すのうどろっぷの一皿

はらっぱ

すのうどろっぷの一皿

金曜日の十九時。神居市北区の裏通りは、初夏の湿り気をひそませて静かだった。

喫茶店「すのうどろっぷ」の看板灯だけが、暗がりの中でぽつりと浮いている。


カウンターの内側、矢上亘は磨き上げた銀縁の眼鏡をかけ、落ち着いた手つきでミルクを温めていた。


「マスター、今日もなんちゃら鳥が鳴いてるの?」


明るく跳ねる声。エプロンの紐をきゅっと結びなおしながら、北山心春が覗き込む。薄いピンクブラウンの髪はバイト仕様にサイドでとめられ、耳元でちょこんと揺れた。


「ええ。閑古鳥の鳴き声がとても綺麗ですね」


「まーったく何も聞こえない静かな店内なんですけど! でもちょっと心配です。最近ほんとに静かすぎません? マスターの見た目が暗いからじゃないですか? 前髪上げましょ! 前髪!」


「静けさには静けさの味がございます。騒がしさは、よそのお店にお譲りしましょう。それから、前髪はわたくしのトレードマークなのですよ」


にっこりと穏やかに、矢上はカップを二つ置き、まかないをお皿によそい始める。


「まかないです。今日は、トルコの家庭料理“メネメン”でございます。玉子、トマト、ピーマン、そしてスパイスを少々。パンとの相性が抜群の家庭料理でございます。朝食で食べられる料理なのでコーヒーとも合うと思い試作してみました」


「あ、この匂いは絶対好きなやつ! でも私、コーヒーは……」


「存じております。ミルクたっぷりのカフェオレをご用意しております。砂糖は横に」


「さすがマスター! わかってるー!」


「本当はトルココーヒーもお出ししたかったのですが、あれは通常のコーヒーと作り方が異なり――」


「あーはいはい! マスター! 折角の美味しい料理が冷めちゃうから! いただきますね!」


「おっと、これは失礼いたしました。どうぞ温かいうちにお召し上がりくださいませ」


湯気とともに、ピーマンの青い香りとトマトのやわらかな酸がふっと鼻をくすぐる。スプーンを入れると、卵の層の下から溶けたチーズと玉ねぎの甘みがぬるりと顔を出した。心春は一口、二口、目を輝かせ、三口目でパンをちぎって沈める。


「ん、んまっ……! これ、なんでこんなに優しいんだろ。辛くないのに香りがスパイシー。あ、クミン? あと、後から来る甘さ、玉ねぎとチーズ?」


「正解でございます。さすが料理研究会ですね。玉ねぎは少しだけ焦がして、甘みを引き出しています」


「こういうの、もっと宣伝したらいいのに。サークルの子たち呼んで、SNSとかでバズらせて……」


「ありがたいお言葉です。ですが、わたくしは“誰か一人のための一皿”が好きでして」


「まーたそういうカッコいいこと言う! でも、ほんとお客さん来てほしいなぁ。こんなに美味しいのに」


笑い合いながら、話題はサークルの近況へ。


「あ、そうそう! うちの料理研究会『Stella Kitchen』に来週、地元の情報番組の取材が入るんですよ! 四年生も気合い入ってて、文化祭みたいに盛り上がってます!」


「それは華やかでございますね。しかし、台所の戦は、戦場より過酷だと聞きます」


「戦場? またそういう冗談〜」


「いえ、一般論でございますよ」


心春が「どういう一般論?」と手をひらひらさせたその時、カップが肘に当たって落ちかけた。だが、空気を切り裂く速さで矢上の手に収まり、彼はただ「失礼」とだけ告げて、何事もなかった顔で元に戻す。


「ね、今どうやって……」


「重力は、時として協力的です」


訳のわからない言葉に、心春はくすりと笑った。


***


三日後の月曜日、二十時少し前。テレビ神居のキッチンスタジオ。

白いコックコートと三角巾の列がライトを受けて淡く光っていた。壁際には「Stella Kitchen」の横断幕。


「本番、五秒前でーす。5、4、3――」


ディレクターの指が静かに折れていき、司会者の笑顔が徐々にテレビ用に変わっていく。


「今日は神居大学 料理研究会『Stella Kitchen』のみなさんに来ていただきました!

『Stella Kitchen』は部員100人を超えるサークルで、神居の“食”を支える若い力です!」


「今日は“家庭でも作れるスープカレーアレンジ”ということで……二つのチームに分かれて二種類のスープカレーを用意してもらいました! こちらのチームは?」


「はい! 私たちのチームは“鶏団子のトマトスープカレー”を用意しました! パンにも、ご飯にも合うと思って!!」

心春は持ち前の明るさで作ったスープカレーを紹介する。


「いいですね〜! お隣のチームは?」


「わ、わたしのチームは“シーフードスープカレー”で、さっぱりと海鮮の旨味たっぷりのスープカレーです!」

心春とは対照的に春日井桜子は緊張気味に紹介した。


「いいですね、香りがすごい!」手持ちカメラが寄る。オペレーターが声を張った。「そのまま、後ろ向きで鍋、ひと混ぜお願いしまーす」


言われるまま、二人はほぼ同じ角度で肩を落とし、鍋の手元へ身をかがめる。

白いコックコートの背中、同じ三角巾。肩幅も、細い腰のラインも、ほとんど鏡合わせに見える。左の肩にエプロン紐がわずかに食い込む影まで、同じだった。

モニターを覗き込んだADが、「あれ、どっちがどっち?」と小声で呟き、すぐに苦笑する。


「失礼、春日井さん、こちらマイク差し替えます」

スタッフが後ろから近づいて、春日井の襟元に手を伸ばす。だが後ろ姿では識別がつかず、反対側の心春の三角巾に手を伸ばしかけ、慌てて引っ込めた。


「……ごめんなさい、北山さんでした。後ろからだと、ほんと瓜二つで」


「後ろ姿が似てるみたいでよく間違われるんですよねぇ。ね! 桜子!」

心春が笑い、春日井も肩をすくめる。「すみません。前から見たら全然違うんですけどね…」


スタジオの空気が少し和む。収録はスムーズに進んだ。

試食の時間、司会者は心春の皿にパンをちぎって浸し、「鶏の出汁とトマトの旨味が合いますね!」と目を丸くする。春日井のスープカレーも「神居の魚介が凝縮されてますね!」と評され、拍手が起きた。


片付けが始まる頃には、窓の外の空がすっかり群青に沈んでいた。

集合写真、SNS用の短いコメント撮り、取材は終了した。

心春と春日井の二人は同じ紺色の背中に“Stella Kitchen”ロゴが入ったパーカーを着て、帰り支度を進める。


「心春、帰りどうする?」と春日井が心春に話しかける。

「わたしは歩き! 桜子は?」


「私は父の迎え……のはずだったけど、今日は来られないみたい。バスで帰る」


「わかった! それじゃ、また明日〜!」

「うん、また」


心春はテレビ局の西側へ、春日井はロータリーの方へ。二人はそれぞれ違う方向に歩き出すが、同じ背丈、同じ後ろ姿、同じ紺のパーカーの背中の丸みが、遠目には見分けがつかなかった。


心春は今日の取材を思い出しながら、トボトボと歩いていた。


「タクシー、使えばよかったかな……」


独り言を呟いたのも束の間、足音が一つ、二つ、背中に重なる。


黒いワゴンが目の前に停車し、スライドドアが開くと同時に、口を塞がれ車の中に押し込まれる。


***


遠くで、携帯電話が震える音がした。矢上の店のバックヤードで、ほとんど誰にも教えていない番号が震えていた。

液晶に浮かぶ名はない。ただ、短い文言だけが表示されている。


《北区・廃ビル 長官の娘誘拐 報酬ハ海外渡航の解禁トコーヒー豆 至急解決セヨ》


矢上は「失礼」と誰もいない店に頭を下げ、レジを閉め、厨房の電気を消した。表のドアまで歩く途中、ちょうど入ってこようとした会社員風の男に柔らかく笑う。


「申し訳ございません。本日、急用にて閉店いたします。明日、よろしければ」


「え、あ、はい……」


店のドアの鍵を閉め、矢上はバイクにまたがり、生ぬるい風を切りながら現地へと急いだ。


***


二十二時。神居市北区。廃ビルの高層階。


割れた窓から、港の灯が遠く瞬いて見える。床に転がる古い事務机。空気は冷たく乾いていた。


心春は口を縛られ、椅子に括りつけられていた。目の端に涙を溜めていた。

周囲に男が十人。誰もが荒い息をし、銃や刃物を身につけている。その中に、特に下品な笑い声を立てる大柄な男がいた。


「おい。なぁ、こいつ、顔違くねえか?」


「あ? ほらこの写真と同じだろ」


「後ろ姿の写真じゃねぇ。こっちの写真だ。こいつ春日井の娘じゃねぇぞ」


「くそ…マジかよ。全然ちげーやつじゃねぇか」


ざわり、と空気が変わる。

短絡的な舌打ちが何個か重なり、すぐに、冷たい結論へ滑る。


「仕方ねぇ。間違いなら――消すしかねぇな」


「おや。穏やかではないご様子。しかし、なぜ心春さんが……人違いでしたら返していただけないでしょうか」


部屋の隅から、銀の光がすっと現れた。銀縁の眼鏡。普段降ろしている前髪が上がり、額に深い傷跡が覗いている。


「お前は…」


「はい。わたくし“すのうどろっぷ”の矢上と申します。お騒がせして失礼。彼女は当店の従業員でして」


「矢上…てめえはいつも邪魔ばかりしやがるな」


最も近い男が拳銃を抜きかけた瞬間、矢上の左手が瞬時に男の手首を抑え、男の顎に肘が刺さる。クラヴ・マガの基本――脅威の最短無力化。

男は意識を落とし、音もなく崩れた。


「ッ……てめぇ!」


「矢上。上品ぶったツラは相変わらずだな」


下品な声が部屋に響く。向井彰だ。フンガムンガ――複雑に湾曲した刃の投擲武器を構え、唇の端を汚く吊り上げている。


「お久しぶりでございます、向井さん。相変わらず汚いお仕事がよくお似合いですね」


「皮肉かよ。あいにくこちとら出世街道だ。政権の椅子は近ぇ。お前は相変わらず店番か?」


「ええ。血の匂いにはもう飽きましたので。特にあなたの血はとても匂いますから」


「ぶっ殺すぞ」


向井の合図で、三人が一斉に詰める。矢上は一歩も下がらない。

一人目の腹に膝。二人目の鼻梁に肘。三人目のテーザーを、掴んだ手首ごと壁へ叩きつける。動きは早いのに、無駄な動作が一切ない。

三人の後ろに控えていた男が、銃口を矢上に向けようとした瞬間、瞬時にラインから外れながら、左手で銃口を躊躇なく掴み、同時に右手で手首を抑え、体重をかけつつ膝を顔面に叩き込む。怯んだ相手から銃を捻り上げ、誰もいない空間へ放る。締めて落としながら、矢上は息も上げずに話し出す。


「十人もいれば、少しは運動不足解消になると思いましたが……」


「こいつ、なんだよ……!」


「説明は後ほど。まずは、こちらの方々の誤解を解かねば」


向井が腕を引き、フンガムンガを投げた。三つ股の刃が月光を裂き、矢上の喉を一直線に狙う。

矢上は半歩だけ捻り、刃の軌道に左手の袖を絡める。厚手の布が切れ、刃はややスピードを落とす。次の瞬間、矢上は刃の持ち手を掴んで床に叩きつけるように投げた。


「相変わらず、趣味の悪い刃物で」


「面白い武器だろ。どう投げてもぶっ刺さるぜ」


向井が叫び、距離を詰めてくる。体格に任せた突進。

矢上は礼儀正しく頭を下げる角度で前へ滑り込み、肩口に前腕を差し入れ、重心をひっくり返す。

向井の巨体が宙で泳ぎ、机を一つ巻き込んで落ちた。


「う、ぐっ……!」


周囲の男たちが一瞬、足をすくませる。矢上はその隙に心春のもとへ歩み寄り、結び目に指を差し入れ、数秒で解いた。


「すぐに部屋の外へ。見張りはもうおりませんが、外から増援が来る可能性もございます。廊下で待機していてくださいませ」


「マ、マスター……?」


震える目に、矢上は柔らかく微笑む。


「えぇ、マスターでございます。ご安心ください。わたくし少しだけ護身術を嗜んでおりまして」


心春を逃がしていると、四方から四人が突っ込んでくる。

矢上は一人目の男に対し、スキップを利用した蹴りを放ち、距離を保ちつつ、三人の動きを見極める。

金属製の棒を振りながら突っ込んできた二人目の男をいなし、ナイフを手に向かって三人目に当て、掴みかかってきた四人目の腕を捻り上げる。二人目と三人目にそれぞれ蹴りを入れつつ、四人目の顎に膝を入れる。

呻き声が順に落ち、床に転がる靴の底が夜の静けさに吸い込まれた。


「向井さん」


矢上はようやく振り返り、銀縁の奥で目を細める。


「お仕事、選ばれたほうがよろしい。間違いは、命取りでございます」


「上から喋ってんじゃねぇ……!」


向井が懐から最後の手段を抜く――ハンドガン。

しかし、引き金が絞られるより先に、矢上は左手でラインを逸らし、右手で下からトリガー部分を握る。向井の股間に蹴りを入れながら、銃を縦に捻り奪う。


「終わりでございます」


「くそが……」


向井の悪態を聞きながら、悶絶する向井に容赦なく蹴りを入れる。


静寂が戻る。


矢上は携帯電話を取り出し、短く番号を押した。


「事件です。北区の廃ビル高層階。武装した集団が十名ほど。怪我人多数」


通話を切ると、部屋の外で怯えながら待機していた心春の手を取る。手袋越しでも、体温は伝わる。


「行きましょう。警察の方々は優秀でして。すぐにいらっしゃるでしょう。わたくしたちは見つからないほうがよろしい」


「は、はい……」


非常口へ向かう途中、遠くからはサイレンの音が聞こえ始めていた。

矢上は足元のフンガムンガを一瞥して、ため息をひとつ。

(趣味が悪いのは、昔からでございますね)


二人は非常梯子を下り、夜の街へ溶けた。


***


その週の金曜日、十九時頃。


「すのうどろっぷ」は再び、贅沢な静けさのなかにあった。


「マスター、今日も……貸し切りですよ」


「ええ。お客様がいらっしゃらないので、ゆっくりまかないを堪能してください」


カウンターに置かれたのは“バクラヴァ”。心春がすのうどろっぷで一番好きなメニューだ。

横にはミルクたっぷりのカフェオレ。


「あの、マスター? 先日は……ありがとうございました」


心春は小さく頭を下げ、包みを差し出した。紺色の布包み。ほどけば、濃いグレーのキャンバス地のエプロンが現れる。胸元には、白い刺繍糸で小さな雪のしずく――“snow drop”のモチーフ。


「Stella Kitchenの先輩に教わって、ちょっとだけ私も……。ロゴ、勝手に作っちゃった。気に入らなかったら、雑巾にでも」


「これはとても素晴らしい。雑巾なんてとんでもございません。大切にいたします」


矢上は、早速エプロンをつけた。

胸元の刺繍は、不揃いなところが逆に愛おしい。


「ありがとうございます。どうでしょう……似合ってますでしょうか?」


「はい! とても! 我ながら良いものを作ったと思います!」


「ははは。心春さんの明るさも元通りになって、わたくしはとても嬉しく思います」


心春はバクラヴァを頬張り、カフェオレでひと息つく。


「心春さん。スノードロップの花言葉には“あなたの死を望みます”というのがあるようです」


「え!?」


「ですが、一方で“希望”や“慰め”というポジティブな意味もございます。わたくしは死と隣り合わせの場所におりました。

今では、ただの喫茶店のマスターですが、その過去を忘れず、前を向くという意味でもこのスノードロップは特別なものなんです」


「じゃあ、私がマスターの“希望”と“慰め”になります!」


「ははは。それは頼もしいお言葉です」


「マスター、それからね。私、マスターが作ってくれるこのバクラヴァがほんとに好きなんです。もっと流行ってほしいなって思ってましたけど、

この美味しさって、マスターが私のために作ってくれたから特別美味しいんだなって気が付きました」


「はい。その通りでございます。わたくしは“誰か一人のための一皿”が好きでして」


微笑が重なった。

店の扉の外で、初夏の夜風に揺られスノードロップの形をした風鈴が小さく鳴った。

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