オホーツクノ夜珈琲
北見慎吾
第1話
「……今日もダメだったか」
滝本茜は、ため息まじりに呟いた。グレーのスーツに身を包み、新入社員らしい爽やかな格好をしている。しかし、顔色は青白く、生気がなかった。
ゆらり、ゆらりと揺れながら寂れた商店街を歩く。頭の中では、社長に言われた言葉が何度も再生されていた。
ロマンスグレーの髪に日焼けした肌、身体にぴったり合ったスーツを着こなす中年男性——社長は茜に言った。
「聞きたいことは、考えがまとまってから聞いてくれる?」
「分からないなら、なんで、すぐ聞かないの!」
「君って本当にプログラミング好きなの? プログラマーには向いてないと思うけどな」
歩きながら、茜はその言葉を悶々と反芻し、無意識のうちに口にしていた。
「まとまってから聞くのか! すぐに聞くのか! どっちだよ!」
「ひえっ、ごめんなさい!」
どこからともなく返ってきた声に、茜はびっくりして顔を上げた。
目の前には、黒いベストに茶色のエプロンを着けた男性が立っていた。眼鏡の奥の目は、不思議と優しさを感じさせた。
茜は慌てて頭を下げる。
「申し訳ありません、仕事のことを考えていたら口に出ていたみたいで……」
相手の男性は頭をぽりぽりと掻きながら、笑顔で言った。
「そういうことでしたか。私もぼーっと歩いていたもので、びっくりして思わず謝ってしまいました。」
そして、名刺を差し出した。
「私はこの近くの喫茶店『オホーツクノ夜珈琲』のマスターをしています。よかったらいらしてくださいね。」
茜は名刺を見つめた。
《オホーツクノ夜珈琲 マスター 西田はじめ》
「こんなところに喫茶店があったのか……。ひらがな表記って芸人みたい」
営業時間は「19:00〜翌7:00」。
「夜営業? こんな田舎の北見市で客来るのかな……」
そう呟きながら名刺を内ポケットにしまい、茜は家路へと向かった。
カッチ、カッチ、カッチ——。時計の針が進む音だけが響く。
茜は布団に入っていたが、目は冴えきっていた。
「寝れない……」
入社から半月が過ぎたころから、不眠に悩まされていた。
「あー、ダメだダメだ。今日も寝れない!」
髪を掻きむしりながら呟く。
「今何時……?」
時計は午前二時を示していた。
「今から寝たら……五時間は眠れるか? いや、眠れないから困ってるんだよね……」
テーブルの上には、あの名刺。
「オホーツクノ夜珈琲……」
茜は考えた。
どうせ眠れないなら、気分転換に行ってみようか。
マスクをつけ、白い長袖シャツにジーンズを履いて、外に出た。
午前二時の商店街。人の気配はなく、秋の空気が冷たく頬を撫でる。
空には三日月が静かに光っていた。
スマホのマップで場所を確認すると、稲荷神社の横道に喫茶店があるようだ。
その横道を進む途中、キタキツネが目の前を横切った。
思わず追いかけたが、すぐに見失ってしまう。
「キツネ、可愛すぎる……」
呟いた先、遠くに明かりが見えた。
紺色のビルの一階。木目調の店内に大きな本棚、間接照明。
「おしゃれ……意外とお客さんもいるんだ」
茜はドアを開けて中に入った。
店内にはジャズが流れている。
カウンターの向こうで、西田が笑顔を見せた。
「いらっしゃいませ。あ、夕方にお会いしましたね。来てくださったんですね、ありがとうございます。」
「申し遅れました。滝本茜と申します。マスクしてスッピンなのに、よくわかりましたね。」
カウンターに腰を下ろすと、西田は軽く笑って言った。
「仕事柄ですかね。特技なんですよ。こちらメニューです。本棚の本は販売もしております。ブランケットの貸し出しもありますので、お気軽にどうぞ。」
茜はメニューを眺める。
北見ブレンドコーヒー 700円
北海道小麦のフォカッチャ 500円
常呂産貝のスープ 700円
北見玉葱パフェ 1000円
……玉葱パフェ?
「マスター、この玉葱パフェって美味しいんですか?」
「はははっ。北見市は玉葱が名産品ですからね。試行錯誤を重ねた結果、オニオンクッキーをベースに、私オリジナルの玉葱コンフォート入り生クリームが完成したんです。常連さんには毎回ご注文いただいてますよ。……まあ、私は食べませんが。」
「それはダメなんじゃ……」
「熱狂的なファンがいるんですよ。」
「それは気になりますね……でも、玉葱パフェは今度にします。ブレンドコーヒーで。」
「はい、かしこまりました。」
豆を挽く音が店内に響く。香ばしい香りが漂う。
茜は店内を見回した。大きな本棚、優しい照明、ジャズの音。ソファ席では若いバーテンダー風の男性が本を読んでいた。
「落ち着いた雰囲気で、いいお店ですね。」
「ありがとうございます。こちら、ブレンドコーヒーです。」
紺色のカップから湯気が立つ。
茜は口に含んだ。深い香りが口いっぱいに広がる。
その瞬間、肩の力が抜け、目から自然と涙がこぼれた。
西田は驚いたように目を瞬かせたが、すぐに優しく微笑んだ。
「何か、お悩みを抱えているのではありませんか? 話すことで楽になることもあります。よければ、お聞かせください。」
茜は、胸に積もった思いを静かに話し始めた——。
茜はカップを見つめながら、ぽつりと口を開いた。
「……私、今年の四月に大学を卒業して、地元の小さなIT会社に入社したんです。社員は社長と専務、先輩、そして私の四人だけで。」
「最初は、みんな優しそうだなって思いました。でも、仕事を始めてすぐに違和感がありました。人によって言うことが全然違うんです。昨日言われたことを直したら、今日は『なんで直したの?』って怒られて……毎日が混乱でした。」
茜は小さく息を吸い、続けた。
「そんなとき、社長が“自分がプログラミングを教える”って言ってくれたんです。正直、嬉しかった。これでやっと混乱なく学べると思ったんです。」
「でも——そこからが地獄でした。社長が教える言語は、聞いたこともないもので、調べても古い記事が少し出てくるだけ。
指示も『掲示板アプリを作って』『毎日報告して』って言われただけで、何をどうしたらいいか全くわからなかった。」
茜は両手を膝の上で握りしめた。
「勇気を出して質問したら、『聞きたいことは考えがまとまってから聞いて』って怒鳴られて。
それならとメモをまとめていたら、『分からないならすぐ聞け!』ってまた怒鳴られて……」
西田は黙って頷いた。
茜は少し笑ってみせたが、その笑みは痛々しかった。
「もう何が正しいのか分からなくなって、上司や専務に相談しても『怒鳴られても聞きなさい』の一言で。
毎日怒鳴られて、怒鳴られて……。私が悪いんだって思うしかなかった。」
「半年くらい前から眠れなくなって、朝が来るのが怖くて。
夜になると、“また明日が来る”って思ってしまって……」
茜の声が震えた。
「もう、どうしたらいいか分からないんです。」
西田はしばらく考えたのち、穏やかに口を開いた。
「それは辛い毎日でしたね。茜さんは、本当によく頑張りました。
今のお話から私が言えるのは一つ。——茜さんは悪くありません。」
そして、言葉を続けた。
「しっかりした教育体制もなく、マニュアルもない。社長の態度はパワーハラスメントです。改正労働施策総合推進法では、上司の優越的立場を背景にした言動、業務の範囲を超えた暴言、そして労働者の就業環境を害する行為を定義しています。
すべて当てはまりますね。ただ、残念ながら法的な罰則はありません。
そこで——」
西田はカウンターを軽く叩き、真っすぐ茜を見つめた。
「会社を辞めて、ここで働きませんか? 茜さんに“働くことは楽しい”と感じてほしいんです。」
茜はぽかんとした表情を浮かべ、しばし考えた。
「会社を……辞める……?」
これまで一度も考えなかった選択肢。
できない自分を責め続け、生きる意味さえ見失っていた日々。
けれど、その口元は、半年ぶりに緩み——
茜は、静かに笑った。
カウンターの後ろで、その様子を見ていた若い男性がぽつりと呟く。
「……また人助けか。これから大変になるな。」
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