第三十四話:咆哮に揺れる

その日――

龍の怒りの咆哮は、世界を駆け巡った。


「……なん、だ……今のは……」


耳で聞いたのではない。

空気を震わせる音でもない。

もっと深く――人の根源そのものを掴み、揺さぶる衝撃。


隣を歩いていた二人の魔術師も同じように足を止め、顔を青ざめさせていた。

いや、この場にいる誰もが、立ち止まらずにはいられなかった。


「インヴィクトゥス様!」


慌てて駆け寄ってきたのは、上級魔術師。司教の付属として小間使いをしている男だ。


(……はぁ、またあの面倒な司教か)


「なんだ? また呼び出しか?」


不機嫌を隠そうともせず、睨みつける。


「は、はい。アウレリウス司教が、直ぐにお越しを、と」


「……どこにだ?」


「エーレンベルク公爵――魔術師団長の執務室です」


俺は舌打ちを返事代わりにして歩き出す。

胸の奥にまだ残る“咆哮の余韻”を、無理やり押し殺しながら。



---


執務室の扉を開けると、既に幾人もの顔が並んでいた。

中でも意外だったのは――同じ教会魔術師最高位、カリグナス・アズラエルの姿だ。


「……なんでカリグナスがいるんだよ」


「教皇猊下の命令です。あなた一人では、“厄災の成れの果て”と馴れ合いが始まってしまいますから」


肩を竦めながら淡々と告げる。

最高位の中でも俺と並ぶ重鎮――正直、本気でぶつかれば、どちらが勝つかは分からない。


「……あれはあれで、俺は嫌いじゃないんだがな」


「立場を弁えて下さい」


司教が青筋を浮かべて睨みつける。

だが知ったことか。

俺とカリグナスは、こうして皮肉を言い合える程度の仲ではある。


そんな俺達二人を余所に、執務室には張り詰めた空気が漂っていた。

重厚な机の向こうに座るのは――エーレンベルク公爵。帝国魔術師団長として名を馳せる老将であり、皺に刻まれた眼差しは鋼よりも冷たい。


その横に立つのが、白の法衣を纏ったアウレリウス司教。

俺はコイツが嫌いだ。根っからの狂信者で、見たこともない“厄災アルヴィト”を憎んでいる。


「……諸君、感じましたね。あれは邪竜の咆哮に違いありません」


アウレリウスの声が低く響いた。

その一言に、部屋の空気がさらに重く沈む。


「ええ、身体の芯まで響きましたよ」


カリグナスが肩を竦め、淡々と答える。


「くだらん与太話を」


俺が鼻を鳴らす。


「俺にはただ……胸糞悪いほどの威圧にしか感じなかったな」


「それが厄介なのです!」


アウレリウスが煩く返す。


「正体が掴めぬ以上、民衆にはただの恐怖として広まる。教会も、帝国も、このまま放置はできますまい」


エーレンベルク公爵が静かに言葉を挟む。


「帝都は無事だ。だが、周辺の村落はどうか。既に調査隊を出したが――情報が届くのは数日後になるだろう」


「公爵閣下。……そんな悠長な……!」


アウレリウスは机に掌を置き、声を強めた。


「今こそ、教会と帝国は足並みを揃え、“厄災”討伐の布告を出すべきです!」


「布告? "厄災"だか"邪竜"だかは大昔に教会が……いや、崇める龍様が滅ぼしただろ。それを討伐って、討伐対象がいねぇじゃねぇか」


アウレリウスが俺を睨むが笑顔を返していると、カリグナスが嫌味とも皮肉とも取れる笑みを作り、アウレリウスに言葉を投げる。


「確かに…"厄災"は滅んでいませんでしたでは示しが付きませんが、そこはどうとでもなるんでしょうね」


俺があざ笑うように吐き捨てる。


「大体よ、さっきのあれが咆哮かなんて誰に分かんだよ?」


カリグナスがちらと横目をやる。


「方便でも、意味はありますよ。民衆は“名付け”られた恐怖に縋るしかないのですから」


「……なるほどな。名前を付けて、縛るわけか」


俺はにやりと口角を吊り上げる。


「まぁ、いいんじゃねぇか?“厄災”だろうが“邪竜”だろうが。どうせ本物を見たことのある奴なんていやしねぇ」


アウレリウスの瞳が鋭く光る。

視線に割って入ってきたのはカリグナスの声だ。


「あなたの軽口は度を越しています、インヴィクトゥス」


「軽口だと? 本気で言ってんだがな」


机を挟み、二人の魔術師の視線がぶつかる。

だが、その衝突を制したのは――公爵の一言だった。


「やめよ」


短い命令に、室内の空気が凍り付く。

エーレンベルク公爵は重く息を吐き、椅子に深く背を預けた。


「……帝都の混乱を防ぐのが第一だ。布告については陛下と協議の上で決める。それまでは口を慎め」


「それに、教皇猊下からのお言葉もまだだしな。待つしかないな、司教殿」


俺の追い討ちにアウレリウスは不満げに眉を寄せたが、反論はしなかった。

カリグナスは沈黙を選び、俺は司教の顔を見ながらにやりと笑みを作る。


――誰もが感じた恐怖。

あれを無視などできないと分かっている。


だが、真実を知る者はまだ現れない。

帝都の空は星が瞬き、咆哮など幻だったかのように穏やかだった――

だが人々の胸の奥には、確かな恐怖だけが残っていた。

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