第七話:静寂の庵にて

「……どうして、森の外に?」


優しい笑みを湛えたファルが、当たり前のように答える。


「サラさんが来ると聞いたので。迎えに来ました」


「聞いた? 誰に?」


ここまで誰ともすれ違わず、まるで導かれるように辿り着いた。

私の来訪を知る者など、いるはずがない。

問いかけたそのとき、拳ほどの大きさの光の玉が、ふわりとファルの肩に寄り添った。


「この子が教えてくれました」


ファルがそっと指先で撫でると、光は嬉しげにきらめき、彼の周りを円を描く。

時おり私の目の前も通り過ぎた。


「……これ、は」


「精霊ですよ。可愛いでしょう?」


精霊。

伝承には残っていても、現代で見たという話は聞かない。

「……本当に、いるんだ」


「ここで長居もなんです。行きましょう」


彼の背に続き、森を進む。

五分と歩かぬうちに、鳥の声がすっと消えた。空気が澄み、気配が静まる。


「……音、消えた?」


ファルが振り返って微笑む。


「着きましたよ」


彼の背後に、いつの間にか建物が現れていた。

石造りの貴族邸を思わせる外観だが、ところどころが崩れかけ──いや、崩れたはずの石材が空中に浮いている。


「な……」


言葉を失う私の手を、ファルが軽く取る。扉が無音で開いた。


「ようこそ。静寂の庵へ」


一歩踏み入れた途端、世界が反転する。

床は白灰の石で均され、歩むごとに淡い波紋が走る。

壁は窓ひとつなく純白。

天井にも光源はないのに、柔らかな明るさが保たれている。


不気味なはずなのに、胸の奥が静まっていく。


「……不思議。怖くない」


「まずは、お茶でも」


広間の奥の扉を抜けると、そこは一転して緑に満ちていた。

室内に花が咲き、澄んだ水が細く流れ、床には古い紋様が描かれている。

中央に白いテーブルと椅子が二脚、脇に茶器。


「どうぞ」


引かれた椅子に腰を下ろす。

ファルの所作は一つひとつが端整で、貴族教養の匂いがした。

注がれた紅茶を口に含むと、香り高く、渋みが柔らかい。


「……美味しい。淹れるの、上手なんだね」


「慣れですよ」


見つめられて落ち着かず、私は本題を切り出す。


「ここは何? あなたは誰? 本当の名前を教えて」


「…順番にいきましょう。ここは──人が本来立ち入れない領域。世界の“知識”が補完される場所、と言えば近いでしょうか」


「意味が……追いつかない」


「でしょうね」


カップを置いた彼の表情が、初めて影を帯びる。


「名前ですが……ファルネーゼ・アルヴィト・オドアルド。これが本名です」


息が詰まる。

ミドルネーム──教会の掟では、王侯と後継にのみ許される。

どこかで見た名。記憶の底で何かが軋んだ。


「待って。ミドルネームって……それに、その名前……」


「今は“ファル”で充分です。だから、本当の名は忘れてください」


微かに悲しい笑み。問いを重ねるべきか、言葉が揺れる。

(つまり、どこかの──)


「気になりますか?」


視線が合う。深い悲しみが、黒の奥に滲んでいた。


「……今は、話さなくていい」


「ありがとうございます」


短い礼が、やけに胸に触れた。

沈黙をほどいて、彼が続ける。


「他にも訊きたいこと、たくさんありますよね」


「えっと……」


「ではまず、サラさんが“脱走”できた理由から」


(やっぱり、…関わってる)


不自然すぎる静寂の帝都。あれは偶然ではない。


「あなたが仕向けたの?」


「正確には、森の精霊たちですね。サラさんを気に入っているようで」


「……さっきの風の精霊以外にも?」


「ええ。今のは風の精霊アイレーナ。音を拾い、届けるのが得意です。遠距離は不得手ですが、ずっとあなたを見ていました。

他にも──幻惑の精霊ルミラ、解放の精霊キーリス。彼らが道を開けました」


古い文献で見た名だ。伝説の頁から、今ここに。

(精霊って、属性だけじゃない……)


知識の層が、静かに塗り替わっていく。

私は紅茶をもう一口飲み、問いを整えた。


「……“邪龍”って、何?」


室内の水面がかすかに揺れた。

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