氷胡蝶の夜明け

市野花音

第1話

「休日出勤お疲れ様、浅岡」


 同僚の黒井は真冬の深夜だというのに、短パンに薄手のジャケットという寒そうな格好でひらひらと手を振った。


「元気そうだな、黒井」


 皮肉をこめたが黒井は言葉通りに受け取ったらしく、「元気だよ、いつも通りに動ける」と現代では異様な腰に下げた日本刀に触れた。


「お疲れ様です、浅岡さん」


 黒井の後ろにいた連絡係が申し訳なさそうに頭を下げた。


「こちらこそ。早速だが踏み込むぞ」

「はい」

「分かってるよ」


 今浅岡と黒井が佇んでいるのは、とある高級住宅街の洋館の門前である。時刻は草木も眠る丑三つ時、辺りは闇に沈み静寂が訪れている。


 黒井がひらりと門を飛び越えると、その姿が消えた。浅岡は動揺することなく門を越える。敷地内に入ると黒井の姿が再び見えた。結界を越えたのだ。浅岡は前を見据え、顔を歪めた。


「これは、大変そうだな」


 先ほどまで静かに佇んでいたはずの洋館は、巨大な氷に覆われていた。


「見ての通り、もののけは暴走対象にあります。迅速な討伐を、というのが上の判断です」


 後ろから付いてきた連絡係が告げる。


 もののけ。人を害する異形の化け物。世間には知られないそれを退治することが、退魔師である浅岡の役目である。その為なら、休日の深夜にも呼び出される。


「じゃ、浅岡もきたことですし行きますか。石浜さん、結界の維持を頼みます」

「了解しました。敵は先程伝えた通り、氷胡蝶。恐らく死の間際の危険な状態です。お気をつけて」


 連絡係に見送られ、退魔師達は凍れる館へと踏み出した。




 氷胡蝶、とは殆どの時間を蛹の中で過ごす温厚な蝶のもののけだ。この館の主が木彫だと思って所蔵していたものが、そんな氷胡蝶の蛹だったのだ。


 館の主人によれば氷胡蝶を手荒に扱った覚えはないそうだ。氷胡蝶の寿命が近く、暴走しているのではないか、というのが有識者の見解だった。


 館の玄関は氷に塗れ通れなくなっている。黒井は一歩前に出ると、刀を引き抜いて一閃した。炎の軌道が描かれ、氷が溶ける。


 異能の力を持つもののけの相手をする退魔師は、特殊な術を習得していることが多い。黒井の場合は火の術だった。


 その後も黒井の術で氷を溶かしながら館の中を進み、やがて氷胡蝶が保管されていたという部屋の前まで来ていた。氷を溶かし切ると、浅岡が先陣を切って部屋に入った。


 部屋の中央に、氷で覆われた大きな蛹が天井からぶら下がっている。部屋の中は冷凍庫のように寒い。ぎょろり、蛹から濁った一つの目がのぞいた。


 次の瞬間、氷の礫が放たれる。黒井は抜刀すると、氷の礫を全て弾いた。


「攻撃処理頼む!」

「了解」


 浅岡は腰に下げたホルスターから拳銃を引き抜くと、標準を合わせ引き金を引く。氷の礫が破壊され、空気中に破片を煌めかせた。


 黒井は飛び上がると炎を纏わせた刀で氷の蛹を切りつけた。黒井の術は氷を少し溶かすだけにとどまる。着地した黒井に向かって放たれた礫は浅岡が撃った。


 黒井は刀を構え直すと再び飛んで蛹を薙ぐ。先ほどよりも深く氷が溶ける。蛹の目が不穏に見開かれた瞬間、黒井の足が氷に覆われた。


「黒井!」


 浅岡が黒いの足元の氷を撃ち抜くと、氷が砕かれる。黒井は三度刀を構えると、炎の斬撃で蛹を斬った。蛹は地面に落下し、氷が砕けた。


 その隙を見逃さず刀を振りかぶった、黒井の腕が止まる。


「黒井、早く!」

「浅岡、これ……」


 黒井が指し示した先では、目から生えた血管のような根が白い蛹に巻きついていた。赤黒い根は脈打ち、白い蛹が青白く光る。


「寄生されてる……?」


 もののけの中では厄介な弱者が温厚な強者の力を奪う事は多々ある。


 だが黒井は操られ瀕死になった温厚なもののけを斬ることを躊躇った。黒井はかつてもののけに助けられたせいか、もののけに心を寄せやすい。


「黒井、斬れ。どの道そいつは助からない。力を吸われすぎた」

「……うん、分かってる。分かってるけど、ごめん」


 黒井は蛹に寄生する目に刀を突き立てた。気味の悪い目と根は塵となって消滅した。氷胡蝶の蛹だけが残る。


 間も無く氷胡蝶も端から塵となって消えていく。その全てを黒井は静かに見つめていた。

         



 きらきらとした氷の種が薄明の空を飛んでゆく。


 洋館のバルコニーに浅岡と黒井は佇んでいた。待機していた石浜はすでに帰っている。


「種、芽吹くかな」

「どうだろうな」


 氷胡蝶が死んだ後、残っていた氷は全て溶けた。しかし、小さな氷の礫だけが残った。有識者によると氷胡蝶の種らしい。氷胡蝶は死ぬ時に自分の体の一部を種として残すそうだ。上の許可を取り、黒井は種を空にまいた。


「芽吹くといいな」

「……まぁ、そうだな」


 浅岡は黒井のようにもののけに対して深い情はない。けれど浅岡も、あの哀れな氷胡蝶が何かを残せていれば良いなと思った。


「……じゃあ、行こっか」

「ああ。早く帰って寝たい」


 浅岡と黒井はバルコニーを後にする。夜明けの空にまいた種は、風の中を揺蕩い、やがて見えなくなった。

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氷胡蝶の夜明け 市野花音 @yuuzirou

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