Front Of Crisis

佐藤 景虎

第1話空が割れた日

 一言で己を表明しろ。

 もしも誰かにそう言われたなら、彼は迷いなくこう答えるだろう。

『臆病者』と。



「──危ないっ!」


 午前八時前の閑静な住宅街。

 通勤通学で多くの人が道を行き交う中、その声は突如として響き渡った。

 声の主が示した先には、信号のない車道を横切る一人の小学生。どうやら野良猫が前を横切ったらしく、無邪気にランドセルを揺らして追いかけている。

 同時に、その後ろからは一台の小型トラックが迫っていた。


「きゃああああああ!!!」

「止まれーっ!!!」


 最初の声に遅れて、次々と上がる悲鳴や静止の叫び。

 だが、気付いたときには全て手遅れだった。

 飛び出した少年は突然のことに硬直して足を止め、トラックは今更ブレーキを踏んだところで間に合わないところまで来ている。

 瞬間、誰もが脳裏に、ある光景を思い浮かべた。

 跳ね上げられる小さな身体、撒き散らされるランドセルの中身、真っ赤な血溜まり──。

 ほんの些細な不注意から、ほんの僅かな好奇心から。

 間もなくこの場所は、地獄のような惨状へ変わろうとしていた。

 しかし次の瞬間、


「うおおおおおおお!! 間に合えええええッ!!」


 不意に、一人の青年が雄叫びを上げて車道に飛び出した。

 そこからの動きは、まるでアクション映画のスタントシーンのよう。

 ビーチフラッグに飛び掛かるような姿勢で、青年は勢いよく小学生の身体を抱きかかえる。そして間一髪、地面を激しく転がりながらも反対側の歩道へと辿り着いて見せたのだ。

 直後、一瞬前まで二人が居た空間をトラックが走り抜ける。

 トラックは数メートル進んだところで停車すると、慌てた運転手が青年と小学生の下に駆け寄った。


「だ、大丈夫か!?」


 狼狽する運転手。

 トラックとの接触は無かった筈だ。

 しかし青年の身体には幾つもの傷が浮かんでいる。

 小学生を庇った際、激しく地面を転がった影響に他ならない。

 見る見るうちに青ざめる運転手の表情。また通行人も、不安と緊張の面持ちでその様子を眺めている。

 その時、


「…………大丈夫か、坊や?」


 全身の痛みに顔を歪めながら、それでも青年はゆっくり身体を起こすと優しい声色でそう告げた。

 自身の状態など微塵も顧みず、ただ小学生の無事を願いながら。

 果たして、


「…………っ。……う、うぅ、うわあぁぁぁん!!」

 

 小学生は、突然のことに何が起きたのか分からず目を白黒とさせていた。

 けれど周囲の反応や直前の光景を思い出したことで状況を理解できたらしい。

 目尻が徐々に涙ぐみ、嗚咽が喉までせり上がる。そして最後には大声で泣きだした。

 直後、住宅街は歓喜に沸き立った。


「うおおおおおお! よく間に合ったな!」

「すげぇな兄ちゃん、大したもんだ!」

「よっ、ヒーロー!」


 誰も彼もが、口々に青年を称賛した。

 『ヒーロー』と。

 果たして、そこに異論を挟む者など誰一人いない。その身を挺して幼い子どもの命を救ったのだ、この勇敢な行いを讃えずして他の何を称賛するというのか。

 鳴り響く拍手の音、止まない歓声。

 その空間は、まさしく脚光を浴びるヒーローの舞台ステージ。まるで世界の全てが彼を祝福しているかのようだった。

 しかし光が大きければ大きいほど、栄光が輝きを増すほどに、日陰は深く色濃くなっていくもので。


「……俺も勇気を出せていたら、あんな風に」


 歓声を浴びる青年を遠目に、とある少年が無意識にそんなことを呟いていた。

 少年は、これといった特徴のない一六歳の男子高校生だ。

 垢抜けない印象の黒髪に中肉中背の体格、顔立ちは可もなく不可もない。

 黒のブレザーに袖を通し、学校指定のカバンを握った姿は、まさに平凡な学生の権化ごんげと言える。

 いて特徴を挙げるなら、優しげな雰囲気を感じさせる奥二重のタレ目くらい。

 その目も今は、うつむく前髪に隠れている。


「…………」


 少年は気付いていた。小学生にトラックが迫っていたことに。

 だから真っ先に声を上げた。『危ない!』と。 

 少年は思う。

 ただ声を上げるだけじゃない。もしも行動できていたら、自分があそこに居れたのではないかと。

 けれど理解してる。そんなことは、無意味なタラレバに過ぎない。

 最初に気が付いた? だからどうした。実際に子どもを助けたのは青年だ。

 自分は、ただ見ていただけ。


「……臆病者め」

 

 ポツリと呟き、少年は目の前の光景に背を向ける。

 眩い輝きから目を逸らすように、あるいは光を嫌う虫のように。

 小学生が助かったというのに、それを素直に喜べない。

 そんな自分をひどく惨めに思いながら、彼は住宅街を後にした。


 

※ ※ ※ ※ ※



『お父さんはね、ヒーローみたいな人だったんだよ』


 それは昔の記憶。

 仏壇の前で手を合わせる時、母はいつも同じ話をしていた。

 お父さんは、困っている人がいたら放っておけない。自分が損をしても他人のために行動できるヒーローのような人だった、と。

 その話を聞くたびに、幼い頃の少年は自分もそうなりたいと思っていた。

 けれど──。



「はぁ……」


 住宅街を抜けて暫く歩いた先にある、人で混み合う駅前の交差点。

 付近には高層ビルが建ち並び、周辺にはコンビニやスポーツ用品店、薬局などがのきつらねている。

 その一角にある歩道で信号を待つ黒髪の少年──風守進治かざもりしんじは、ひとり小さくため息をこぼしていた。 

 理由は明白だ。

 ほんの十数分前、住宅街で見た光景。

 小学生を救い、喝采かっさいを浴びる青年ヒーローの姿。

 思い返すたびに無意味な悔恨かいこんが脳裏を埋め尽くした。

『俺も勇気を出せていたなら』、と。


──つくづく、自分で自分が嫌になる 


 昔から、いつもこうだった。

 人より早く気付くのに、肝心なときは見ているだけ。

 行動しようと思うたび、余計な逡巡しゅんじゅんさいなまれた。

 俺なんかに出来るのか。周りから変な目で見られないか。余計に事態を悪化させてしまうのではないか。

 そうして後先を考えた挙げ句、結局は動かない。

 そのクセ誰かがそれを成した時、決まって『ああしていれば、こうしていれば』と未練がましく思い返すのだ。

 これを臆病者と呼ばずして、他に何と言うべきだろう。


「はぁ……」

 

 再び溜息をこぼす進治。卑屈な眼差しで空を仰げば、ちょうど車道の信号が青から黄色へ変わる瞬間だった。

 その時、


「──なんだ、アレ?」

 

 ふと、目を凝らした進治の口から困惑が溢れる。

 その視線は信号より遥か高所、交差点の真上に忽然こつぜんと現れた"不可解なモノ"を捉えていた。

 例えるならソレは、『空の亀裂きれつ』とでも言うべきか。

 地上二〇メートルほどの高さに出現したソレは、虚空にクモの巣状のヒビ割れを広げている。

 一体アレは何なのか。

 少なくとも、それが人類のことわり埒外らちがい、一切の理解を超越した事象であることは言うまでもない。

 進治は、未知の現象にただ呆然と立ち尽くす。

 そんな彼の視界の端で、車道の信号が赤に変わった。

 次の瞬間。

 バリィィィィィイン!!!


「うわあっ!?」

「え、何なに!?」

「うっるさ! なんの音だよ!?」


 耳をつんざくような甲高い音、例えるならガラスの割れる音を何倍にも増幅したような騒音が空に響き渡った。

 途端、交差点は驚愕と騒めきに包まれる。

 突然のことに人々は混乱し、誰も彼もが耳を塞ぎながら周囲を見回している。

 そんな中、ただひとり空を見上げていた進治だけは、"その光景"に息を呑んだ。


「空が、割れた?」


 比喩ひゆではない、文字通り空が割れたのだ。

 音が響き渡る寸前、空の亀裂が一気に広がり、そしてはじけた。

 空の蒼が錆びたペンキのごとくがれ落ち、その奥から真っ暗な空洞が覗く。

 やがて混乱していた人々も、一人またひとりと音の発生源に気づき始めたらしい。

 顔を上げた誰もが、突然の出来事に不安の声を漏らしていた。

 しかし、


「な、なんだアレ!?」

「ちょ、ヤバーイ!」


 不安に囚われていたのは、ほんの一瞬のこと。

 誰かがカメラのシャッター音を鳴らした途端、皆が等しくスマホを掲げる。

 その光景は、まさに異様という他なかった。

 人々の瞳からは、未知の現象に対する不安など一瞬にして失われていたのだ。

 代わりに抱くのは、この状況に居合わせたことへの喜びと興奮。SNSにアップした写真や動画が拡散されていく様を人々は嬉々として眺めていた。

 ……けれどこの時、彼ら彼女らはあることを失念していた。

 それは生物として本来、絶対に忘れてはならないもの。

 すなわち──未知とは本来、恐怖し、警戒し、憂慮すべきものだということを。

 間もなく、人々はそれを身をって知ることになる。

 不意に、群衆から一つの声があがった。

 

「うおっ、なんか出てくるぞ!」

「お、落ちてくる!」


 声が示したのは、空洞の奥から姿を見せたスライムのようなゲル状の黒い物体だった。

 それは瞬く間に空洞いっぱいに広がっていくや否や、押し出されるように交差点の中央へと落下した。

 瞬間、地面に走る衝撃。

 激しい風が巻き起こり、足元が揺れ、人々はよろめきながら腕や手で顔を覆った。

 やがて風が止み、顔を上げた人々が目にしたものは──。


「黒い……球体?」


 思わず零れた、進治の呟き。

 スライムのようなゲル状のそれは、大型トラックにも引けを取らない巨躯を持つ真っ黒な球体に変わっていた。

 表面にはうるしを塗ったような光沢があり、模様や凹凸おうとつは一切ない。一見すれば超巨大なボーリング玉のような見た目をしている。

 けれど今、最も目を向けるべきは球体ではなく落下による影響だ。

 その衝撃を物語るように、コンクリートの地面には球体の体躯の半分がめり込んでいた。

 

──もしもアレの下敷きになっていたら、あるいは再び同じものが空から落ちてきたら。


 口にせずとも、誰もがそんな不安を脳裏に思い浮かべた。

 途端、つい先程までの興奮入り乱れる空気は鳴りを潜める。

 今、人々の胸に湧き上がるのは困惑と恐怖。そして『これ以上のことは起きないよな?』という消極的な願い。

 けれど無情にも変化はすぐに訪れた。

 果たして、それは誰もが予想だにしないものだった。

 進治は、ポツリと呟く。

 

「変形、しているのか?」


 球体は、落下してすぐに真っ黒な表面に波紋のような模様を浮かべた。

 直後、模様の中心から巨大な突起物が次々と生えていく。

 その数、八本。

 例えるなら、棘の数を減らした代わりに一本一本を長く、より太くしたウニのような見た目をしていた。

 眼の前で起きた球体の変化に、思わず呆然と立ち竦む群衆。あまりに突飛で理解困難な状況に、危険か否かの判断すら追いつかない。

 けれど人々が思考を放棄したところで球体の変化は着々と進んでいく。

 やがて全ての突起物が一定の長さに揃うと、球体はそのうちの一本を車道の信号に向けた。

 刹那、棘が赤いランプへ真っすぐに伸びる。

 直後、交差点に響く固い物が貫かれる音。

 同時に信号機が支柱から折れ、甲高い音がカランカランと木霊した。


「う、うわ……!」

 

 そうして人々は、ようやく理解する。

 自分たちは今、危機に瀕しているのだと。

 直後、交差点は恐怖と悲鳴に埋め尽くされた。


「うわあああああああ!?!?」


 我先にと群衆が逃げ惑う様は、まさにパニックそのものだった。

 誰もが自分だけは助かろうとする余り、他者を押し退け踏み越えて行く。そこに躊躇ためらいや良心の呵責かしゃく介在かいざいする余地よちは一切ない。

 事実、


「どけよっ!」

ぅっ!」


 進治の背後にいた男は、彼の肩に掴みかかると強引に横へと押し退けた。

 突然のことにバランスを崩す進治は、受け身も取れないまま地面に倒れる。

 瞬間、左肩に痛みが走った。

 苦悶の声が漏れ、無意識に身体が縮こまる。そこへ畳み掛けるように倒れた彼の傍を人々が走り抜けていく。 

 その勢いは怒涛の如く、進治は立ち上がることすらままならない。

 下手に身体を起こせば衝突は必至、ただの怪我では済まないことは明らかだった。故に人々が過ぎ去るまでを彼は頭を守るように抱えながら待つしかない。

 そうしてうずくまり続けること、十数秒。


「行った、のか……? だったら……!」

 

 ようやく足音が止んだことに安堵あんどし、進治は恐る恐る顔を上げる。

 球体の方を見る勇気はない。ただ背を追われるような焦燥感に気を逸らせながら、一秒でも早くこの場を去ろうと立ち上がった。

 けれど、すっかり閑散かんさんとした交差点には、音がよく響いた。

 逃げ惑う人々の中で掻き消されていた音も、はっきりと。


「おかあさん、ねぇ起きてよ! おかあさんっ!」

「……っ!」


 その声に、進治は思わず足を止めた。

 止めてしまった。

 背筋がゾクリと震え、冷たい汗が頬を伝う。

『構わず逃げろ』と本能が告げた。

『何も聞いてない』と理性がさとした。

ろくなことにならないぞ』と予感がささやいた。

 それでもなお、『見捨てるのか』とうそぶく感情がそれらをくつがえす。

 即ち、進治は振り返った。そして見てしまった。

 頭から血を流して倒れる女と、泣きながらその手を懸命に引く幼い少年の姿を。


「そ、そんな……だ、誰か、だれ……か……」


 一刻を争う状況なのは明らかだった。

 進治は声を震わせ、誰か居ないかと周囲を見回す。けれど当然、交差点に人は居ない。

 残っているのは唯一、進治ただ一人。

 しかも最悪なことに、球体は獲物を狙う肉食獣のように棘の切っ先を親子に向けていたのだ。


「はぁ……はぁ……っ」


 どうすればいい、どうしたらいいと進治の呼吸が荒ぶる。

 心臓は早鐘を鳴らし、息をするたび視界が暗く狭まっていく。

 助けないと──誰が?

 なんとかしないと──どうやって?

 焦燥が思考をさいなみ、刻一刻と過ぎる時間が彼から正常な判断力を奪う。

 いいや、解決策はあるのだ。

 見捨てて逃げる、そんな単純で簡単な解決策が。

 しかし、


──『俺も勇気を出せていたら、あんな風に』。


 この時、進治の脳裏をよぎったのは今朝の出来事だった。

 思い出すのは、車道に飛び出した小学生を救う青年ヒーローの姿。

 もし彼が現れなければ、あの小学生はどうなっていた?

 にぶい音を立てて跳ね上がる小さな身体。

 悲鳴、惨状、|慟哭《どうこく》。

 撒き散らされる、おびただしい量の血、血、血、血、血、血、血────────。


「はぁ……はぁ…………はぁ…………っ!」


 あり得たかもしれないIFもしかしたらの光景が、目の前の親子に重なった。

 直後、


「うわあああああああああああああ!!!」


 進治は、絶叫の声を上げていた。

 そして足元の学生カバンを拾い上げ、球体目掛けて全力で放り投げる。

 カバンは放物線を描き、教科書や文房具を撒き散らしながら飛んでいく。

 やがて球体に着弾すると、ぺしゃりと情けない音を立てて地面に落ちた。

 悲しいかな、球体の表面には傷一つ付いていない。けれどとげ矛先ほこさきを変えるには十分なものだった。

 そして進治は──我に返る。


「あ、あれ……俺、何して……」


 血の気が引くとは、まさに今のことを言うのだろう。

 後悔の波が一斉に押し寄せ、進治の全身が寒気に覆われる。

 空腹の肉食獣を囚える檻が目の前で壊れたような、どうしようもない絶望感。

 けれど悔やんだところでもう遅い。

 すでに棘の一つが、薙ぎ払うように進治へ迫っていた。


「あ、ヤバ──」


 果たして、その言葉を言い切ることは叶わなかった。

 途端、進治の全身に走る衝撃。その威力は、巨大な丸太でフルスイングされたのかと錯覚してしまうほど。

 打ち上げられたソフトボールのように、彼の身体が宙を舞う。

 そうして舞い上がった身体は、付近のコンビニのガラスを突き破り、弁当が並ぶ商品棚に激突した。


 ──いた、い。からだが、うごかない。


 商品棚に身体を沈めながら、痺れた頭でそんなことを思う。

 仮に車に跳ねられたとしても、これほどの衝撃はない。

 棘が直撃した進治の右腕は、まるで関節という概念すら無いかのようなねじれ方をしていた。

 また折れた骨が肺に刺さったのか痛みで呼吸すら儘ならず、もはや意識を保てていること自体が奇跡だ。

 けれどその奇跡は、彼の苦痛を長引かせるものでしかない。


 ──おれ、こんなふうに、シぬんだな……。


 混濁こんだくする意識の中で進治は思う。

『いい教訓を得た』、と。

 後先考えず衝動に身を任せた結果が、これだ。

 結局、分不相応ぶんふそうおうな真似をしたところで何の解決にもならない。

 むしろ余計な被害を増やすだけだ。二度と調子になんて乗るものか、と。

 もっとも、その教訓を活かす日は二度と訪れることはないのだろう。

 進治の意識は徐々にかすみがかり、瞼が重くなっていく。


 ──あぁ、いしきが…………。

 

 もはや、抗う気力も無い。

 可能な限り深く息を吐き、全身から力を抜く。

 もしも次の生があるのなら、今度は”あの青年ヒーロー”のように、誰かを助けられたらと願いながら。

 その時、


「──やぁ、まだ生きているかい。少年」


 不意に、誰かの声が進治の鼓膜を叩いた。

 逃げ遅れた人が居たのだろうか、それにしては随分と楽観的な声色だ。

 しかし、その違和感がかえって気付きつけになった。

 最後の力を振り絞り、進治はゆっくりと瞼を開く。

 そして──思わず呆気に取られた。


「………………え?」


 彼が目にしたのは、全身が白い毛で覆われ頭頂部に2つの長い耳を持つサッカーボールほどの大きさの生き物だった。

 特徴だけを上げるなら、ウサギに近しい容姿といえるだろう。

 もっとも、リアルな生物としてのソレではなくデフォルメされたキャラクターを思わせる体型だ。  

 あまりにも不可思議な存在を前に、進治は痛みすら忘れて呆然とまばたきを繰り返す。

 そんな彼に、


「うんうん、キミの混乱はよーく分かるよ。交差点の球体にしても、ボクに対してもね。でも今は、そんなこと全部置いといてさ」


 その生き物は、淡々と告げる。

 まるで遊びにでも誘うかのように、進治の左手を両手で握りながら。


「──とりあえず、ヒーローになってみない?」

「ヒぃ……ロー……?」


 朦朧もうろうとする意識の中で、進治は思う。

 あぁ、きっとこれは白昼夢なのだろう。

 ずっと抱えていた願望が最期に幻視せた、都合の良いあさましい幻想に違いない、と。

 でも、だったら。


──それならそれで構わない。

 

 だって、その答えは初めから決まっていたのだから。


「──成れるのなら」


 左手を覆う感触を、進治は強く握り返した。

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