無能と蔑まれた少年、神々の血統だった〜辺境で育てた村が、いつの間にか神話の舞台に〜
妙原奇天/KITEN Myohara
第1話 無能の手、土の声
追放――それは、才能の証明ではなく、烙印の省略形だった。
「無能」と蔑まれた少年ルークは、辺境の小村に流れ着く。干ばつ、壊れた農具、すり減った祈り。
ただ、彼が土に触れた瞬間、村の空気が変わった。芽が息をし、折れた鍬が歌いだし、古い祠は眠りから覚める。
誰も知らない。彼の血が、遠い昔に失われた“神々の血脈”に連なっていることを。
静かに生きたかった。けれど、ささやかな手助けは、やがて世界を巻き込み――この村を「神話の舞台」へと押し上げていく。
無能と蔑まれた少年が、辺境で「守りたい生活」を育てる物語、はじまり。
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追放は、靴の砂利の音に似ている。やむことがないのに、誰も聴こうとしない。
俺――ルークは、ひとつだけの袋を肩に掛け、街道の端を歩いていた。袋の中身は、穴のあいた手袋と、欠けた木皿と、子どもの頃に拾った小さな白い石。それだけ。武器も魔導書もない。あるのは、“無能”という評判だけだ。
元いた隊の隊長は、最後にこんなことを言った。「悪く思うな。お前は誰の役にも立てない。だからこそ、誰の邪魔にもならない場所で生きろ」と。
なるほど、と俺は思った。役に立たないから、役に立たない場所へ。簡潔で美しい理屈だ。胸は痛んだが、傷は浅い。深く刺さるほどの刃物すら、俺には渡されなかった。
日が傾く頃、森の切れ間から、窪んだ地形と、低い石垣が見えた。粗末な柵、曲がった煙突、風に鳴る風車。人の気配がある。
村だ。地図にも載らない、名もない村。俺は足を止め、唾を飲み込んだ。ここで断られたら、次はどこへ行けばいい?
柵のところに、背の曲がった老婆が立っていた。顔に刻まれた皺は、干上がった川の筋のようだ。
「旅の子かい?」
「はい。ルークといいます。……仕事を探しています」
「仕事?」老婆は笑い、空を見上げた。「あるにはあるさ。雨がないのに、やることは山ほどね」
彼女は俺を見て、少しだけ目を細めた。「あんた、手は使えるかい」
「使えます。使い物にはならないと、よく言われますが」
「使ってから言うもんだよ」
村に足を踏み入れると、乾いた空気が舌の上で砕けた。畑は硬く、葉は黄ばんでいる。井戸の桶には、底の見える水が少し。子どもたちは暑さに頬を上気させ、犬は日陰を探している。
「ここは星見の窪地って言うんだよ」老婆が教えてくれた。「夜になると、谷風が吹いて、空が近くなる。昔は祭りもあったがねぇ」
俺は頷き、畑の端にしゃがみ込んだ。土に触れる。ひび割れの筋の間に、乾いた匂いがたまっていて、指の腹に粉のようにまとわりつく。
耳を澄ますと、かすかな音がした。
――ぱち、ぱち。
それは火の音に似ているが、違う。閉じた芽の、内側で擦れ合う音だ。目を凝らすと、茶色の膜に包まれた小さな胚が、ひたむきに肩を押し上げている。
いままで、こういう音を聴いたことは、ない。いや、正確には、俺は昔から聞いていたのかもしれない。けれど、街では雑音が多すぎた。人の足音、怒号、剣戟、笑い声。芽の音は、小さすぎて、いつもかき消えた。
「おい、旅の兄ちゃん!」
振り返ると、痩せた少年が壊れた鍬を抱えていた。柄がひび割れ、鉄の先は曲がっている。
「これ、直せないかな。父ちゃん、背中やっちまってさ」
「鍛冶屋じゃないから……」と言いかけて、俺は黙った。
鍬の鉄に手を当てる。冷たく、鈍い。けれど、どこかで、かすかな震えが伝わってきた。
――戻りたい。
鉄が語るわけがない。けれど、俺はそう聞いた気がした。曲がった首が、まっすぐに戻りたがっている。
指先で、傷の線をなぞる。ひとつ、ふたつ。すると、乾いたはずの空気の中で、音が変わった。
――きん、と。
鉄が、昔の形を思い出す。溝が寄り、ひびが静かに閉じていく。驚いて手を離すと、鍬は、曲がりを失って、まっすぐ立った。
少年の目が丸くなる。「直った……!」
俺の心臓は、逆に冷たくなった。何が起きた?
老婆が、じっと俺を見ていた。「あんた、名は?」
「ルークです」
「ルーク。よかったら、明日の朝、祠に来なさい」
「祠?」
「この村の古いのがある。手を貸してほしいのさ」
夜、納屋の隅を借りて横になった。藁の匂い。風の抜ける音。遠くで、虫が鳴いている。
眠れなかった。鍬の手触りが、指に残っている。
俺はずっと、無能だった。誰もがそう言ったし、俺自身も、そうだと信じていた。剣は振れず、魔法は暴発し、計算は遅く、足も速くない。
でも今日、俺の手は、土の音を聞き、鉄のため息をなぞった。
それは、役に立つことなのか? それとも、偶然のいたずらか?
目を閉じると、子どもの頃の記憶が浮かぶ。白い石。母がくれたお守り。「困ったら、土に触りなさい。土は生きてるから」と笑っていた顔。
母のことは、あまり覚えていない。病気で早くに死んだ。俺は石だけを残され、石の中に、言葉の続きが眠っている気がして、時々耳に当てた。もちろん、石は何も話さなかった。
翌朝、祠は村の外れにあった。苔むした石段、折れた鳥居。木々の間から差す朝日が、石の台座の欠けを照らしている。
老婆――皆は彼女を「モナ婆」と呼んでいた――が、祠の前で膝をついていた。
「昔はね、ここで星を呼んだんだよ」モナ婆が囁く。「谷風に笛を合わせて、夜空に糸を投げるみたいに。もう誰も、糸の結び方を知らなくなったけれど」
祠の中央には、黒ずんだ石板がはめ込まれている。裂け目が入り、半分は土に埋もれている。
「これを起こしたい。男手はあるけれど、皆、背中や膝を痛めてね」
俺は頷き、石板に手を当てた。
――冷たい。深い。
ひとつ息を吐いて、掌を滑らせる。石は沈黙している。けれど、その沈黙は、無関心ではない。聴かれ慣れていないだけの、照れ屋の沈黙だ。
「……石さん」思わず口に出た。「少し、動いてくれませんか」
モナ婆がくすくす笑う。「石に敬語とは、礼儀正しいこと」
指先に、砂が集まる気配がした。裂け目の中の粒が、寄り合い、縫い目を探す。
――とん。
祠の奥に、乾いた音が響いた。石板が、指をひとつ鳴らしたような、小さな音。続いて、土の中で根が伸びるような、ささやき。
ゆっくりと、石板は傾きを変え、地上に顔を出した。ひびが寄り、刻まれた古い文字が、朝日に照らされてくっきりと浮かぶ。
モナ婆が息を呑む。「読めるかい?」
俺は首を振った。文字は見たことのない形だった。けれど、意味は……なぜか、わかった。
「『土は眠らず、息を継ぐ。天の子は掌に森を持ち、大地の子は掌に星を持つ』」
自分の口から出た言葉に、俺自身が驚いた。なぜ、俺はこれを――。
そのときだった。
祠の天井の隙間から、ひと筋の光が降りてきた。朝日というには白すぎる、ぬるい光。光は石板に触れ、そこから細い糸のように分かれて、俺の指の先に絡みついた。
ひんやりとした痺れが、肩、胸へと駆け上がる。
「ルーク!」モナ婆が叫ぶ。
胸の中央が、熱い。服を掻き合わせると、皮膚に薄い紋が浮かんでいた。輪と線が組み合わさり、幼い頃から握っていた白い石の模様と、同じ形だった。
光が、掌の中で膨らむ。怖くはなかった。むしろ、懐かしい匂い――濡れた土と、割った林檎の匂いがした。
「……ごめん、ちょっと、やってみる」
祠の横の、干からびた小さな花壇に、手を差し込む。土は固く、根は浅い。
俺は土の中の音に耳を澄まし、目を閉じた。
――だいじょうぶ。
誰かが、そう言った。誰か、というより、たくさんの小さな喉が、合唱している。種の声、根の声。
「起きていいよ。雨はまだだけど」
掌から、音が落ちた。
土が、呼吸を始める。ひびがやわらぎ、粒がほどけ、薄い皮が破れ、黄緑の舌が覗く。
芽だ。ひょろりとした線が、光をなぞるように伸び、震え、ふっと止まる。
モナ婆が口を押さえた。祠の外から、子どもたちの歓声が聞こえる。
「生えた! 兄ちゃん、生やした!」
「生やしたって言うな……」と、俺は笑ってしまった。膝が少し、震えている。
それから、俺は井戸へ行った。底にわずかに残った水に、指をひたす。
――眠い。
水が、言う。
「起きて。君がいないと、畑が泣いてる」
桶の中で、光が小さな輪を描いた。底の泥が静まり、白い泡がひとつ、ふたつ、浮かんで消える。
縄を手繰ると、桶はりんと澄んだ重さを取り戻していた。
村人たちが集まってきた。誰も、言葉を持たなかった。
俺は、額の汗を拭いた。呼吸が浅い。けれど、恐怖はない。
ただ、ひとつだけ、思い出した言葉があった。
――土は眠らず、息を継ぐ。
その日の午後、俺は畑の区画を見直し、土の通り道を作った。水が行きたがっている方向に、溝を彫りなおす。壊れた農具は、できる限り直した。全部が全部ではない。俺の手にも限界がある。折れたものは折れたまま、無理に戻すと、別の箇所が悲鳴を上げる。
夕方、村に風が立った。谷風だ。モナ婆の言ったとおり、空は近く、色は薄く、星の生まれ変わりの瞬間みたいに白かった。
風に乗って、どこからか笛の音がした。誰も吹いていないはずなのに、音は確かに、祠の方から来る。
俺は立ち上がり、祠へ向かった。
祠の前に、いつのまにか人だかりができていた。老人、女たち、子ども。皆、黙って空を見上げている。
空に、糸が一本、張っていた。透明で、細く、けれど確かにそこにある。糸は祠の上から伸び、北の空へ消えている。
「星の糸……」モナ婆が震える声で言った。「本当に、戻ってきたのかい」
俺の胸の紋が、微かに脈打った。
そのとき、村の外れで、角笛が鳴った。見張りの少年が、必死に走ってくる。
「人が来る! 十人くらい! 旗を持ってる!」
皆の顔が、こわばった。
俺は祠の前に立ち、深く息を吸った。
追放された無能の少年。村を救ったわけでもない。芽を起こして、井戸を澄ませただけだ。
それでも、ここが俺の居場所であってほしい、と初めて思った。
「俺が、出る」
足は震えていなかった。
夕陽が石段を赤く染める中、俺は柵の方へ歩いた。胸の紋が、衣の下で静かに熱を持ち、遠いどこかから、土の声、水の声、木の声が、低く寄り添ってくる。
――だいじょうぶ。
その声に背中を押され、俺は柵の扉を開いた。
現れたのは、鎧をまとった一団だった。粗末だが実戦の匂いのする、辺境警備隊の装い。先頭の男が兜を脱ぎ、鋭い目で俺を見た。
「この村の者か」
「いいえ。通りすがりの、無能です」
男は、目を細めた。
「なら、話が早い。俺たちは水を求めている。三日前から川が途切れた。井戸は濁り、家畜が倒れている。……ここには、まだ水があるらしいな」
俺は振り返る。祠の向こうで、人々が不安そうに立ち尽くしている。
男は続けた。「代わりに、我々はこの村を守る。盗賊も獣も、寄せつけない。どうだ」
奇妙な申し出だった。けれど、俺には、彼らの靴底にこびりついた泥の声が聞こえた。ひび割れ、焦げ、焦り。嘘ではない。
「条件がある」俺は言った。
男が眉を上げる。
「祠に手を出さないこと。井戸の底の泥をいじらないこと。畑の溝は、俺の引いた線を変えないこと」
沈黙。
やがて男は、小さく笑った。「面白い。……よかろう。名は」
「ルーク」
「俺はエンデ。辺境小隊長。覚えておこう、無能のルーク」
嘲りではなかった。名を刻むような、硬い声だった。
その夜、村は久しぶりに火を焚いた。僅かな肉と干した豆で、薄いスープを皆で分け合う。星は高く、谷風は笛を吹く。
俺は焚き火の縁に座り、掌を見つめた。
無能と蔑まれた少年。
なのに、土は俺に、こんなにも優しい。
手の中に、星の冷たさが残っている。
祠の上の糸は、夜の間中、淡く光り続けていた。まるで、どこか遠い場所と、この村とを繋ぎ止めるために。
誰も知らない。明日の朝、その糸が空へ一気に引かれ、窪地の中心から光の柱が立ち上がることを。
その瞬間から、この場所は、地図の余白ではなくなる。
――神話の舞台。その名に相応しい、始まりの印を受け取るのだ。
(第1話 了/次話「糸の手綱」へ)
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