第2話 糸の手綱

 夜が明けると、空に伸びた透明な糸はまだそこにあった。

 誰も触れられないが、光の角度によっては、きらりと虹色に反射する。

 谷を渡る風が吹くたび、糸はかすかに震え、空の彼方へと波紋を送っていた。


 村の子どもたちは指を伸ばし、「天の道だ」とはしゃいだ。

 大人たちは黙って祠の前に立ち、モナ婆は祈りを口の中で繰り返していた。


「星の糸が戻るとき、この地は選ばれる」

 モナ婆の声は低く、湿った土の匂いがした。

「昔の言い伝えさ。けれど、まさか本当に見られるとは思わなかったよ」


 ルークは焚き火のそばで、昨夜の出来事を思い返していた。

 掌の紋はまだうっすらと光っている。触れるたび、微かな痺れが指先に広がる。


 ――土は眠らず、息を継ぐ。

 祠の文字。あの瞬間の手の熱。

 そして、糸。


 あれはいったい、何だったのか。


 思考の底で、ルークは奇妙な確信を持っていた。

 「誰か」とつながっている。

 それは神かもしれないし、もっと別の何かかもしれない。だが確かに、糸は生きている。


 背後から、低い声がした。

「起きていたか、無能のルーク」

 振り返ると、辺境小隊長エンデが立っていた。鎧を脱ぎ、剣を腰に下げたまま、粗末な木椅子に腰を下ろす。

「昨夜は世話になった。井戸の水、確かに澄んでいた。……魔法の仕業か?」

「いいえ。ただ、話しかけただけです」

「話しかけた?」

「水に、です」

 エンデは眉を上げ、それから笑った。「なるほど、無能の冗談は変わってるな」


 だが笑い終えたあと、彼の目は真剣だった。

「村を守る約束は守る。だが、お前の手は――何か、持っているな」

「わかりません。ただ……聞こえるんです。土や石や、風の声が」

「声だと?」

「嘘みたいですよね」

「嘘であってほしいがな。もし本当なら、それは“祝福”か“呪い”だ」

 エンデは立ち上がり、剣の柄を軽く叩いた。

「いずれ分かる。だが、どちらであっても、使う覚悟がいる。お前がこの村を守る気があるならな」

「守る気はあります」

「ならば手を握れ」

 ルークが差し出された手を握ると、指先に金属の冷たさが伝わった。

「契約だ」エンデは言った。「無能でも構わん。役立たずでも、俺は使える者を見抜く」


 その日から、ルークと辺境隊の共同生活が始まった。

 彼らは警戒線を張り、周囲の森を調べ、獣避けの柵を直した。

 ルークは畑を整え、水路を延ばした。

 彼の作業は常に奇妙だった。普通の鍬を使いながら、時折、掌で土を撫で、まるで何かと相談しているように止まる。

 エンデは最初こそ訝しんでいたが、三日目の朝、芽吹いた畝を見て言葉を失った。


「……一晩でこれか」

 青い芽が畑一面に並び、朝露を弾いていた。

 モナ婆が杖をつきながら笑う。

「この村は、息を吹き返したねえ。あんたが来てから、土が笑ってる」

「笑う土、か……」エンデは空を見上げた。「俺の故郷じゃ、こんな緑を見たのはいつ以来だろうな」


 ルークは黙って土を撫でた。

 糸の先――空の向こうで、かすかな震えを感じる。

 誰かが、呼んでいる気がする。



 夜。

 焚き火の火が弱まる頃、ルークは一人、祠へ向かった。

 石板の前に膝をつき、糸を見上げる。

 風がないのに、糸はゆらりと揺れた。


「……あなたは、誰ですか」

 声に出すと、糸がわずかに明滅した。

 光の波が、彼の掌に届く。

 脳裏に、声が響く。


 ――天の子。土の息を継ぐ者よ。


 誰の声とも言えない。老いた女のようでもあり、少年のようでもある。

「俺は……無能です」

 ――名を棄てた者ほど、名に近づく。

 ――お前の掌は、世界の手綱。

 ――それを握れ。糸はお前を導く。


 言葉が途切れ、光は消えた。

 残されたのは静寂と、胸の鼓動だけ。

 ルークはそっと糸に手を伸ばした。

 触れた瞬間、冷たさが指先から走り、体の奥に白い光が流れ込む。

 頭の中に映像が広がる。

 干上がった川、倒れた村、泣き叫ぶ子どもたち。

 そして――燃える城。


 「……これは?」

 声を上げると同時に、祠の石板が青白く輝いた。

 ルークの掌に光の線が刻まれ、糸が強く引かれる。

 風が巻き、祠の木々がざわめく。


 次の瞬間、光が収まる。

 彼の前に、見知らぬ石の欠片が落ちていた。

 黒く、滑らかで、掌に収まるほどの大きさ。

 触れると、冷たい声がした。


 ――見つけて。残りの欠片を。

 ――それが、神々の血脈の記憶。


 声はそこまでで消えた。

 ルークは胸の奥に奇妙な熱を感じた。

 「神々の血脈」……?

 まさか、自分が。



 翌朝、エンデたちのもとに急報が届いた。

 南の領からの使者が来たという。

 旗印は「聖王教団」。かつてこの地を支配し、神の名を盾に村を焼いた宗教組織。

 彼らが再び辺境へ進軍しているというのだ。


「神の奇跡を取り戻すため」と称して。


 エンデが顔をしかめた。「最悪だ。やつらは“神の力”を求めて各地を荒らしている」

「……もしかして、それって」

「そうだ。祠の光。やつらが見逃すはずがない」

 エンデはルークの肩を掴んだ。

「お前、正直に言え。あの光、お前の仕業か」

「……多分、そうです」

 エンデはため息をつき、額を押さえた。

「まったく、厄介な神の加護を持ってきたもんだな。だがもう引き返せん。戦の匂いが近い」


 ルークは拳を握った。

 守りたい。この村を。モナ婆を。土を。

 掌の紋が、再び微かに熱を帯びる。


 ――糸の手綱を握れ。


 風が祠を通り抜け、糸が空を渡る。

 その先で、見えない何かが、確かに呼吸していた。


 そしてルークは初めて気づく。

 この糸は、空へと伸びるだけではない。

 地の底へも、深く、深く、伸びている。


 ――天と地をつなぐ、神々の血脈。

 それを辿る旅が、いま始まろうとしていた。


(第2話 了/次話「祠の欠片」へ)

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