黄金の契約≪コントラクト≫
マタさん@物書き
第1‐1話 出会い、それは突然に
突き抜けるような青空だった。
セミの鳴き声と咽せ返るほどの草木の匂い。その向こうにいる君の笑顔が、太陽にも負けないほどに輝いていたのを思い出す。
広い広い草原を、一生懸命に駆け回る君。それを捕まえたい一心で、ボクは懸命に腕を伸ばした。
だけどそうして伸ばした指先が、君に届くことは無い。何度も繰り返したその映像に、これが夢なのだといつも気付かされる。
そう。だからこれも悪い夢なのだろう。
ひどく崩れ去った建物も。血にまみれたこの両手も。
あの夏の日の惨劇と同じく、きっと悪夢に違いない。
01
視界一杯を覆うほどの弾丸が降り注いでくる。
目で追うのもやっとであるそれらを、自分でも驚くべき速度で反射的に捌いていく。思考は無、感情も無。極限の集中によってのみ至る領域へと、彼女は足を踏み入れていた。
同時に迫りくる敵を叩き、断続的に襲い来る弾丸を往なし、流し、抑え込む。過酷な鍛錬の末に身に着けた体捌きが、自動化された機械のように精密な動きを実現していた。
(見える。いける。今日はやれる!)
しかし、人は往々にして調子に乗った時に足元を掬われる。思考と感情を置き去りにしたからこそ到達できたゾーンは、ひとつネジが緩んだだけで簡単に瓦解する。
「ぅあっ!」
一度のミスは、その後の動きに直結する。修正しようとすればするほど泥沼に嵌まり、ダメージは蓄積されていく。
「ぐっ、この……っ!」
なんとか立て直すが、焦りから先程の集中力は呼び戻せない。もはや彼女の目的は勝利ではなく、この場を生き抜くことへと変わっていた。
(止まるな、動き続けろ。もう少し耐えれば──)
精神も肉体も限界に近い。もう諦めろ、楽になってしまえと、何かが頭の片隅で囁きかける。
それでも少女は息が詰まるような数十秒を超え、最大の連撃をやり過ごす。
(抜けた! これで、これで──)
「終わりだあぁ!」
全身で叫びを上げ、渾身の力を込めて最後の一撃を叩き込む。
──が、勝利を確信して振り下ろした右手は、狙ったボタンの右側数ミリの何もない空間を叩く。
「あ」
瞬間、薄い膜の様に残っていたゲージがゼロとなり、
「え」
画面に大きく『段位認定失敗』の文字が映し出された。
「は?」
しばし呆然と画面を見つめる少女だったが、今起こった事実を認識していくにつれて、その顔面が蒼白に染まっていった。
「はあああああああああ⁉ 嘘でしょおおおおおお⁉」
灰色のパーカーを着た少女は頭を抱え絶叫し、肩口で揃えられた髪の毛を掻きむしる。あまりの声量であるため周囲の人間は迷惑そうに目を向けるが、事情を察するとその視線にはむしろ哀れみにも似た慈悲の色が宿った。
ゲームセンターの一角、リズムゲーム筐体の前で一通り悶えると、少女は無表情にリザルト画面をスキップさせた。
「うそでしょ、こんな。やっとよ、やっとだったのに……」
迫ってくるノーツ(敵)にタイミングを合わせてボタンを叩くリズムゲーム。これに彼女──珊瑚(さんご)が興味を示したのは半年前のこと。以来時間と財布の許す限りにゲームセンターへと通い詰めた。
ハマったらとことんの性分であるため、プレイするだけでなく、上位ランカーの動画を観るなどし、運指の研究も行った。そこに持ち前のセンスも加わり、先日遂に最高段位への挑戦権を手に入れたのだ。
何度も挑んでは打ちのめされ、やっと訪れた最高のチャンスだっだ。それを、ボタンを押し間違えるという初心者同然のミスでフイにしてしまったのが今ほどの話である。
「弱い。私はなんて弱い人間なんだ……」
この世の絶望を全て詰め込んだかのような表情で、珊瑚は重々しく呟いた。
思わず筐体を全力で殴りたい衝動に駆られるが、それはご法度。握った拳を無理矢理に解き、深呼吸して心を落ち着けた。
(大丈夫、今日はかなり調子が良い。このままもう一回!)
順番を待つ他プレイヤーがいないことを確認し、財布を開く。しかしそこで気が付いた。次の給料日は、ちょうど一週間後である事に。
比較的過保護に育てられた珊瑚は、大学進学を契機に親の庇護下からの独り立ちを決意。学費と家賃以外の生活費をアルバイトで賄うことにしている。
今月の水道光熱費関係は支払い済み。しかし、食料はもう乾麺しか残されていない。今日の帰りに、一週間分まとめて買い物しようと算段を立てていたところだ。
時刻は二十時半。今ならばまだ近くのスーパーの閉店時間に間に合う。しかし目の前にぶら下がっているのは、喉から手が出るほど欲しい最高段位の栄誉。これまでにない手応えに、機を逃したくないという思いが膨れ上がる。
やるべきか、やらざるべきか。しばしの思案の末に導き出された答えは──
(あと一回だけ! それで段位を取れば、出費は最低限で済むし買い物も間に合う!)
取らぬ狸の皮算用。そんな言葉を蹴散らかし、珊瑚はなけなしの百円玉を握った。
「絶対にやれる。必ずクリアする……!」
万感の思いを込めた硬貨が吸い込まれ、珊瑚の本日十回目に達しようかというプレイがスタートした。
「弱い。私はなんて弱い人間なんだ……」
三時間半後。深夜の駅前には、肩を落として歩く珊瑚の姿があった。
結局のところ最後と誓ったワンコインでもクリアできず、気付いた時には次の百円を投下していた。
そこからはもう泥沼。後に引けなくなった珊瑚はコインを連投し、集中力を欠いた雑なプレイの連続。それでも意地になって挑戦し続け、閉店時間を迎えた。
「ワンチャンをモノにできなかった時点で今日は負けだって、頭ではわかってたはずなのに……」
段位獲得に失敗し、スーパーは閉店、財布の中身はほとんど空。二兎どころか三兎を追って、見事にその全てを取り逃がした。愚かな人間の見本市である。
「今日は随分と風が冷たく感じるね。懐が寒いからかな? ははっ……」
日中雨が降ったこともあり、六月の夜は肌寒く感じられるほどであった。せめて夜食の素麺は温かくしようなどと想いを馳せながら、駅の東口へ向かう陸橋の階段を上る。
片側二車線の車道が並ぶ陸橋であるが、人も車も影すら無い。この時間に出歩く者がいたとしても、そのほとんどが明かりのある地下連絡通路を利用する。特に女性ともなれば暗い陸橋を忌避するもので、友人からは「不用心だ」と心配されることもある。
しかし珊瑚は全く意に介さず、この道を愛用している。
どうせ誰もいないのだから、近い方がいいに決まっている。──そう高を括っていたため、それを見つけた時に素っ頓狂な声を上げてしまった。
「ほ?」
陸橋の半ばほど、頭上に新幹線の高架線路が掛かり、宵闇が一層深くなる場所。その隅に、およそこの場所に存在するべきでないものがあった。
(……女の子?)
目を凝らして見ると、それは膝を抱えて俯く少女。外見から察するに、年の頃は十二、三歳くらい。柵に身体を預けているが、眠っているのだろうか。
深夜に一人、人目のつかない場所で座り込む少女。どう見ても、厄介ごとに巻き込まれているのは明白だった。
(家出か、迷子か。いずれにせよ放ってはおけないね)
怖いもの知らずに加え、元来より面倒見のいい珊瑚のことである。躊躇う様子もなく一直線に近づくと、少女の前にしゃがみ込んで声を掛けた。
「こんばんは」
少女の肩が震える。
あまり警戒心を強めて逃げられでもしたら大変だ。珊瑚はできる限りの優しい声を心掛ける。
「こんな時間にどうしたの? 何かお手伝いできること、あるかな?」
それが奏功したのか、少女はゆっくりと顔を上げる。自然、珊瑚と視線が交錯した。
(やだ、可愛い……!)
雪のように白く、輝いているのかと錯覚する美しい肌。腰を超えるほど長く、暗闇の中ですら艶めきを主張する烏(からす)色(いろ)の髪。そして、ぽかりと穴が空いたかのような漆黒の瞳。パーツ一つ一つのレベルが恐ろしいほど高く、それが黄金比で配置されている。これほどまでに美しい人間を、珊瑚はテレビや雑誌でも見たことが無かった。
少女は体を覆い隠すほど丈の長い黒のワンピースに身を包んでおり、その格好も相まって、精巧に作られた等身大のドールのようにすら思えた。
「────?」
しばし放心する珊瑚を見つめ、少女は小さく首を傾げる。それに意識を引き戻され、小さく頭を振るともう一度問いかけ直した。
「どうしてこんなところにいるの? お姉さんに話してみて」
将来は小学校の先生を目指して鋭意勉強中の身。子供との会話はお手の物だ。相対する少女も、怯える様子は見せなかった。
「────」
しかし、いくら待てども返事がない。相も変わらず首を傾けたまま固まってしまっている。
もしかして本当に人形なのかという疑念すら浮かんで来るが、そんなはずもない。ここまで来れば根比べとばかりに、珊瑚は問いかけ続けた。
「お名前は?」
「────」
「どこから来たの?」
「────」
「……好きな食べ物は?」
「────」
「…………」
根比べ終了。
暖簾に腕押し糠に釘。打っても響かぬ少女の反応の無さに、珊瑚は思わず嘆息した。
(もしかしたら、知らない人とは話しちゃいけないって徹底して教わってるのかな? 最近の子はそのへんしっかりしてるって聞くしね)
それならばいくら押し問答──問答にすらなっていないが──を続けていても仕方がない。打つ手を無くした珊瑚は、天を仰いで呟く。
「せめて迷子かどうかさえわかればな……」
すると、視界の端で何かが動いた。反応を求めていたわけでなかったため理解が遅れたが、慌てて視線を目の前の少女に戻す。
「いま、頷いた? 迷子だって……」
「────」
もう一度、少女はコクンと首肯する。
未だ声を発してはくれないが、コミュニケーションは成立した。その事実に安堵と喜びを覚え、珊瑚は小さくガッツポーズを作る。
(っと、そんな場合じゃない)
気を取り直し、珊瑚は現状を把握すべく話しかけ続ける。
会話はできずとも、どうやらイエスかノーで返せる質問なら答えてくれるようだ。それならば意志疎通だって難しくないはずだ。
……難しくないはずだと、思ったのだが。
(いやこれ無理だわ)
少女が十回連続で首を横に振った頃、珊瑚は再び天を仰いだ。
延々と質問を繰り返して正解を導き出すなど、ヒントの無いお題当てゲームをしているようなもの。そういうアプリケーションも存在するが、生憎とそこまでできた頭を持っているわけではない。
(とりあえずわかったのは、家出してきて迷子になったってことだけか)
逆に考えれば、それがわかっただけでも重畳だろう。珊瑚は早々に目的を切り替えることにした。
「ねえ、ここを降りると駅前に交番があるの。そこでお巡りさんに相談してみようよ」
一介の大学生にできることなど高が知れている。餅は餅屋、迷子は警察。自分にできるとしたら、せめてその一助となるよう手を差し伸べること。
眼前に差し出された手を、少女は戸惑うように見つめている。
「大丈夫。お話が終わるまで、お姉さんも一緒にいるから」
しばし逡巡する様子を見せた少女だったが、その言葉に背中を押されてゆっくりと手を取った。
(細い腕……)
そのまま優しく引き起こす。力加減を間違えば粉々に砕けてしまいそうな華奢な腕を引くのは、高価な陶器を扱うような緊張感を覚えた。
「よし、それじゃ──」
「何をしている」
行こうか、と続けようとしたところで、背後から野太い声が響いた。
目を遣ると、先程珊瑚が上ってきた階段から二つの影が姿を現わしていた。片方はスキンヘッドで大柄の男。もう片方は大きなピアスが特徴的な細身の女性。どちらも夜に紛れてしまいそうな黒のスーツに身を包んでいる。
親御さん、という訳では無さそうだ。二人が纏う雰囲気は独特で、それに何より──
(敵対の意志あり、か)
相対する二人はそれを表面化しないよう上手く隠してはいるが、家柄上そういった他人の機微に敏感な珊瑚は、瞬時にそれを見抜いていた。
「えっとですね。どうやら迷子の子がいたみたいなので、交番に連れて行こうかと」
しかし珊瑚は敢えて軽く答えた。通りがかりの一般人として、彼らの本心に気付かないフリを装って。
その演技に一切の疑念も抱かず、男女は声を潜めて言葉を交わす。
「間違いない、『クロ』だ」
「見りゃわかるよ。案外早く見つかってよかった」
(クロ。この子の名前か、それとも渾名かな)
話しぶりからするに、彼らのお目当ては恐らくこの少女なのだろう。どうやら、事は単純な家出問題ではなさそうだ。
警戒を強める珊瑚に対し、スキンヘッドの男が改めて声を投げた。
「それは助かった。その少女は我々の連れでな、見失って困っていたところだ」
決して叫んでいるわけではないのに、遠くまではっきりと届く声。空気の振動がちりちりと肌を揺らすかのような錯覚を受けた。
「また勝手にどこかへ行かないよう、そのまま手でも繋いで待っていてくれ」
そう言うと、二人は歩を進める。それを確認しながら、珊瑚は震えるクロの手を一層強く握りしめた。
「ねえ、あの二人は知り合い?」
こくん、とクロは頷く。その表情が、彼らが望まれざる客人だということをありありと示していた。
(なら、それで十分)
自分のとるべき行動を決定し、珊瑚はひとつ深呼吸をする。
「合図したら逃げるよ」
驚きに目を丸くするクロに、珊瑚は人差し指を口元に当てて優しく笑いかける。
「たまには、嫌な大人から逃げることも必要だからね」
詳しい事情は知らないが、今ここでクロを奴らに渡すわけにはいかない。仮に人攫いの類だったら取り返しのつかない事態になってしまう。
もしもこれがただの家出で、あの人達が本物の保護者だったら……まあ、その時は平謝りすればいいだろう。
「準備はいい?」
クロは真剣な眼差しで首肯する。近づいてくるスーツの男女は、珊瑚たちの意図に気付いた様子はない。
「オッケー……行くよ!」
合図と共に、踵を返して駆け出す。当然背後からは制止の叫びが聞こえるが、止まるつもりは毛頭ない。
階段まで約三十メートル。下りてしまえば交番はすぐそこだ。二人組との距離を見るに、十分逃げ切れると珊瑚は踏んでいた。クロがバテたとしても、いざとなれば抱えて走ればいい。それくらいの自信はあった。
徐々に階段へと迫る。残り十メートル、五メートル──
だが、今まさに階段へ足を掛けようとした瞬間、鼓膜を直接震わせるような声が響いた。
「《水(すい)》の精霊よ、我が求めに応じよ! 篠(しの)突(つく)雨(あめ)となりその道を阻め!」
それを耳にした瞬間、珊瑚は咄嗟に足を止めた。
慣性でつんのめるクロを抱き留め、なんとか急停止に成功する。するとその鼻先をかすめるように、赤い何かが大量に降り注いだ。
それらは金属製の階段にぶつかると、激しい音を立てながら無数の小さな穴を穿っていく。まるで散弾銃の嵐だ。あのまま走り抜けていたら、間違いなく命は無かった。
珊瑚は跳ねる心臓を押さえながら、降り注ぐものたちを凝視する。その正体は雨。珊瑚の眼前二平方メートルの範囲だけ、局所的に赤い雨が激しく打ち付けていた。
五秒ほどの後、雨は嘘のように止んだ。しかし打ち付けられた階段はボロボロにひしゃげ、今にも崩れ落ちそうだ。もちろん、下りることなど叶わない。
(嘘でしょ。こいつら──!)
振り返り、二人組を睨み付ける。それを受けたスキンヘッドが、得意げな顔で胸を張った。
「……っのバカ! 一般人相手に何をやってんだい!」
だが男は突然、隣のピアス女のハスキーボイスで叱責を受ける。予想外の展開に、男だけでなく珊瑚も虚を突かれた。
「き、緊急事態だ、致し方なかろう! それに、こう暗い中では照準もずれると言うもの!」
「だったらせめて殺傷性の無いものを発動しな! もしもの事があったらどう言い訳すりゃいいんだい!」
「し、しかし……」
「だってもヘチマも無いんだよ! ああもう、あんたは黙って見てろ!」
女の見た目は二十代後半。スキンヘッドより一回りほど下に見えるが、どうやら力関係は逆らしい。苛立たしげに頭を掻くと、ゆっくりと珊瑚たちに近づいてくる。
「あー、脅かして悪かったね。落ち着いて話を聞いてくれるかい、別に危害を加えるつもりはないんだ」
「呆れた。人を殺しかけておいてよく言えるわね」
「ははっ、確かに。でも文句ならあのバカに言ってちょうだい」
親指を立てて背後の男を指差しつつ、もう一方の手をスーツの内ポケットに突っ込む。珊瑚が思わず身構えるが、女はニヤリと笑いながら煙草を掲げて見せた。
「そう構えないでおくれ、一服するだけさ」
パッケージから一本取り出し、火を点ける。聞き取りづらいハスキーボイスは生まれつきなのか、はたまた煙草のせいなのか。
何にせよ、その余裕のある仕草が、女の底知れない恐ろしさを際立たせていた。
「……色術(しきじゅつ)」
しかし、珊瑚の呟きに今度は女が瞳を丸め、感嘆の声を上げた。
「知ってるのかい。驚きだね」
色術。この世に存在する四大──《火(か)》《水(すい)》《風(ふう)》《地(ち)》の精霊たちの力を借りて発動する、超常的な術の総称。
発動される色術は、それを操る色術士によって様々な色を持つ。ある者は橙色の水術、ある者は紫色の火術。そういった特徴から、『色』術と呼ばれている。
神代より続く由緒ある力であり、陰陽道などもその一種であるが、現代では表立って存在を知られてはいない。今となっては、この世に蔓延る悪霊や物の怪などと影で戦う縁(えん)の下だ。
「私も驚いてるわよ。まさか三原色(さんげんしょく)たる赤の術士とこんな場所で会うだなんて、想像もしなかった」
「こりゃ脱帽だ、そこまで知ってるとは」
色術は光の三原色である赤、緑、青に近づけば近づくほど、より強大な力を持つ。
先程の赤い雨から、スキンヘッドも相当な実力者であることが見て取れた。そんな男をどやしつけるピアス女の実力は、一体どれほどのものか。
「しっかし、そんな赤の術士を前にしても怖がる様子一つ見せないとは、あんたも只者じゃないね」
女は値踏みをするように珊瑚を睨め付ける。しかしそれに動じた様子もなく、珊瑚はクロを守るべく背に隠した。
その堂々たる態度に、女はより一層目つきを鋭くする。
(できれば穏便に済ませたかったところだけど、交戦も止む無しか)
邪魔立てするのであれば容赦はできない。気乗りはしないが、女には状況説明や説得をしている時間は残されていなかった。
「あたしは紅(あか)井(い)空(そら)。そっちは?」
唐突に名乗りを上げる女。これに対して珊瑚は一瞬、戸惑いの表情を見せた。
色術士にとって、名を名乗るという行為は重大な意味を持つ。
一般的に、有力な色術士であるほどその家系の歴史は長い。逆に言えば、名前を聞けば大方の実力が推測できるのである。
女の問いかけには二つの意味があった。一つは、相手の名を聞き出して力量を測ること。そしてもう一つは、自分が赤の宗家の直系分家である紅井家に属することを明かし、相手の敵意を削ぐことにあった。
いずれにせよ、自分が相手に劣るなどとは微塵も考えていない。そんな女──空に向かって、珊瑚は姿勢のいい背筋をより一層伸ばし、胸を張って答えた。
「私は珊瑚。翡翠(ひすい)珊瑚よ」
「へえ、良い名前だね。翡翠……ひすい?」
確かめるように繰り返した口から、火が付いたままの煙草がぽとりと落ちる。呆けてしまった空に対し、珊瑚は追撃を叩き込んだ。
「ええ、翡翠。緑の宗家たる翡翠の一人娘よ」
あまりの衝撃に凍り付いた思考を、空は必死に回復させるように努めた。
目の前の少女が口にした名は簡単に信じられるものではない。だが、その場しのぎの嘘だとも考えにくかった。
名前を騙る事は、自分を偽る事。
確固たる自意識の元にのみ発現される色術を操る彼らにとって、それは愚行以外の何物でもないのだから。
「ひ、翡翠の娘⁉ 馬鹿な、そんなはずがない!」
「うるさいね、蘇芳(すおう)! 黙ってろって言っただろ!」
背後で喚く蘇芳を再び怒鳴りつけると、空の頭は幾分かクリアになった。
翡翠といえば、最古の歴史を持つ色術士の家系。数千年の歴史を持つこの国で、一貫して緑の一族の宗主を務め上げてきた名家中の名家。中でも現宗主は、歴代の緑の宗主を数えても最高傑作と謳われている大術士である。
その一人娘ともなれば──
「いや、待てよ。確か翡翠のお嬢様って言ったら……」
「お察しの通り、私自身は無能力者よ」
色術士としての能力は、血筋によって左右される部分が多い。基本的には代を重ねるごとに強さを増し、逆もまた然りである。
しかし珊瑚は宗家の娘でありながら、色術を発現していない。稀に一代で成り上がる者はいるが、宗主レベルの術士の実子が色術を発現しなかったという例は、珊瑚以前には存在していない。
「ははぁ。それはまたなんというか、その……」
「同情の言葉なら聞き飽きたわ。お気になさらず」
改めて空は珊瑚を見つめる。小柄ながら威風堂々とした立ち居振る舞い、能力を有さずとも術士相手に退かない気の強さ。そしてそれにミスマッチな可愛らしい風貌。なるほど、噂に聞いていた通りだと得心した。
「それで、どうしてこの子を追っていたのか教えてもらえる?」
相手が怯んだ隙を逃さず、珊瑚は追及を開始する。
いくら他の一族の術士だろうと、三原色宗家の人間には逆らえない。特に翡翠家ともなれば、色術の世界を象徴すると言っても過言ではない存在である。術士としての能力の強弱に関わらず、その意に反することなど以ての外であった。
しかし、
「それは……できないね」
「なんですって?」
思いもよらぬ返答に、今度は珊瑚が目を剥いた。
「あなた、自分が何を言っているのかわかってるの?」
「重々承知してるよ。だけどそれだけは明かせない。なんたってこっちも、宗主の命(めい)で動いてるからね」
「朱(しゅ)赤(ぜき)が……?」
赤の一族は血筋や家柄を問わず、その時代の最強の術士こそが宗主となる。完全実力主義をモットーとしたその体制は、他色の術士からは蟲毒(こどく)と揶揄されることもしばしば。
誰もが虎視眈々と宗主の座を狙う弱肉強食の世界。そこにおいて無名の家から成り上がり、実に四十年以上もの間宗主として君臨するのが、現宗主の朱赤(しゅぜき)赦(じゃ)豪(ごう)である。
「ええ。だからいくら翡翠嬢と言えど、そのご質問には答えかねる」
「正気? 下手をすれば三原色間の戦争になるわよ?」
「その通り。これは不可侵の不文律を揺るがしかねない事態なんだ」
それまでどこか浮ついた印象を与えていた空だったが、一転して切れ味の鋭いナイフのような雰囲気を漂わせる。
ただ事ではない空気に、さすがの珊瑚も思わず一歩引いた。
「……不可侵の不文律。数百年単位で守られてきた停戦の意志を破棄するつもり?」
「その子の扱い次第では、って話だよ」
自身が交渉のカードとして用いた『戦争』という言葉を、相手は手段として本気で行使しようとしている。その事実に、珊瑚は背中を汗が伝うのを感じた。
「わかるかい? 交渉を持ちかけてるのはそっちじゃない、あたしらなんだ。大人しくその子をこっちに渡してくれ。じゃなきゃ宗主は、翡翠に戦争を吹っ掛けることになる。これは脅しじゃないよ」
いくら宗主の娘とは言え、珊瑚自身は術士ですらない。諍いを避ける意志が相手に見られないのならば、無防備な一般人も同然である。
だが、だからといってクロを簡単に渡すのは珊瑚の矜持にも反する。
汗ばむ手のひらを強く握る珊瑚。それに対し、空は追加の条件を提示した。
「まあ、タダでとは言わないさ。その子を渡す代わりに、あたしの首を刎ねるといい」
「はぁ⁉」
「自分で言うのもなんだが、あたしの首はそう安くない。どうだい、これでそっちの面子も保てるだろう?」
「紅井! 何も貴様がそこまで──!」
「相手は翡翠だよ! それくらいの誠意見せなきゃいけないだろうが! ……さあ翡翠嬢、どうか」
ブラフかもしれない。だけど、そうじゃなかった時に失うものが大きすぎる。ここで自分が選択を間違えば、かつてこの国に甚大な被害をもたらした三原色間の戦争が、再び引き起こされかねないのである。
それに、自らの命を差し出すと言った空の目。あれは覚悟を決めた者の目だ。それを無下に笑い飛ばすことなどできない。
「……ごめんね、クロ」
この話は、完全に自分一人で判断できる域を超えている。極めて冷静に状況を分析する彼女の聡明さが、彼女自身の感情を抑え込んだ。
背後で震える少女の頭を、珊瑚は優しく撫でる。
「ごめんね、何もできなくて」
夜に一人怯えている女の子を救ってやれない、自分自身の弱さを珊瑚は憎んだ。
自分に色術士としての才能があれば、次期宗主の座を確立していれば、この場を上手くまとめ上げることだってできたはずなのに。
不安に淀んだ瞳。しゃがんでそれを見つめると、小さな体をそっと抱いた。
その様子を複雑な表情で見つめながら、空は比較的穏やかな声音で語りかける。
「お渡しいただけるんだね?」
「……ええ、不本意だけど仕方ない。もちろんあなたの首も必要ないわ。でもこの件はお父様に──」
その瞬間──どくん、と。
心臓の鼓動のような音が、周囲の空間を揺らした。
「な、何……?」
突然のことに身を竦める。するともう一つ、どくんと音が鳴った。その音の発生源は、珊瑚の腕の中にいる少女。
「……クロ? クロ、大丈夫⁉」
見るとクロの顔は青ざめ、唇は小刻みに震えている。肩を揺らして呼びかけるが、その瞳は遠く何処かを見つめるだけで反応を示さない。
どくん、どくん。鼓動は徐々に間隔を狭めていく。
「暴走だと⁉ まさか! 昨日の今日だぞ⁉」
「翡翠嬢!」
極度の緊張に身体を硬直させる蘇芳。対して空は、咄嗟に色術を展開した。
空の能力は《地》。突如としてクロの周囲のアスファルトが紅色に変色したかと思うと、そこから赤い土壁が生える。クロの周囲を円柱状に囲った土壁によって、傍にいた珊瑚は引き剥がされた。
「あなた、クロに何を──!」
「説明してる暇は無い! 離れな!」
紅井の跡取りにして、赤の次期宗主候補に名を連ねる空。ただでさえ四大中最硬(さいこう)の《地》によって作り出された壁は、並の術者であれば傷一つ付けられないほどの純度であった。
だがそれを嘲笑うように、鼓動がもう一度空気を揺らすと、赤い壁は瞬きの間もなくその姿を失った。
「時間稼ぎにもならないのかい……!」
憎々しげに呟き、空は唇を噛む。
その光景に最も驚いたのは珊瑚だ。彼女は色術を発現しなかったとはいえ、宗家の娘として一通り以上の知識と訓練を叩き込まれている。目の前で展開された《地》の術式を一目見ただけでも、紅井空という女の術士としての才能を見抜いていた。
(翡翠の術士でも、この女に肩を並べられる者は数える程しかいない)
しかしそれが跡形もなく姿を消した。打破されたのではなく、消去されたのだ。
どんなに手練な術士であろうと、既に展開された色術そのものを無かったことになどできるはずがない。そんな力は、四大のどれにも存在しないのだ。
(なら、目の前で起こったこれは何?)
珊瑚の思考が堂々巡りに陥ろうとしたその時──
パキリ、という乾いた音と共にそれは始まった。
最初は足元から響いた音が、左右から、前後から、そして頭上からも共鳴し、地面が小刻みに揺れ始める。
「じ、地震? ……っと!」
思わず後退る珊瑚の足が、段差に引っ掛かってバランスを崩す。なんとか持ち直すが、改めて足を下ろした先も収まりが悪い。
一体何が……と足元を見ると、陸橋には無数の亀裂が入っていた。それらはパキパキと不穏な音を立てながら、現在進行形で成長していく。音の方向から察するに、恐らく頭上の高架線路でも。
まさか、この少女が? 信じ難いことではあるが、その可能性は高い。
「クロ! しっかりして!」
珊瑚は逃げることも忘れて、クロに呼びかけた。
「何やってんだ、逃げろ翡翠嬢!」
「もう駄目だ、退くぞ紅井!」
「翡翠嬢を置いてかい⁉ バカ言うんじゃない、逃げるなら一人で逃げな!」
蘇芳の静止を無視し、空が駆け出す。
自分たちの不手際で翡翠の人間が命を落としたとなれば、それこそ戦争に発展しかねない大問題である。珊瑚をクロから引き剥がそうと必死に足を回すが、あまりにも遠すぎた。
「────っ!」
クロの喉から、小さな吐息の音が漏れる。
たったそれだけを合図に、巨大なハンマーで殴ったかのような衝撃が陸橋を襲い──一瞬のうちに、バラバラに砕け散った。
「うおおおおお⁉」
急速に重力に引かれる身体。空と蘇芳はそのまま大量の瓦礫と共に消えていき、その頭上からは崩れた高架線路の破片が降り注いだ。
「うっ、わ……」
その様子が、珊瑚の目にはスローモーションのように映る。
ほんの一瞬前まで存在していたはずの陸橋と高架線路は、コンクリートの塊となって地上に積み重ねられている。その下では在来線の線路がめちゃめちゃにひしゃげ、停車していた無人の車輌がぺしゃんこに押し潰されていた。
結果的に、珊瑚はクロに近寄ったことが功を奏した。あとほんの二十センチ後ろに立っていれば巻き込まれていただろう。あまりに現実離れした光景に、脳がスムーズに状況を理解出来ずにいる。
しばし呆然と眼下を見下ろす珊瑚であったが、どさり、と何かが崩れ落ちる音で我に返った。
「クロ!」
倒れ伏したクロの肩を揺らす。触れた身体の表面は死人のように冷たく、それでいて内部にはマグマのように熱い何かが燻っているのを感じられる。その矛盾した熱から、珊瑚は何かを感じ取った。
それは直感的に言い表せば、感情。少女の中で渦巻く熱が、言葉よりも遥かに克明に訴えている。
(怯えてる。怖いんだ、自分じゃ抑えきれない力が……)
何かを壊すこと、誰かを傷付けてしまうこと。それを一番恐れているのは他ならないクロ本人だった。
ならば、この子を恐れてはいけない。恐れるべきはその内にある力であって、クロではない。それを理解した瞬間、珊瑚は自然と一つの決意を口にした。
「大丈夫、私が守ってあげるからね」
例え色術の才能は無くても、彼女は守りと癒しを司る緑の宗家、翡翠の一人娘である。泣いている少女を、黙って見過ごす訳にはいかないのだ。
「さて、と。とりあえず……」
気を失ったクロの身体を抱きながら、改めて周囲を見遣る。
崩れ去った陸橋と高架線路。積み重ねられた瓦礫の山と、遠くから共鳴するサイレンの音。もう間もなくこの周辺は、野次馬でごった返すのは間違いないだろう。
見晴らしの良くなった街並みを見つめながら、珊瑚は小さく呟いた。
「逃げよう。面倒になる前に」
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