第三話:不思議なお願い

前回、森を抜けた場所から再び足を踏み入れると──そこにはいつもの“精霊の森”が広がっていた。

暗く、歩きにくく、荒れた森。


(やっぱり……違う)


あのときファルと出会った森は、柔らかな光に満ちた美しい場所だった。だが今は、ただの深い森に戻っている。


やがて視界が開ける。

その中央に、黒いローブを纏った男が立っていた。


「……やっと見つけた」


思わず声が漏れる。男──ファルは振り返り、優しく微笑んだ。


「やはり、見つかってしまいましたか」


隠れる気配など初めからない。

堂々と立っていながら、何を言っているのだろう。

不思議なことに、彼の周囲だけは木漏れ日が差し込み、別の森のようにきらめいていた。

黒髪が風に揺れ、光を受けて艶やかに輝く。


言葉を探す私の頬に、ひとすじの涙が伝った。


「……なんで?」


「私と会えたのが、そんなに嬉しいのですか?」


軽く茶化すような口調。だがその奥には、確かに私を気遣う響きがあった。


「ち、違う! その……眩しくて……」


理由も分からぬ涙を誤魔化すように拭い取る。

ファルが近づいてきて、背の高さに改めて気づく。頭一つ分、彼の方が高い。


「……えっと」


言葉が出てこない私に、彼は視線を合わせ、穏やかに微笑む。


「少し、お散歩しませんか?」


「……はぁ」


気のない返事をしてしまい、すぐ後悔する。だがファルは気にせず歩き出した。



---


彼の後ろを歩きながら、私は森の変化に目を奪われていた。


「この森……雰囲気が変わるの?」


思わず呟くと、ファルは振り返る。


「いえ、いつもこんなものですよ?」


穏やかに言うが、私の知る森は暗く深く、容易に帰れぬほど複雑だ。

それなのに今は道が拓け、光が降り注いでいる。


かなり歩いたのに、ファルは疲れを見せない。

少し息が上がった私が声をかけると、彼は立ち止まった。


「別に目的地があるわけではありません。ただの散歩です。……休みましょうか」


そう言って倒木に腰を下ろす。


「汚れるわよ?」


思わず口にすると、ファルは私の靴先を指差す。


「なら、とっくに汚れているはずでしょう?」


足元を見れば、土道を歩いてきたはずなのに、靴は驚くほど綺麗なままだった。


「……嘘」


思わず息を呑む。ファルは小さく笑った。


「ほら、大丈夫です」


言葉に導かれるように、私も倒木に腰掛けた。



---


「……あなたの魔術も、この森も、全く理解できない」


睨むように言い放っても、ファルは微笑を崩さない。


「こうしてのんびり人と話すのは、久しぶりでしてね」


会話が噛み合っているようで、どこかすり抜けていく。


「あなた……本当に人間?」


問いかけると、ファルはわずかに目を見開き、くすりと笑った。


「人間をやめた覚えはありませんよ」


「なら……何者なのか、教えて」


彼は少し考えるように目を伏せ、ゆっくりと語り出した。


故郷は遠く、帰るのも億劫になるほど離れていること。

幼い頃に師がいたが、ほとんどの術は独学であること。

この森には以前にも訪れ、今回は長く滞在していたこと。

精霊に歓迎されれば、迷うことなく歩き回れること。


そして──私の魔術が消えたのは、魔術式を書き換えたからだ、と。


(魔術式は……紙や壁に刻むものじゃないの?)


核心をぼかしたまま話を続けるファルに、疑問だけが積み重なっていく。


「……待って。聞きたいことが多すぎて、追いつかない」


「捕まえて尋問しますか?」


にこやかな笑み。挑発ではなく、本心からのように見えてしまう。


「あ……忘れてた……」


そうだ。彼は捕縛対象。私はそれを任されたはずなのに。


「思い出しましたか?」


楽しそうに笑う顔。だが、私は任務を果たさなければならない。


「……捕まってくれない?」


口にした言葉は、説得ではなく願いのようだった。


「それは困ります。やらねばならないことがありますから」


「散歩してるだけじゃなかったの?」


「ええ。サラさんと話すこと。それが、今の私にとって一番大切なんです」


真顔で告げられ、思わず息を詰める。


「……それに、意味があるの?」


「ええ。私には大切なことですよ」


静かに、確かにそう言った。


ならば、と私は口を開いた。


「──魔術を教えてほしい」


その瞬間、ファルは心底愉快そうに笑みを浮かべた。


笑い声が胸の奥に染み込み、なぜか涙が出そうになった。

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