タイトルつかずの青い春

片井ロッケ

第1話 新しい校舎、冷たい春風

春の風はまだまだ冷たかった。

校門をくぐると、制服のブレザーが肌にひんやりと触れる。


私の名前は牧田明里(マキタアカリ)。


道北の小さな村、猿払から札幌の中学校へ転校してきたばかり。

今日が、新しい学校で迎える初めての始業式だった。


校門をくぐった瞬間、胸の奥がどくんと鳴った。

見上げると、高くそびえる校舎の窓が朝日を受けて光っている。

知らない人ばかりの景色。行き交う生徒たちの笑い声が、まるで別の世界の音のように遠く感じられた。


足の裏がアスファルトを踏むたび、コツ、コツ、と乾いた音がやけに大きく響く。

通り過ぎる生徒たちの視線が、自分に向けられているような気がして、

肩をすくめながら歩幅を小さくした。


「大丈夫、大丈夫」と心の中で何度もつぶやく。

けれど手のひらには冷たい汗がにじんでいて、指先がうまく動かない。

廊下の角を曲がるたび、胸の鼓動がひとつ大きく跳ねる。


教室のドアの前に立ったとき、息が少し詰まった。

ドアの向こうには、まだ知らない新しい学校生活が待っている――

そう思いながらドアを開けた。


教室に入ると、猿払では見たことのないタイプの洗練された女子たちが目に入った。

髪はゆるく巻かれ、カーディガンの袖で手の半分を隠している。

なにがそう思わせるのかは分からないが、ひとつひとつの仕草に都会の空気が漂っていた。

「……すごい」


思わず小さくつぶやく。

教室のざわめきに自分の声はすぐかき消され、私はそっと席に向かった。

新しい教室の空気はどこか湿っていて、机の木の匂いも知らない場所の匂いがした。

誰かと目が合いそうになると、すぐに視線を逸らしてしまう。

笑い声が遠くで弾けるたび、胸の奥がきゅっと固くなる。

――ここでうまくやっていけるだろうか。

そんな不安が、足元の床からじわじわと這い上がってくるようだった。


「キーンコーン、カーンコーン」

古びたスピーカーから、少し濁った始業のチャイムが鳴り響く。

まだ担任の先生は来ていない。

教室の中は、ざわざわとした期待と緊張が入り混じっていた。

窓際の席では、誰かが笑い、後ろの方では椅子の脚が床をこする音がした。

私は自分の席にかばんを置き、そっとまわりを見渡す。

新しいクラスの空気はまだ落ち着かず、どこか少し浮いているように感じた。


そのとき、前の席に座ったのは、ひょろりと背の高い男子だった。

制服の襟元は少し緩く、整っているのにどこか無頓着な感じで、

まだ始業式前のざわつく教室の中で、彼だけが別の時間にいるように見えた。

窓際の席に肘をつき、外の光をぼんやりと眺めている。

前髪が少しはねているのに、その無造作ささえ計算されたように見えた。

眠いのか、退屈なのか、それとも何も考えていないのか——わからない。

けれど、その“わからなさ”に、心が静かに引き寄せられた。


黒板の上で時計の針が静かに動く。

そのわずかな音がやけに大きく感じられた。

周りでは、新しいクラスの話題で笑う声が飛び交っているのに、彼のまわりだけ空気が少し静かだった。

誰かが話しかけても、彼はゆっくりと笑って、すぐにまた視線を窓の外へ戻す。

その動きが妙に自然で、気取っているわけでもないのに、何となく目を引いた。

名前も知らないのに、もうすでに印象に残ってしまっている。

彼の肩越しに見える窓の向こうの空の色はまるでフィルターがかかったように綺麗だった。


ガラガラガラ——。

引き戸の開く音が教室のざわめきを切った。


前を向くと、担任らしき男性が教卓に向かっていた。

中肉中背で、丸いメガネの奥の目がやさしく笑っている。

まだ廊下の冷たい空気をまとっているのか、

先生の背後から春の光が細く差し込んでいる。


「えー、みなさん、進級おめでとう。今年の担任になりました、佐々木です」


穏やかな声が教室に広がると、すぐにあちこちで笑いが起こった。

「また佐々木先生!」「二年連続じゃん!」

笑い声とともに、椅子のきしむ音、ペンを落とす音がまざりあって、一気に部屋の温度があがる。


佐々木先生…か——その輪の中に、自分の居場所はない。

みんなが笑う少しあとで、私もまねをするように小さく笑ってみる。


その一瞬、まるで自分だけ少し遅れて流れる映像の中にいるような感覚になった。

笑い方、声のトーン、目の動かし方——

どれもここで育った人だけが知っているリズムのように思えた。


窓の外から冷たい春の風が入り、カーテンの端がふわりと揺れる。

その白い布の動きが、どうしてか少し遠くに感じられた。

冷たい春風を吸い込み、フゥっと吐いても、まだ胸の奥はざわざわと熱を帯びている。


熱気に吸い込まれないように、視線を変えると、窓際に肘をついたままで全く動かない前の席の男子のうなじが目に入る。

表情は見えないのに、笑い声が飛び交う熱気の中で、彼のまわりだけがまるで別の温度で静かに漂っているようだった。

その穏やかさを眺めていると、胸の奥の熱が少し引いていく感じがした。


やがて、先生が名簿を手にした。

「じゃあ、このあと始業式があるから、席順で体育館に向かおう」


廊下に出ると、春の光が窓から差し込み、床に四角い光の模様を描いていた。

靴のかすかな音、話し声、時折響く笑い声——ざわざわとした教室の熱気とはまた違う、生の空気が体を包む。

そして前の席の男子の後ろにつく。

見上げてみると、その身長の高さに思わず息をのんだ。

都会の男子は違う…。本当に中学生なんだろうか……都会の空気を吸って育つと、こうなるのかな……なんて勝手に想像してしまう。


周りのざわめきに紛れて、彼の後頭部を見つめながら思いを巡らせていると担任の声が廊下に響いた。

「えーっと、前からつめて二列にしてくれー!」

みんなが少しずつ列を詰める。

ゆっくりと、徐々に列が二列になっていく中で、気づけば彼の横になっていた。

うわ、隣……。


バレないように頭を振らずに目線だけ横に向けたが、肩しか見えなかった。

身長のせいで自然と圧を感じ目線を元に戻した。


列が動き出す。

体育館の場所はわからない。ただ、前の人の後ろについていくだけ。

慣れない足取りで、ちゃんと距離を保ちながら歩く。

けれど、神経をそちらに集中させていると、曲がり角で一歩遅れ、思わず彼の肩にぶつかってしまった。


「あっ!」

バランスを崩しかけた瞬間、手首をぐっとつかまれた。


「ごめん、大丈夫? 俺、でかくて……」

思ったより低く、少し照れた声。

手を離すと、彼は軽く笑っていた。


その仕草を、私はただ見ていた。

横顔がほんの少し近くにあって、思わず視線をそらす。

「い、いえ……こっちこそ、ごめんなさい!」


後ろのみんなを止めてしまったことに焦り、言葉が出てこない。

胸の奥がぎゅっと締めつけられ、顔から火が出そうになる。


何事もなかったかのように列はまた隊形を戻して進みだす。

歩くたび、自分の不器用さが目立ってしまうようで、恥ずかしさと後悔で胸がざわざわした。

それと同時に、初めて聞いた彼の声や、笑った顔が、脳内で何度も反芻される。


胸のざわめきと混ざり合って、歩く足取りが少しだけ軽く、でもどこか落ち着かない。

視界の端に映る彼の上履きと隣を歩く足音に、心臓が不思議なリズムで跳ねた。

体育館に着くと、クラスごとに整列したまま座るように指示が出た。

列はすでにきちんと整っていたのに、座ると、自然と彼との距離が少し近くなる。

肩がかすかに触れそうな、ほんのわずかな距離。

座るだけなのに、隣にいるというだけで胸の奥がそわそわして、落ち着かない。

校長先生の長い話が始まる。言葉は頭に入ってくるはずなのに、耳をすり抜け、意識はすぐ隣の彼の仕草や動きに釘付けだった。

——なんでだろう。

まだ名前も知らないのに、心がざわざわして、まるで小さな波にさらわれているような感覚だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

タイトルつかずの青い春 片井ロッケ @katairokke

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ