婚約者に会うためにアリスは空を飛ぶ

三毛猫ジョーラ

第1話 我慢の限界を飛び越えて


 アリスはとうとう激怒した。


 小高い丘から見下ろす王都の城壁の前にはうじゃうじゃとおびただしい数の魔物達が蠢いている。それらと対峙するかのように兵士達がひしめき合いながら剣を振るい、魔導士達は炎や雷撃の魔法を放つ。魔物の咆哮に混じり聞こえて来るのは人の叫び声や怒号だった。


 ここに辿り着くまでに漏れ聞こえた話によれば、この戦いはすでに三日は続いているという。事の発端は王都近くのダンジョンで起こった魔物達の大狂乱スタンピード。あっという間に王都は取り囲まれ、民達は城壁の内側に閉じ込められた。周辺の都市から次々と援軍が送られて来るが魔物達との攻防は一進一退。これ程までの戦いはおよそ百年振りだという。


 冷たい風を頬に受けながらアリスはちらと最前線から視線を移した。そこには赤とも黒とも言えるような揺らめくもやをその体から放ち、まるで戦いを楽しんでいるかのように嗤う魔人の姿があった。


 ――魔王だ、と誰かが悲鳴を上げた。


 百年ぶりに復活したであろうその存在は魔物の力を増幅させ、人間への憎悪を煽る。その目的は人類の殲滅か、それとも支配か……。


 だがそんなこと、アリスにとってはどうでもよかった。


「もう……ほんっとに! いい加減にしてほしい!」


 誰に聞かせる訳でもないが、アリスは地面の小石を蹴り飛ばしながら叫んだ。僅かな砂埃が舞い上がり風に消えていく。彼女は婚約者であるマーカスに会うためにはるばる王都まで五日もかけてやって来た。とはいえ彼女は決して意気揚々と喜びを胸に、という心境ではなかった。マーカスとは本来、アリスが18歳になった時に婚姻を結ぶ予定だった。だが気づけばすでに一年も過ぎている。何かにつけてマーカス側の都合が合わなかったのだ。やれ仕事だ、やれ怪我をしただの、挙句の果てには気分が乗らないとまで言われたこともあった。さすがのアリスも婚約破棄を考えた。だが周りから説得されると彼女はついたじろんでしまう。


「もう少しだけ」「あと一回我慢してみよう」そう自分に言い聞かせた。もはや結婚に対する思いは意地や打算になっていたかもしれない。それでも彼女は耐えた。そしてようやくマーカスから「婚姻の儀を行う」という手紙が先週届いた。辺境都市ザイロから長い間馬車に揺られ、アリスはようやくここまで辿り着いた。


 だがそんな彼女の苦労はまたしても打ち砕かれた。自分が一体なにをしたというのか。もしや神にでも嫌われているのかと、彼女は天を仰ぎ見た。


 少し冷静になれば彼女も気づいたはずだ。魔物の襲撃が終わり王都に平穏が戻ればマーカスとも会える可能性もあるかもしれないことを。そうなれば約束通りアリスは晴れて結婚出来ただろう。しかし今の彼女にそんな余裕など存在しなかった。今日までの積み重ねが限界まで達し、その均衡はまさに目の前で崩れ落ちた。つまり彼女の忍耐は完全に砕け散ったのだ。


 アリスはしばし遠くの空を見つめた。泣いてなんかなるものか、と涙が頬を伝わないように力強く袖で拭き取った。一度ひとたび大きく息を吸い込み目を閉じる。そして今日まで自分を苦しめてきた全ての理不尽に向かって怒りを乗せた声をぶつけた。


「ああ! もうっ! くそったれぇぇーー!!!」


 アリスは丘の斜面へと大きく一歩踏み出した。足元にマーカスの顔を思い浮かべ思いっ切り踏みつけた。羽織るマントがばさりと音を立て、少しくすんだ金色の髪が駆け馬の尻尾のようにふわりと浮いた。目指すは婚約者がいるであろう城壁の向こう――否、その前を立ち塞ぐ魔物の大群、そして小憎たらしい魔王だ。恐怖などこれっぽっちも感じない。小高い丘を全速力で駆け下りながら、怒りで我を忘れるとはこんな感じなんだな、とアリスはふと思った。思考と感情が乖離したからであろうか、彼女の頭の中で今日までの出来事が走馬灯のように流れ始めた。


 そして「ドクンっ」と心臓が大きな鼓動を鳴らすのを彼女は確かに聞いた。



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