第6話 祈りの残響と黒の都
氷の谷を出てから七日後、空の糸は西へ傾いた。
夜ごとに光は強まり、今では誰の目にも見えるほどだった。
風を渡るたび、糸は低く鳴る。
まるで、世界そのものが呼吸を再開したように。
ルークは馬上で欠片を見つめていた。
掌の光は日ごとに深くなり、指先の血管まで白く透けて見える。
「無理してないか」
前を行くエンデが振り返る。
「休むなら――」
「大丈夫です。ただ、少し“声”が多くなってきて」
「声?」
「土の、風の、水の……全部が話してくる。
止める方法が、もう分からないんです」
エンデは黙った。
言葉を探して、結局肩をすくめた。
「なら、いっそ聞き続けろ。無視できるほど静かな世界じゃない」
彼らの前方に、黒い霧が見え始めた。
遠くに巨大な影――塔群がいくつも立ち並ぶ。
黒の都、ヴァルト。
かつて神々が去ったあと、人間が築いた最初の都市。
だが今は教団の支配下にあり、「祈りの要塞」と呼ばれている。
門をくぐると、空気が重くなった。
通りの石畳に描かれた祈祷陣、壁に刻まれた太陽紋。
人々は無表情で膝をつき、無言のまま祈りを捧げている。
それは信仰ではなく、服従だった。
エンデが小声で言う。
「この街では、祈りを怠ると“呼吸を奪われる”らしい」
「奪われる?」
「神の代行者を名乗る者が、息を止めさせるんだ。
息を奪えば、反逆もできない」
ルークは無意識に自分の胸に手を当てた。
呼吸――それはこの旅の象徴だった。
土も、石も、水も、息をしていた。
けれどこの街には、息がなかった。
*
夜。
宿を取り、ルークはひとり屋根に出た。
糸は街の中心――巨大な聖堂へと続いている。
その先で、何かが待っている。
「行くんだろう?」
背後でエンデが言った。
月明かりに照らされた彼の顔は、いつになく険しい。
「敵地のど真ん中だぞ。捕まったら終わりだ」
「……分かってます。それでも、呼ばれてるんです」
「誰に?」
「この世界に」
エンデは息を吐いた。「……もう止めても無駄だな」
ルークが頷くと、彼は短く笑った。
「せめて、戻る約束をしろ。俺の飯を食ってから死ね」
「死にませんよ」
「そう言う奴ほど、すぐ死ぬ」
エンデは剣を差し出した。
「持っていけ。俺の分身だ。お前の“祈り”に使え」
ルークは両手でそれを受け取った。
鉄の冷たさの中に、確かな温度があった。
*
深夜、聖堂へ。
黒い塔の根元に、数えきれない祈祷師の像が並ぶ。
壁一面に光る線――祈りの文字が流れ、まるで生き物のように蠢いている。
中央には祭壇。その上に、黒曜石の台座。
その上で輝いていたのは――
七つの祠のうち、ひとつの“心臓石”だった。
ルークは息をのんだ。
光は弱く、泣いているように見えた。
彼が近づこうとした瞬間、背後で声がした。
「やはり来たか、神の落胤(らくいん)」
振り返ると、聖王教団の最高司祭が立っていた。
全身を黒衣に包み、瞳は深い紫。
「その手に流れる血こそ、我らが求めし神の遺伝」
「……僕は神じゃない」
「違う。お前は“神の息を継ぐ者”。我らが再臨の器だ」
司祭が手を掲げると、床の陣が光を放つ。
祈りの文字が宙に浮かび、蛇のように絡みついた。
ルークの胸の紋が反応し、光が走る。
身体が勝手に引き寄せられる。
「やめろ!」
抵抗しても、光の糸が腕を絡める。
司祭の口元が笑う。
「神は死なぬ。だが人の形を選ぶ。
お前がこの地に降りたのは偶然ではない。
七つの祠を繋げ――神を呼び戻せ」
「違う!」
ルークは叫んだ。
「神を呼ぶためじゃない! 世界を生かすためだ!」
「同じことだ」
司祭の杖が床を叩くと、聖堂の天井が開いた。
夜空を貫くように、光の柱が立つ。
糸が集まり、渦を巻く。
それは空と地を繋ぎ、巨大な“心臓”の形を成した。
――どくん。
空気が震える。
鼓動。世界の心臓の音。
その中心に、黒い影が浮かび上がる。
「見ろ、これが神の帰還だ」
司祭が恍惚と呟いた。
だがルークは、その影を見て凍りついた。
それは、神ではなかった。
数千の祈りと絶望が溶け合い、形を成した“負の残響”。
人の祈りが作り出した、偽りの神。
「これは……違う!」
掌が熱くなる。
ルークの中の糸が切れ、光が弾けた。
空気が裂け、黒い都の祈祷陣がひとつずつ崩れていく。
「お前は何者だ!」司祭が叫ぶ。
「無能だと、蔑まれた人間です」
ルークは剣を構えた。
「でも――“無能”だからこそ、神の声より、人の声を選べる!」
光と闇がぶつかり、聖堂が震えた。
祈祷師の像が砕け、黒の塔が軋む。
ルークの胸の紋が燃えるように輝き、光が天を貫いた。
――五の祠、息を継ぐ。
響き渡る声と共に、光の柱が霧散した。
司祭の姿は消え、聖堂には静寂だけが残る。
ルークは崩れた床の上で膝をつき、深く息を吐いた。
エンデが駆け寄ってくる。
「生きてるか!」
「はい……でも、何かが変わりました」
「何がだ?」
「世界の鼓動が、はっきり聞こえる」
外を見ると、黒の都の上空に新しい糸が伸びていた。
それは夜空を裂き、遥か東へ――最後の祠のある地へ向かっていた。
風が吹く。
祈りの残響が、優しく彼の頬を撫でた。
ルークは立ち上がり、光の消えた聖堂を見上げた。
「次で最後です。
七つ目の祠――“神の眠る場所”へ」
(第6話 了/次話「神の眠る場所」へ)
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