文学の天才は死なない

澪葉流

文学の天才は死なない

秋の風が、病床の窓辺をそよぎ、枯葉のささやきを運んでくる。東京の片隅、陋屋の二階で、老作家・佐伯恭一郎は、枕に凭れ、薄らぐ視界に、己の人生を映していた。齢七十に近づき、肺の病が彼を蝕み、医者はあと数日と宣告した。恭一郎は、静かに微笑んだ。死ぬのは、恐ろしくない。むしろ、心地よい解放のように思えた。


彼は、生涯を文学に捧げてきた。二十代でデビューし、数々の小説を世に送り出した。批評家たちは彼を「現代の文豪」と称え、読者たちは彼の言葉に魂を揺さぶられた。『影の谷』、『心の霧』――それらの作品は、書棚に並び、永遠の命を約束されていた。恭一郎は、思う。自分は、やり遂げた。筆を折るに足るだけのものを残した。未練などないはずだ。家族もなく、友人も疎遠。文学だけが、伴侶だった。


しかし、夜更けになると、心に影が差す。最高の小説を書けたのか? あの『影の谷』は、確かに傑作だ。人間の孤独を、細やかに描き出した。だが、もっと深い闇を、もっと鋭い光を、表現できたのではないか。『心の霧』では、愛の儚さを語ったが、それは本当の愛を知らぬ者の空想に過ぎぬのではないか。恭一郎は、枕を握りしめる。死ぬ前に、もう一冊。いや、死ぬからこそ、書けないのだ。それが、文学の宿命か。



朝、看護婦が薬を運んでくる。彼女は、恭一郎の顔を見て、優しく言う。「先生、今日はお顔色が良いですね。何かお書きになりますか?」 恭一郎は、首を振る。書けない。指先が震え、頭の中が霧に包まれている。代わりに、彼は回想する。若い頃の情熱を。初めての原稿を投函した日の興奮を。批評の嵐に耐えた日々を。あの頃は、文学がすべてだった。死など、考えもしなかった。


だが、今、死は目前に迫る。恭一郎は、思う。文学の天才は死なない。なぜなら、作品が生き続けるからだ。シェイクスピアは死なず、ドストエフスキーは死なず。自分も、そうなるはずだ。『影の谷』は、百年後も読まれるだろう。それで、十分ではないか。未練など、愚かな執着だ。


しかし、疑問が囁く。最高だったか? もっと大胆に、魂を削って書けなかったか。恭一郎は、目を閉じる。心の中で、未完の物語が渦巻く。主人公は、自分に似た男。死にゆく床で、過去を振り返る。だが、その結末は、書けない。書く前に、死が来る。



夕暮れ、窓から赤い陽が差し込む。恭一郎の息は、浅くなる。看護婦が、そっと手を握る。「先生、何かおっしゃりたいことは?」 彼は、微かに頷く。「文学は……死なない。だが、人は……」 言葉は、そこまで。疑問は、永遠の闇に溶ける。


恭一郎は、死んだ。静かに、微笑みを浮かべて。残された原稿用紙は、白く、空だった。だが、彼の作品は、世に在り続ける。最高だったか? その答えは、読者の心に委ねられた。


文学の天才は、死なない。死ぬのは、ただの肉体。魂は、文字に宿るのだ。

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