純に考えて、前に行ったか後ろに行ったか、どちらかだろうが……」
「家に帰ったと思いたいけど、ねぇ」
「帰るにしても一日がかりだろう」
ジンとナユタが顔を突き合わせて唸っていると、横からルイイの声が割り込んでくる。
「それで、どうなさいますかね、お二方」
「ううむ。どうしよう」
右から左へ受け流し、ジンを仰ぐナユタ。
「ジンに任せる」
「…………」
無責任に責任を押しつけられたジンは、仕方なしに未だ俯き嗚咽を漏らしている子供を見やる。
「……ヨキ」
呼びかけると、少年はびくりと肩をふるわせた。
「トッド司祭が居なくなる理由に心当たりは?」
「……」
少年は黙って首を横に振る。
「では、もし居なくなった場合にどうすれば良いかは聞いていないのか」
「……」
次は、縦に。はずみで目に溜まっていた涙の雫が地面にこぼれ落ちた。
「……どうしたものか」
ジンもお手上げとばかりに肩をすくめる。するとナユタが息を大きく吸い、
「トッドさああああーーーーーん、俺ら先に進むからなーーーーー!!」
と叫んだ。突然のことで耳を塞ぎ損ねたジンがナユタの後頭部をはたく。
「痛て」
「バカもの、そういうことは予告してからやれ。というか、先に行くのかよ」
「うん」
しれっと答えるナユタ。ジンは呆れたように肩を落とした後、ルイイを仰ぐ。
「だそうだ。ヨキ。それでいいか? 俺達は先に進むが、君はどうする」
「……」
ルイイの袖の後ろに隠れていたヨキは、ぐすぐすと何度か鼻を啜った後、腫れてしまった瞼を何とか持ち上げ、必死の眼差しをして言った。
「……行く」
「そうか。じゃあ、決まりだな」
親を失った子供に酷な選択を強いるかたちになってしまうものの、他にできることもなかった。
そして一行は荷物を手早くまとめ、装う。トッドの荷物は綺麗さっぱり無くなっているため、ヨキは自分で持ってきていた小さなポシェットを提げただけだった。
「まあ、あと一日と少しもあれば抜けられるはずだ。トッド司祭は……戻ったと考えておこう」
そうして、四人となった一行はその場を後にし、ついにオットハルト遺構へと足を踏み入れることとなった。
オットハルト遺構。古代の神殿か何かと考えられているそこは、縦横無尽に通路が張り巡らされており、何も知らぬ者ならば確実に迷い命を落とす恐ろしい空間となっていた。
見慣れぬ石で組み上げられた通路は長く、見事に一定の幅を保たれている。坑道よりも快適に進むことすらできるほどだったが、全容を知らないジンは緊張を解くこともできずピリピリとしたままでルイイ翁の示す道を進んでいた。
中の温度は土に熱が逃げないためか思いの外安定しており、坑道よりも温かいくらいだった。だがどこからかやんわりと空気が流れており、果てしない闇の底知れぬ不気味さを演出していた。
「油が切れる。これで、入ってからまる一日だ」
カンテラの燃料を補充しながらジンが言うと、ナユタはふんふんと頷いた末にへらりと笑う。
「じゃあもう半分くらいは来たのかな、やったな」
「……どうだかな」
「ふむ。半分ではありませんが、近いところまでは来ておりますかの」
周囲を見渡したルイイが呟く。
「よし、がんばろう」
ナユタが笑いかけると、それまで黙りこくっていたヨキも小さく頷いた。
そうしてこつこつと足音を反射する不思議な石の上を歩き続ける四人。右に曲がり左に曲がり、もはや自分だけではもとの入ってきた場所にも戻ることができないほどのところまで深く進んでいく。
そうして、その日も幾度かの休憩を挟んだ末にカンテラの油の量から時間を判断し、場所を定めて長めの休息を取ることとなった。
通路の角になっているところを見つけ、そこに陣取る。
いまだ警戒心を解かないヨキだったが、流石に空腹だけは我慢出来なかったらしく、少しだけ打ち解けることのできたナユタが焼き菓子を差し出すとおずおずと受け取った後、ぺろりと平らげてしまった。
「俺らはあと三日分は用意してるけど、ルイイさんは?」
「こちらも同じ程度はございます」
「じゃ、迷っても一応は大丈夫か」
足を投げ出したナユタが呑気そうに言う。そして立ちっぱなしだった少年に手を差し出す。
「ヨキ君、おいで」
「でも……」
「大丈夫、俺は居なくならないよ」
「……」
そのままナユタがへらへらと笑っていると、結局観念したのか、ヨキはナユタの横に腰掛け、膝を抱えて小さくなった。
カンテラの灯りを四人で囲む。ルイイは再び煙管をつまみ、ジンは黙って食事を摂る。
「さて、次は誰が話す?」
「……バカか、お前は」
ジンが窘めると、ナユタは悪びれもせずに反論する。
「だって何も話さないのも怖くない?」
「黙って休め。今日は寝ずに見張りをするぞ。後で交代だ」
「へいへい。ジンは真面目なんだから」
「当たり前だ。何度も言うが、命ってのは一つしか無いんだぞ。無くなったらそこで終わりだ。お前みたいに軽々しく使おうとしてはいけないに決まってる」
「へいへいへい」
大の字になって寝ころぶナユタ。真面目に聞くつもりがないことを全身で示す。
「まあいい。先に休んでろ」
そうしてジンが今度こそ寝ずの番をすべく身構える。
「お疲れでしょう。代わりましょうか?」
「いや……休んでくれ」
煙管を片付けたルイイの申し出を丁重に辞退するジン。
「ねえねえ、ジンの初恋の話とか聞かせてよ」
「寝ろ!」
「おーこわ」
大げさにおびえるふりをしたナユタが、ヨキに毛布を被せた後、自分も丸くなってようやく大人しくなる。
その背に、ナユタにしか聞こえないような、小さなつぶやきが届いた。
「……いなくならないでくれよ」
「当たり前だろ」
静かに受け答えした後、ごそごそと体勢を変えて落ち着くところを見つけたのか、今度こそナユタも口を閉ざした。
やがて人の営みの音が止むと、遠い風鳴りがかすかに聞こえてくる。カンテラが油を吸い上げるかすかな音すらも判別できるほど静まりかえった中。
壁を背にして座っているジンが、ふいに低く囁いた。
「俺は、事情があり長らく東のとある国で暮らしていた。そこで色々勉強させてもらった。政や王道について。そして、今ようやく生まれ故郷の西へと戻るところだ。とある集団の招聘でな。どこから情報を仕入れたんだか、その集団は俺の血の価値を知っているとのことだった。そしてこの遺構で協力者と落ち合い西への入国を手引きしてもらう算段になっていた。
ただし、今までその協力者と面と向かって相談していた訳では無い。あくまで文書と人伝によるものだった。
そして、文書には遺構抜けの際の協力者は二人、と記されていた」
ジンが息をつく。返事は無く、再び遠い風鳴りが控えめに周囲に響く。
「さて、俺たちについてきたのは三人。そのうち二人が協力者で一人は刺客か、はたまた二人の協力者など始末されて三人ともが刺客か。もしかしたら最初から俺たちをおびき出すための刺客の罠だったなんて可能性も、低くは無いな。トッドはいったいどっち側の人間で消されたんだろうな」
風鳴りが強まった気がした。誰もが息すらせずじっとしているためだろうか。
「皆、どう思う?」
返事はどこからも返ってこなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「――これは、参ったな」
休息を終えて事態を把握したジンは呆れたように呟く。その気配で目を覚ましたのか、横のヨキももぞもぞと身じろぎをした末に目を擦りながらむくりと起き上がった。
「起きろ、ヨキ」
「え……」
周囲を見渡したヨキが呆然とする。
「どうして……」
何度もあたりを見渡し、そして現実を悟った少年は立ち上がることができないまま、わなわなと震えることしかできなかった。
「一人くらいは居なくなるかとは思っていたが、まさかな」
呑気な口調ではあったが、流石にその根底にはどこか深刻そうな色が見てとれた。
「さて……どうしたものかね」
その声に返事をする者は居ない。
――だれも、居なかったのだ。
栗毛の青年も、白髪の翁もおらず、残されたのはただ静かに光を放ち壁を優しく照らすカンテラのみ。目が覚めたら既に、そこに居たのはジンとヨキだけだったのだ。
「ナユタさん……と、ルイイさん……」
「いないな」
「ひっ……」
ジンの呑気な返事でついにヨキがしゃくりあげる。両手で顔を覆い、嗚咽を漏らしながら小刻みに震える。
だが――
「あ、いいよ、そういうのは。上手だったな」
「……?」
ジンの声で、きょとんとしたヨキが顔を上げる。その目は赤く腫れており涙で濡れている。
「もう目的は達成したんじゃないか? ヨキさん?」
「お兄さんが何を言ってるか、わからない」
泣きはらした顔でいやいやをするように首を振るヨキ。だが、カンテラを挟んで向き合うジンは見透かすような視線を、親を亡くしたばかりの子供に投げかける。
「それとも最後の一人になるまでやるのか? この――」
言いながら、自分とヨキを交互に指さすジン。そして、挙動を止めたヨキに向かって、言い放つ。
「幽霊ごっこ」
途端、雰囲気が一変する。弱々しく泣いて庇護者の後ろに隠れるばかりだったはずの子供は、いつしか凜と背筋を伸ばし、大人と相対しても引けを取らないほどの佇まいをしていた。
「……いつからお気づきでしたか」
「最初からだ。君達はナユタが『オットハルトトンネル』と言っても誰も引っかからなかったし、失礼だが親御さんを亡くして他国に行くという生い立ちの割には元気そうだったからな」
「……ああ、あれがブラフのつもりでしたか」
ヨキは薄く笑みを浮かべ、腕を組む。大人顔負けの仕草だった。
「あなたこそ、虚け者ごっこはもう終えて良いのですよ。ジギスムント殿下」
「――合言葉は?」
「プリンツレルヒェ」
そこまでを聞いたジン――ジギスムントは、口の端を上げて僅かに笑みを見せる。
「ここで立ち話をしていても時間の無駄だ。出よう、道は知っているのだろう?」
そう言って、笑みを引っ込めるジン。表情を変えるだけで青年の印象が一変する。気むずかしい人嫌いの若者はすっかりなりをひそめ、敬称にふさわしい威容を身につける。
「かしこまりました、殿下。こちらです」
ヨキ少年はそんなジギスムントに恭しく頭を下げ、闇の先を見通しているかのように遺跡の一方を指した。
「――とまあ格好を付けてみたが、今の内に白状しておくと半分くらいは博打だった。はずれたら誤魔化すつもりでな」
カンテラを掲げて先行するヨキの後ろをついて歩くジンもといジギスムント。カンテラの光が揺れ、ヨキがくすくすと笑う。
「みごと的中されたのですから、それも殿下の持ちうるお力です」
「そう解釈してくれると助かる」
前日までの怯えっぷりはどこへやら、十歳ほどのヨキ少年は慣れた様子で闇を切り開くように進んでいく。長い直線に入り、こつこつと足音だけが響いていた。
「参謀の方も遅れて出てこられるはずですので」
「参謀」
慣れない言葉を口にしたジギスムントが苦笑する。
「あれは……護衛とは言っていたが、ただの悪友だ。特別な能力も何も無い、俺に突き合ってくれている友人なだけだ」
「ええ。そのご友人ですが、トッドがお連れするはずですので、ご安心を」
「つまり、君らは皆ぐるで、三人とも道には精通していると」
「そういう生業ですので」
僅かに足を止め、肩越しにジギスムントを見やってくるヨキ。
「遺跡を通る輩を捕まえて追いはぎをする生業か?」
「通行税と言っていただきたいものです」
再び歩き始めたヨキは、落ち着いた声で語り始めた。
「我々は古来よりこの遺構を使い密やかに山脈を抜けて商いや情報の行き来をさせてきました。あの坑道の他にも入り口はいくつかあります。東西に抜ける経路もね。
坑道が掘り進められついにこの遺跡に行き当たってしまってから、我々の仕事は性質を変えました」
「追いはぎ」
「……まあ、何と仰って下さっても構いませんが」
ジギスムントの茶々にヨキが小さく嘆息する。
「かつては山脈越えも砂漠越えも困難で、唯一この経路を知る我々には強大な力があり、東西の国家の暗部にもぐり込みそのまつりごとすら操ることができました。ですが次第にどの経路も安全性を増していき、そして止めに坑道からここが掘り当てられてしまった。何とか良からぬ噂を流し分断していますが、いずれはここも完全に攻略しつくされてただの道と化してしまうことでしょう」
「……君は、見た目と心の出来がずいぶん違うようだが」
「麓の村に稀に生まれるんです。僕のような生まれながらに心の老いた者が」
「ふむ」
「それを長と祭り上げることによって、続いてきた集団でした」
「そこまで明かしてしまっていいのか」
いつの間にか、闇に満ちる空気が変わっているようだった。湿り気が減り、風を感じるようになる。長く閉ざされていた道の終わりが近付いていることが窺えた。
「あなた様を見込んでのことです、殿下」
「殿下、ね」
初めて呼ばれた敬称を持て余すジギスムント。
「お生まれになった国を追われて以来長らく東に留まっていたあなたがついに西へ戻るということは、ついに玉座を手中に収めにいくのでしょう?」
「何でも筒抜けだな」
「我々の商いは主に情報を扱っておりましたので。
そこで、取引がしたいのです。我々はこの生業を続けていても先細りになる一方だ。そして殿下には後ろ盾が少ない。一つ、お抱えの諜報組織などいかがですか。この先何とかとりつく場が欲しいのです。必ず、お役に立ちますゆえ」
「お互いのために確約はすまい。玉座どころか国に入ることすらまだ準備ができていないのでな。国に入って、王都に潜り込んで、王城へ乗り込んで、天守でのさばっている連中をやっつけて……まだまだ、果てしない道のりだ」
「かしこまりました。良い返事をお待ちしております、殿下。
――さあ、出口が見えてきましたよ」
一晩を明かす前には寡黙な男とよく泣く子供だったはずの二人。腹の探り合いを終えた頃、ようやく僅かな光明が差し、長い道のりの終わりが見えてきた。
「お疲れ様です。お連れの方も間も無くおいでになるはずですので」
そうして、二人してまばゆい光の中へと足を踏み出す。
そこは、山嶺の中腹のようだった。なだらかな斜面が続き、その先に集落が見える。
爽やかな風が、二日の間に付きまとっていた鬱屈した空気を簡単に洗い流してしまうようだった。痛いほどの陽光の中、日差しから目を庇いながらジギスムントは背後を仰ぐ。廃坑の入り口と異なり、そこは遠目に見ればうまく周囲の風景と溶け込むようなつくりをしていた。おそらくはヨキの一族がそういう風に偽装を施したのだろう。
「何も悶着を起こしていないと良いのだが」
参謀もとい悪友を想いながら、協力者を得たジギスムントは苦笑し、
――そして、その予感は見事に的中したのだった。
爽やかな風に吹かれつつヨキとジギスムントがのんびりしていると、やがてぱたぱたという足音が小さく聞こえてきた。身を乗り出して遺構の入り口を覗き込むと、やがて闇の中から一人の人物が飛び出してきた。
「ひゃあ!」
間抜けな声とともに姿を現したのは他でもない初日に失踪したはずのトッドだった。
「あ、ヨキ……くんと、ジンさん」
「もう正体を明かしたよ」
「そ、そうですか。あの、ヨキ様。お二人が……」
闇に紛れて行動するためか黒っぽい服に着替えているトッドがおろおろと動揺している。ヨキは先日までの被保護者としての態度などどこへやら、すっかり上役としての威容を見せている。
「どうした」
「腰をやってしまって……途中で立ち往生しています」
「……もう歳なのだからあれだけ気をつけろと言ってあったのに」
「いや、それが……」
言いにくそうにもじもじとした末、トッドが口にしたのは――
「お二人とも、です」
「へぇ……」
思わず額に手をあて天を仰ぐジギスムント。
「経緯を説明しますと……その、私は打ち合わせ通りに初日に離脱しまして後ろから皆様を追尾しておりましたが、次の休息時にルイイが離れる際に、ナユタさんに気取られてしまいまして……」
「それで一気に二人減ったのか」
「ルイイの煙は眠りを深くする作用がありますが、あの方はそれに気づいていらしたのかもしれませんね。予定としてはそこでルイイが離れ、出口近くで油断させたところで脅かすつもりだったんですが……まあ、あなた様が尊い出自であることはかねてから把握しておりましたので、方針を転換させていただきました」
「それはいいとして、迎えに行かないといかんだろう」
「仕方ありませんね……トッド、どのあたりだ」
「第四区画のあたりです」
「分かった。それほど遠くはないですね。トッドは村に行って担架を持ってこさせて。殿下、ここでお待ちいただくか、もしくは――」
「行くぞ」
自ら言い終えないうちに、ジンはさっさと身を翻して歩き出す。
「かしこまりました」
ヨキはこくりと頷き、二人は再びオットハルト遺構の闇の中へと身を投じた。
一度出口を知ってしまえば、果てのある闇はそれほど恐れるものではなくなった。ヨキがいずれはこの遺構がただの道になると言っていたのも理解できるようだった。
ジギスムントは早足で進むヨキの背を追う。体感で半刻ほど歩いただけで、目的の場所に辿り着くことができた。先の見えない闇の中に、小さな光が見えたのだ。あとはそこまで真っ直ぐに進むだけだった。
「ルイイ」
光が間近に迫ったところで、ヨキが声をかける。そこには小さな灯りを翳したルイイ翁が佇んでいた。その足下には――栗毛の青年が這いつくばっていた。
「ナユタ!」
思わず名を叫び駆け寄るジギスムント。だがその腕をヨキが咄嗟に掴む。
「待って、この臭いは……」
「ほほ、察しの良いことで」
だが、時既に遅し、だった。ジギスムントの手を必死に引いて下がろうとするヨキだが、途中でぐらりと脱力し、膝をついた末にその場にくずおれる。
「な……っ」
何かの毒を焚かれている――そう気づいた頃にはジギスムントの膝も言うことをきかなくなっていた。
「く、そ……」
やがて全身の力が抜け倒れ込み、ジギスムントもあえなく遺構の床面に頬を擦る。
「やっと、役者が揃いましたな」
矍鑠と立ったまま勝者の風格を纏ってそう言ったのは、腰を痛めて動けなくなっているはずの白髪の翁だった。
「長よ」
ルイイは一歩を踏み出し、ヨキを見下ろす。
「貴方はこちらの若者があの国をひっくり返すのを確信し我らの未来を託すと仰るが、私のような先の短い者には長い目での未来など必要ありませんでな。かねてからの取引先に義理立てさせていただきますので」
「お前、まさか……」
ヨキのかすれた声で、毒使いの翁は頬の皺を深めて笑う。
「ええ。あなたを含め、西の王家に売らせていただきました。本当は二日目にでもやろうと思っておりましたが、こちらの青年が中々どうしてしぶとく頑張ってくれまして」
言いながら、ルイイは力なく横たわっている栗毛のナユタをつま先で小突く。
「今頃トッドが首を収める箱を持ってくるはずです」
「……」
ヨキが悔しそうに歯がみする。何とか起き上がろうとするが、あたりにはほのかに甘い香りのする何かが満ちており、幾度か頑張っても頭をもたげることすら叶わなかった。
「さて、どなたから行きましょうかな」
そう言って、翁は背嚢からゆっくりと鋸のように細かいかえしのついた刃物を取り出す。明らかに食物などではなく固いものを切断するための道具だった。そして、それをもって何をするかはもはや問いただす必要も無かった。ジギスムント達の首だ。
少しの間虚空を彷徨っていたその切っ先は、やがてまずヨキに向けられる。
「では、刃こぼれしなさそうなあなたから」
「くっ……」
声すらも満足に出せないほど痺れの進んだヨキが唸る。
そうしてルイイが刃物をヨキに向け、その首に添わせようとしたときだった。
「わるい、ジン。約束……やぶる、ぞ」
いささか呂律の回りきらない言葉でそう言って――かねてから斃れていたナユタが、震える手で小さなナイフを取り出す。
「おや、まだ動けるのですか」
そう言ってルイイが自身の武器とナユタの手のそれを見比べた末に嘲るように片眉をあげた瞬間――ナユタは、そのナイフをルイイではなく、自身に向け――首筋を切り裂いた。
「ナユタ……っ」
薄明かりの中でも分かるほど赤く鮮やかな血潮が吹き出す。その場の誰もが驚き固まる中、噴出する血はやがて減っていき、やがてその主はがっくりと脱力し――絶命する。
「……何がしたかったんだか」
そう言ってルイイが再びヨキに向き直るのと、ナユタが背後から彼に飛びかかるのはほぼ同時だった。
「――!!」
ナユタはルイイを引き倒し、その手から刃物を奪う。
「な、何じゃお前は……」
死んだはずの青年が生きていた。驚愕で目を見開くものの、ルイイの復帰は早かった。ごろごろともみ合った末、何とかナユタが上位を取りルイイを押さえ込もうとするが――
「あ、う……」
悔しそうに呻きながら、ナユタの動きが次第に鈍くなっていく。
「どういう詐術だったのかは分からんが……煙はまだ効くようだな」
脱力していくナユタの下から這い出たルイイが忌々しそうに吐き捨て、ナユタの側頭部を蹴飛ばす。今度こそ動きが鈍くなったのを確認して、ルイイは再び刃物を拾う。そうして首を落とすべく柄を握りしめ――
「へへ、」
その声にぎょっとして、せっかくの得物を取り落とす。
また、ナユタだった。先ほどのナイフを再び首に突きつけ、不敵に笑っていた。
「お、お前は、一体……」
思わず一歩を退くルイイの目の前で、ナユタは再び絶命し――そして蘇る。流した血潮はどこかへ掻き消え、何事も無かったかのように青年は立ち上がる。
そうして再起したナユタは思い切り足を振りかぶり、ルイイの落とした鋸を蹴飛ばした。しゃ、と鋭い音と共に滑っていき――やがてそれは光の領域を脱し、闇に消える。
事態が信じられないという風に立ち尽くすルイイ。ナユタは手を伸ばしかけるが、その指先が翁に届く前に失速し、ぐらりと崩れる。だが、その顔には絶望の色は無い。
煙を吸ってしまい倒れるナユタは、しかし不敵に笑い、三度、自身の首を切り裂く。もはや信じられないとばかりに後ずさりするルイイを、今度こそ捕えるナユタ。何とかルイイを後ろ手に縛ったところで、またもや時間切れになる。
背後で倒れまた死のうとするナユタを見て、ついに恐怖で心が振り切れてしまったルイイが尻餅をつき、そしてもがきながら逃れようとする。
「ばけもの……ッ」
「そうだ、ばけものさ。煙が薄れるのが先か、あんたの体力が尽きるのが先か――何度でも、死んでやるよ」
言いながら、四度目の自刃。血しぶきがぴしゃりとルイイの頬にかかり、老翁はついに呆けたように固まってしまう。
「ナユタ……」
「ジン、おしかりはあとで受けるよ」
ジギスムントの力ない呟きに薄く笑って応えるナユタ。そこにはお調子者のへらへらとした表情は無かった。
そうして麻痺の煙が完全に薄れるまで、何度も何度も、数えられないほどの回数ナユタは自刃し、そして何事も無かったかのように復活した。途中で呑気にやってきたトッドも引っ捕らえ、ジギスムントやヨキを一人ずつその場から引きずって遠ざけていき――煙が抜けたジギスムントとヨキが歩けるまでに回復する頃には、おそらくナユタの死んだ回数は百をくだらないくらいまで積み重なっていた。
「……もういい、やめろ。もう煙は無いだろう」
「いや、疲れたから」
そう言って当たり前のように首を切ろうとするナユタの手を掴み引き寄せ、ジギスムントはそのまま頭突きをする。
「痛で……っ」
しゃがみ込み悶絶するナユタを見下ろすジギスムント。
「命を粗末にするな。頼む……もう、しないでくれ」
涙目で見上げてくるナユタと目が合う。その真剣な眼差しを受けたナユタは苦笑し、頷く。
「分かったよ」
「あの、その方は……いったい」
今の今まで呆然としていたヨキが呟くと、ジギスムントとナユタは二人同時に振り返り、笑う。
「「ただの、人間だよ」」
その言葉は同時だった。再び顔を見合わせ、二人は朗らかに笑う。
「こういう体質でな、すぐに死にたがるものだから少しくらいは命を大事にしてみろと言い聞かせてあったのだが……」
ルイイとトッドを縛ったまま放置し、ヨキとジギスムント、そしてナユタの三人は遺構の出口を目指していた。
そうして多少ふらつきつつも何とか遺構の終わりに辿り着く。
傾いた西日が差し込み、そこは赤みを帯びた光で三人を迎えてくれた。
ナユタが外の空気を吸い、へらりと笑う。
「これからどうする?」
ジギスムントはナユタに笑いかけた後、どこか所在なさげにしているヨキにも眼差しを向けた後、言った。
「元々はまつりごとや王位だの玉座だのにそれほど興味があったわけじゃないが……今よりもう少し、命を大事にする世界を作りたいもんだと思った」
「はは、違いない」
「俺は……お前が死なずに済む国にしたいよ」
「ああ、頼む。でも、俺は、ジンのために必要なら何度でも死ぬと思うよ」
寄り添っているようで相反している二人の意思。苦笑するナユタに軽く額をぶつけてから、西世界の変革を宣言した男は背後の少年を仰ぐ。
「長よ。協力してくれるか?」
部下に裏切られ、超常の現象を見せつけられ続け、すっかり萎縮してしまっていた少年は、少しの間ぽかんとしていたが、やがて夕陽を浴びてのびながらへらへらと笑う不死者の青年と、彼の命をそれでも大事にしたいと願う尊い血を持つ青年を見やり――覚悟を決め、頷いた。
この後ジギスムントは西世界のとある王国で、父祖の悲願であった王位の奪還を遂げることとなる。
玉座に君臨した彼は、身も心も清い王者では無かった。全ての命を大事にするわけではなく、諜報も粛正も駆使し恩恵と恐怖を使い分けながら乱れた国内を宥め治めた。後世、中興の賢王として歴史に名を刻んだ彼は尊い血筋の妻を娶る他に栗毛の青年を好み常に侍らせていたといくつかの書に記されている。だが、長い年月の中で幾度となく市井から召し上げたことになっているその青年達が真実では全て一人の男で、不死の秘蹟を宿した王の盟友であったことは、本人達以外に誰も知るものはいなかった。
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