第二十話:潮風に揺れる想い

翌朝、港町ルドニアを発つ船の甲板。

潮風に混じって聞こえるのは、船員たちの笑い声と、時折飛び交う怒号。


発端はほんの一瞬だった。

私が露店で買った果物を抱えて戻ったとき、ぶつかった船乗りが舌打ちをして睨みつけた。

その視線の前に、すっと黒い影が割り込む。ファルだ。

ただ静かに私を庇った――それだけなのに、船乗りの仲間たちが面白がり、決闘を挑む流れになっていた。


「女を連れて偉そうにするな。男なら剣で語れ」


「そうですか…ではお相手願います」


ファルは変わらぬ微笑を浮かべ、淡々と答えた。


(ちょ、ちょっと……なんで受けるの!?)

止めようとした私に向けられた黒い瞳は、ひと言も発さずに「大丈夫」と告げていた。



---


甲板に集まった船員や乗客がざわめく中、簡素な剣が手渡される。

対峙するのは、鍛え上げられた体をした船乗りの一人。

見ただけで素人ではないと分かる。

一方ファルはローブに剣と言いチグハグな格好。


「やめた方が……」


私の言葉は最後まで続かなかった。


開始の合図と共に、船乗りが猛然と斬りかかる。

けれど――ファルの体は、一歩も動じず、流れるような動作で剣を弾き、相手の武器は甲板に転がる。


「なっ……!?」


次の瞬間、ファルの刃が相手の首筋すれすれに突きつけられていた。

決着は一瞬。誰の目にも明らかだった。


「これで、よろしいですか?」


声は穏やか。だが有無を言わせぬ圧倒的な差。

沈黙していた船員たちが、次第にざわめき、やがて拍手と歓声に変わる。


私は呆然と立ち尽くしていた。


(……強いなんてもんじゃない。圧倒的……)


恐ろしいはずなのに、不思議と胸が熱くなる。

その背中を見ているだけで、何もかも大丈夫だと思わせられた。


「サラさん」


ふいに名を呼ばれて我に返る。

ファルはいつもの柔らかな笑みを浮かべ、差し出した手で私を甲板の中央から導く。


「もう心配はいりません。旅を楽しみましょう」


――胸が跳ねる。

でも、これは違う。きっとまだ夢の残滓のせい。

そう言い聞かせなければ、心が勝手に彼に傾いてしまいそうで。


私は小さく頷き、潮風に紛れる声で答えた。


「……うん」



----


決闘騒ぎが嘘のように、船旅は穏やかに過ぎていった。


潮風に吹かれながら甲板の手すりに寄りかかり、私は水平線を見つめる。

青く広がる空と海。

(こんなにゆっくりした時間、帝都じゃなかったな……)


ふと隣を見ると、ファルが立っていた。

黒いローブを風に揺らし、何も言わずに同じ景色を見ている。


「サラさん、退屈ですか?」


「ううん。落ち着く。……なんだか、不思議なくらい」


私が答えると、ファルは小さく笑みを浮かべた。

その横顔に胸がざわつく。



---


昼下がり、甲板の一角では船員たちが腕相撲大会をしていた。

なぜか私も巻き込まれ、次々と挑戦者に勝ってしまう。


「お嬢ちゃん、意外と強ぇな!」


「き、鍛えてますから!」


強がる私を見て、ファルは袖口で口元を隠しながら笑っていた。


「……すっかり人気者ですね」


「う、うるさい!」


胸の奥がむず痒くなるような感覚。

それが何なのか、まだ分からない。



---


夜。

満天の星空の下、ファルが湯気の立つカップを差し出してきた。


「温かいハーブティーです。眠りやすくなりますよ」


「ありがとう……」


指先が触れただけで、心臓が跳ねる。

慌ててカップを持ち直し、星を仰ぐ。


(……やっぱり、夢のせいだよね。これは私の気持ちなんかじゃない)


そう思い込もうとしても、横顔を盗み見てしまう自分がいる。

穏やかな船旅の中で、胸のざわめきは静かに広がっていった。


(いつになったら、夢の余韻、なくなるかな…)

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