「19話 – 敗れたパイロット」

DECG本部の入口は、今も変わらず無機質に磨かれていた。

自動ドアは正確な時刻に開く。その瞬間ごとに、ジンは「入る」のではなく「吸い込まれていく」と感じた。


「帰還を歓迎する。」

口ではそう言いながらも、机の上を滑ってきたのは笑みではなく書類の束だった。

身分再登録、捕虜経緯書、機体損傷報告、心理安定チェックリスト。


ジンはペンを取っては置き、また取った。

ペン先が紙を削るたび、金属の味が舌に滲んだ。

マリナの湿った土の匂いの代わりに、この部屋には消毒薬と潤滑油の匂いが満ちていた。


「9486、眼球追跡データ、署名。」

端末を差し出した担当官は、目を正面から合わせなかった。視線は常にわずかに逸れている。


「捕虜待遇への異議は?」

「ありません。」

「復帰動機は?」

「任務の遂行です。」


担当官は頷く代わりに、チェックボックスを二度タップした。

画面上の青いチェックが重なり、二重の印を残す。

ジンはその重なりを見つめて、わずかな眩暈を覚えた。

重なるものに、彼の身体は過敏だった。

歌と信号、手振りと命令、舞台と戦場――それらすべてが重なっていた夜が、小さく再生された。


医務室へ移動。

黒いガラスの向こうでスキャナーが起動する。


「精密検診です。動かないでください。」

機械の腕が首筋を撫でた。冷えた金属が皮膚を押した瞬間、心臓の鼓動が半拍だけ外れる。


「追跡装置、再装着。」

短い痛み。

血管の奥で温まっていた何かが、再び冷たく沈む。

金属と熱を帯びた血が交わる刹那、ジンは歯を食いしばった。


「痛覚指数、報告。」

「0.7。」

「平均以下。正常です。」


壁面パネルが開き、新しいパイロットスーツが押し出された。

材質は以前と同じだが、手首の内側に小さなポートが一つ追加されている。


「感情変動収集用の補助ポート。共鳴事件以降、全機に装着義務。」

医務官の声は平板だった。


「個人情報同意書は?」

「すでにご署名済みです。」


署名欄には名前ではなく番号があった。被験体9486。

ジンは軽く頷き、スーツを受け取った。内側から新しい匂いが滲む。

マリナの土の匂いが一瞬だけ蘇り、すぐに消えた。


格納庫へ降りると、クソヤロウ部隊のラインが見えた。

新しい塗装を施されたイカルスが光を跳ね返している。

遠くにいた仲間たちが一瞥をくれた。挨拶する者はいても、笑う者はいなかった。


「生きて戻ったか。」

最初に声をかけたのはサイレンスだった。低い声、無表情。

「おかげで。」

「誰のおかげで?」


サイレンスは問いを投げたが、すぐに首を逸らした。

質問は空中で蒸発した。

後方で、クリムゾンがヘルメットを顎に乗せて言った。


「失敗すんなよ、ワスプ。もう一度落ちたら、俺たちも一緒に墜ちる。」


ジンは短く息を吸った。

「歓迎」ではなく「失敗するな」。この部隊の文法はいつもそうだった。

だが今日、その言葉は以前より冷たく響いた。


イカルス9486のキャノピーが開く。

操縦席に座ると、ジェイコアが空中に現れた。

小さな猫型ホログラム。耳が瞬き、黒い瞳が彼をスキャンした。


「神経リンク再初期化、ゲコ。心拍62、変調量微少――ゲコ。ジン、帰還を――」

ジェイコアは一瞬止まった。「歓迎する」という単語を探すように口を動かした。

「――作動状態として登録、ゲコ。」


ジンはかすかに笑った。

「お前まで言葉を選ぶんだな。」

「現時点で『歓迎』の定義は不明確、ゲコ。」

「痛いとこ突くな。」

「骨はデータじゃない、ゲコ。」


リンクケーブルが首の後ろのポートに接続される。HUDが開き、視界一面にグリッドが広がる。

右下に新しいアイコンが表示された。EMO-PORT。

手首のポートと連動する感情波形収集モジュールだ。


ジェイコアが説明を続けた。

「感情波形を――ゲコ――情報に変換し、司令サーバーへ送信する、ゲコ。拒否オプションは――」

「ないんだろ。」

「――設定で無効化されている、ゲコ。」


ジンはHUDに浮かぶ「ON」をじっと見つめた。

押しても反応しないスイッチ。

彼は画面を閉じた。


「ジン。」ジェイコアが少し傾く。「不満もログに入る、ゲコ。」

「構わない。」

構わない――そう思いたかった。


出撃ブリーフィングが無線で流れた。挨拶も士気もなく、チェックリストが銃声のように読み上げられる。

《任務:マリナ周辺の偵察および共鳴干渉の検出。交戦は回避。》


マリナ。

その一語が喉に引っかかった。

ジンは無意識に唾を飲み込む。舌に金属の味が広がった。

彼が離れた場所。いや、正確には押し流された場所。

土と水と緑陰、そしてショーツの声。――「お前の指先に宇宙の未来がある!」


ジェイコアが音量をわずかに下げた。

「ジン、呼吸を――ゲコ――ゆっくり。」

「わかってる。」


キャノピーが閉じた。外の音が切れる。

代わりに、内部の微音が拡張された。冷却ファンの回転、ハーネスの摩擦、血流が耳奥で鳴る鼓動。


「クソヤロウ編隊、展開。」

サイレンスの声が先頭から流れ、滑走路のラインが順に灯る。

ジンのイカルスが前輪を離した瞬間、腹の底でぬるい熱が走った。

熱を帯びた血が管を巡る感覚――組織に再び接続される証のようだった。


上昇。大気の境界層を抜けると、視界が透き通った。

HUD上部にモスナイン関連のニュースティッカーが流れ、すぐに消えた。

「文化波動の成果、士気17%上昇」――その文字は削除され、任務コードが上書きされた。


「9486。」

管制の声が無線を通して届く。

「捕虜期間中に得た情報、提出済み確認。」

「提出済み。」

「追加提出予定は。」

「なし。」

「確認。」


問答は感情を欠き、返答は自動入力のように流れた。

ジンは、自分が人間なのかテンプレートなのか、一瞬わからなくなった。


編隊が雲を踏むように浮かぶ。

機体群が整然とラインを描く。完璧な間隔、均一な推力、乱れのない陣形。

その中で、ジンだけが手首のポートにわずかな疼きを感じていた。

感情を吸い上げる装置――「お前が何を感じているか、我々は知りたい。」


「ジン。」ジェイコアがまた呼ぶ。

「リンク品質98%。でも――ゲコ――静かすぎる、ゲコ。」

「静か?」

「内側の波形が抑え込まれてる、ゲコ。普通、復帰初出撃ではノイズが多い、ゲコ。」

ジンは笑いとも溜息ともつかぬ息を漏らした。

「たぶん……まだ帰れてないだけだ。」


「座標入力完了――ゲコ。編隊、右舷7度旋回。」

空は何も言わない。だがジンは知っている。

この世界では、言葉の代わりにデータが、歓迎の代わりに手続きが、真実の代わりにログが動く。


そして彼は、その体系の中へ再び戻った。


“歓迎”の言葉と共に渡されたのは書類であり、

“復帰”という名のもとに首筋へ埋め込まれたのは追跡機だった。

仲間の視線は、生還者を見てはいない。

生還した者の空席を確認しているだけ。


ジンは操縦桿を強く握った。

指先の熱が金属へ移る感触。


金属と、熱を帯びた血。

その温度だけが、今の彼にとって「生きている」証だった。

そして同時に――どこにも属していない証でもあった。


「クソヤロウ、航行高度維持。通信整合性チェック。」

サイレンスの命令に、応答音が一斉に跳ねた。

ジンも答える。

「9486、正常。」


声は正常。心臓は正常ではなかった。

彼はゆっくりと息を吸った。


マリナの土と水、ショーツの笑い、種の微かな震え――

すべてを格納庫のどこかに置いてきたように思えたが、

実際には首のポートの下、熱を帯びた血の中でまだ沸き立っていた。


「ジン。」ジェイコアが小さく囁く。

「リズムを――ゲコ――忘れるな。」

「……ああ。」

ジンは頷いた。


空は、何も知らないふりで青かった。

そして任務は、何の感情もなく始まった。


――続く。


編隊が任務空域に入った時、空気は異常なほど澄んでいた。

センサーのログは「波動干渉なし」を繰り返していたが、

ジンの耳の奥には、微かなノイズが鳴っていた。


単なる通信の雑音ではない。

機体との同調が半分だけ外れているような、気持ち悪い違和感。


HUDの十字線は確かに中央にあるのに、操縦桿はわずかに反発していた。

まるで彼の意志を拒むように、半拍遅れて反応する。

イカルスは本来、彼の神経と波動に完全に合わせるはずだった。

だが今は、周波数のズレたラジオのように音が揺れていた。


「9486、姿勢不安定。修正しろ。」

サイレンスの通信は短く、鋭い。


「修正中。」ジンは短く答えた。だが額に汗が滲む。

計器は正常値を示していたが、

――これは正常ではない。彼にはそれがわかっていた。


瞬間的に目を閉じて数を数える。

一つ、二つ、三つ。

指先の微かな震えを抑え込もうとしたが、不協和音はさらに大きくなった。

イカルスのエンジン音が鼓動と逆に鳴り、耳の奥を圧迫する。


心臓は二拍。エンジンは三拍遅れ。

そのズレが視界の景色さえ歪ませた。


編隊は予定航路に沿って海岸線を滑る。

砂の砂漠と波の境界が刃のように続いている。

サイレンスの機体は寸分の狂いもなく直線を保ち、

クリムゾンは必要以上に大胆な軌跡を描いていた。

彼らのリズムは滑らかで、固かった。

揺れているのは、ただ一人――ジンだけだった。


「ジン、出力調整できない?データログが乱れてるゲコ。」

ジェイコアが囁く。


「俺が乱れてるのか、機体が乱れてるのか。」

「両方あり得るゲコ。だが――ゲコ――今はお前の感覚が基準だ。」

「感覚が間違ってたら?」

「間違った感覚も――ゲコ――データだ。」


尤もらしい言葉だったが、現実は残酷だった。

編隊の動きが正確であればあるほど、

ジンのズレは目立っていく。

わずかな角度誤差が、全体の陣形に波紋を生む。


サイレンスがすぐに補正し、無線で言った。

「9486、シミュレーターに戻れ。お前の拍が汚い。」

「今は……大丈夫です。」

「“大丈夫”は報告書の言葉だ。戦場で使う言葉じゃない。」


首筋に冷たいものが走った。

報告書の言葉、戦場の言葉――その境界は明確だった。

だが、彼の頭の中では別の声が反響していた。

ショーツが笑いながら言った言葉。

――“種だって喋る”。


その囁きが、今も機体の振動に混じって蘇る。


集中しようとした。敵を探知し、指定座標に沿って動き、

編隊の一員として復帰を証明しようとした。

だが手首のポートが周期的に疼く。

まるでEMO-PORTが「お前、今揺れてる」と告発しているようだった。


「9486、ジン。」ジェイコアが呼ぶ。

「応答。」

「……。」

「脳波リズムがイカルスの波動と不一致、ゲコ。補正率83%。危険域。」

「もっと合わせられる。」

「無理をすれば切れる、ゲコ。」


その時、編隊前方に小さな敵機反応が現れた。

HUD上の赤い三角形が瞬く。


「戦闘機動に移れ。」

サイレンスの指示と同時に、陣形が急速に組み直される。


ジンも自動的に追従したが、はっきりわかった。

――機体が、彼の動きに追いついていない。


左旋回を試みるも、照準線が半拍遅れて動く。

その瞬間、クリムゾンの機体と軌道が重なった。

警報が鳴り、HUDが真紅に染まる。


「9486!気をつけろ!」

「くそ……!」ジンは軌道を修正。衝突は避けた。

だが編隊は一瞬乱れた。


敵機はすでに逃走。

ほんの僅かなミスで、機会を失った。


静寂が無線を覆う。

言葉の代わりに、重い沈黙が機体の間を切り裂くように流れた。


その時、ジンは悟った。

――俺は今、負けている。


敵と戦う前に。仲間と並ぶ前に。

自分自身に、負けていた。


耳元で再びノイズが鳴る。

今度は単なる雑音ではなかった。


“Do you believe in the truth? 잘 봐 baby—”

ルビールビーの声だった。


《Imitation Luminous》の一節が、通信チャンネルのどこかから漏れるように再生されていた。


ジンは息を止めた。なぜ……今それが?


指先が震える。

周波数のズレ、機体の遅延、編隊の沈黙、そして突如の歌。

不協和音は単なるエラーではない。

それは、彼がもはやDECGの完璧な部品ではいられないという証明だった。


戦闘は一時終了。敵機は撤退。

だがジンのコックピット内は、かつてないほど騒がしかった。


心臓は速く打ち、イカルスの波動はその逆拍で鳴り続けた。

指先から伝わる震えは、「お前は合っていない」と叫ぶ警告音のようだった。


――“種だって喋る。”

ショーツの声が蘇る。

温室で土を触りながら、水飛沫を上げて笑っていた声。

その言葉は冗談のようでいて、今やどんなデータよりも強く甦る。


指先の震えが“種の声”の幻聴と重なった。


「9486、状態を報告。」サイレンスの無線。

ジンは息を整え、答えた。

「異常なし。」


だが声は固く閉ざされ、彼自身も嘘だとわかっていた。


その瞬間、ヘルメットの内側で歌が鳴った。


――私は本物よ, Do you believe in the truth?


シャフィーナの声。

《Imitation Luminous》。


ありえないタイミングだった。

戦闘通信チャンネルに流れ込むはずがない。

それでも確かに、脳の奥で鳴っていた。


世界に一つだけの brilliant jewel—

その声は嘲るように、眩い幻のように重なった。

ジンは歯を食いしばる。これは撹乱だ。電子戦かもしれない。

だが、心の奥底では知っていた。――これは敵の信号ではない。

彼自身の無意識が呼び出した残響だった。


ルビールビー。シャフィーナ。

モスナインの舞台で響いていた、あの共鳴。

ジンはあの時も感じていた。

人間の心臓を貫く震え。機械で解析できない感覚。

それが今、再び彼を揺らしていた。


「9486、返答しろ。」

サイレンスの声がもう一度響く。

ジンは一拍遅れて答えた。

「……正常です。」

「正常じゃない。」

短く、断定的な声。


ジンは目を閉じた。正常ではない――それは真実だった。

彼はすでにこの部隊のリズムから外れていた。


計器が滲む。数値が踊る。

その隙間をルビールビーの歌詞がすり抜ける。

ほら、You never know, ever—

ショーツの笑い声とルビールビーの声が交錯する。

種と歌。土の匂いと照明。


二つの世界が、彼の内側で衝突していた。


「俺が……負けてるのは、誰との戦いなんだ?」

思わず口をついた。


これは敵との戦いではない。

クソヤロウ部隊との競争でもない。

DECGという機構と、そこに組み込まれて生きてきた自分自身との戦いだった。


そして同時に――

温室で感じた循環の感覚。種が芽吹く瞬間の既視感。

ルビールビーの声が投げた「本物と偽物」の境界。


それらすべてが、彼の中で衝突していた。


作戦は終了した。

だが、ジンの戦闘記録は冷たく本部に送信された。

データ検証は無慈悲だった。通信遅延、反応速度低下、不要な機動――すべて数値で残された。


「9486、戦場撹乱判定。」

ブリーフィングルームで読み上げられた報告は、乾いた声だった。


ジンは壇上に立つ。

背後に仲間たちが座っていたが、誰も彼の目を見なかった。


「戻るとは思わなかった、って言葉、無駄じゃなかったな。」

隣のパイロットが呟く。

からかいでも励ましでもない。ただ事実の確認。


ジンは何も言わなかった。指先が震えていた。


報告官は表情を変えず結論を告げた。

「一時停止処分。機体運用制限72時間。再評価後、復帰可否を決定。」


短い文。それが即ち敗北の公式な宣告だった。

敗北とは戦闘でのみ訪れるものではない。


――俺は今、組織に敗れたのだ。


ジンは静かに息を吐き、頭を垂れた。

額から落ちた汗が書類に染み、数字が滲んだ。

まるで機械ではなく、血と汗で書かれた記録のようだった。


――金属と、熱を帯びた血。

ジンは心の中でそう呟いた。



格納庫へ戻ると、ジンは一人、機体の前に立った。

イカルスは何も語らない。

だが機体の冷たい金属が、まるで返事のように熱の残る吐息を漏らした。


掌を機体に当てる。金属は冷たくなかった。

戦闘中に過熱した痕跡がまだ残っている。

熱を帯びた血のように、脈打っていた。


「俺は……まだ帰れていない。」

ジンは低く呟いた。


ヘルメットを外した顔には、汗と血が入り混じっていた。

それは戦闘の傷ではなく、内側の亀裂が生んだ痕跡だった。


遠くで見ていた仲間の一人が、唇を動かした。

だが最後まで、声にはならなかった。

ジンにかける言葉など、誰にもなかった。



夜。宿舎。

ジンはベッドに腰を下ろしていた。

端末の上には報告書の草稿。冷たく、意味を持たない文章。


《温室は適切に維持されていました。》


それがすべてだった。


ショーツの笑い、土の匂い、指先で感じた芽の震え――すべて消された。

DECGに不要なデータとして。


端末を閉じ、目を閉じても、耳にはまだ声が残っていた。

“種だって喋る。”

“私は本物よ、Do you believe in the truth?”


ショーツとルビールビー、そしてシャフィーナ。

種と歌。

それらはジンの中で、機械のデータよりもはるかに鮮明に残っていた。


敗北の記録は、本部に提出した文書ではなかった。

ジンの胸の奥に刻まれた、消えない裂け目だった。

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