第三十六話:静寂を越えて
白灰の廊下に座り込んで、私はずっと自分の手を見つめていた。
指を動かしても、感触が曖昧。
冷たさだけが指先に残って、温もりは何ひとつ感じられない。
(……本当に、私……ここにいるの?)
声に出しても返事はない。
音が壁に吸い込まれ、反響すら返ってこない。
まるで、この庵そのものが私の声を拒んでいるみたいに。
私は何度も名を呼んだ。
「ファル」と。
でもその音さえ――まるで自分の声じゃないように聞こえる。
他人の声をただ口移しにしたようで、胸に響くはずの響きが空気に溶けて消えていく。
鏡に映る自分の顔も、知らない誰かのように滲んでいて……。
涙で揺れているのか、それとも私という存在そのものが薄れているのか。
どちらなのか分からなくなった私は、思わず鏡を叩き割りそうになった。
(いやだ……一人はいやだよ……ファル………)
庵の静けさは優しさじゃない。
ただ、私を少しずつ削り取っていく。
何もかもを静かに奪い去り、私を「空虚」そのものにしてしまう。
このまま私も眠ってしまいたい。
深い眠りに沈んでしまえば、この孤独も絶望も全部忘れられる。
そう思った。
けれど眠りに堕ちることさえ、きっと二度と目覚められない気がして怖かった。
――だから私はただ、白灰の床に座り込むしかなかった。
冷え切った石に体を預け、視界を涙で曇らせて。
どれほどの時間が過ぎたのか分からない。
時の流れはとっくに断ち切られ、音も光も、私を慰めてはくれなかった。
そのとき。
チャリ、と小さな音を立てて、胸元のサファイアのネックレスが揺れた。
視界に差し込む青の煌めき。
涙の滲む中で、その輝きだけがはっきりと見えた。
ファルが渡してくれたもの。
確かに“ここ”にある。
それだけは幻でも夢でもない。
私は震える指先でネックレスに触れる。
ひんやりとした石の感触――けれど奥底には、微かに温もりが宿っているように思えた。
冷たい石に、確かにあの人の手が触れていた。
その想いが込められている。
目を閉じると、あの瞬間がよみがえる。
私の首に掛けるとき、彼は微笑んでいた。
「とても似合っていますよ」
静かにそう言って、決して大げさな仕草は見せなかった。
けれどその眼差しは、あのとき確かに私を見ていた。
胸の奥に熱いものが込み上げてくる。
嗚咽を必死に押し殺す。
涙は止まらないのに、不思議と心臓の奥にだけは、かすかな光が灯った気がした。
――黒龍が言った。
「大丈夫だ」
あの声は確かに、私を見ていた。
ファルは約束を破れないと。
そしてファルも、私を“サラ”として呼んでくれた。
私の中にある誰かの名ではなく、ただの私を。
(私は……まだ何も知らないんだ)
夢に囚われたまま、ここで終わるわけにはいかない。
まだ答えに辿り着いていない。
まだ彼の隣に立てていない。
けれど恐怖は残っていた。
もしこのまま探しても、何も見つけられなかったら。
もし彼の存在すら幻だったら。
そんな疑念が喉を塞ぎ、息を止めようとする。
それでも。
私は――立ち上がらなければ。
震える手で床を支え、ゆっくりと膝に力を込める。
足はまだ頼りなく、全身が鉛のように重い。
爪先が床に触れるたびに、冷たい波紋が広がっていく。
それでも、一歩、また一歩。
膝が笑い、視界が歪んでも、私は倒れなかった。
倒れたら、もう二度と起き上がれない気がしたから。
(ファル……私は……)
言葉にならない想いを胸に抱きしめ、歯を食いしばる。
涙はまだ止まらない。
けれど涙の奥に、確かな意志が芽生えていく。
白灰の廊下に小さな足音が響く。
それは、孤独に沈みかけていた私が、もう一度歩き出すための最初の一歩。
波紋の広がる音が、まるで彼の声の残響のように聞こえた。
私に「進め」と告げるように。
――だから歩こう。
まだ答えは知らない。
けれど、知らないまま立ち止まることだけは、後悔だけはしたくない。
白灰の床は静かに、けれど力強く波紋を広げていた。
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