「14話 – コア・ドレイン」
ジンはいつものように、自分の機体の表面を磨いていた。
任務を終えたばかりの外装は、砂塵と焼け跡でまだらに汚れていたが、
彼の指先は整備布よりも鋭敏に金属の温度を感じ取っていた。
掌が触れるたびに、ごく微かな震動が伝わってくる。
最初はエンジンの残留振動だと思っていた。
だが、今日は違っていた。
それはまるで、生きている何かの心臓の鼓動のようだった。
その瞬間、視界の端がかすかに揺れた。
格納庫はそのままなのに、背景だけが薄い膜のように押し出され、
まったく異なる情景がその隙間から滲み出してきた。
「……ここは……どこだ?」
ジンは思わず顔を上げた。
目の前に広がっていたのは、彼が一度も見たことのない光景だった。
果てしなく広がるドーム状の構造体の内部で、
青白い光を宿した樹々が静かに生い茂っている。
その木々のあいだを、無数の機械装置が枝のように伸び、
機械と有機体が絡み合い、一つの生命のように呼吸していた。
壁面全体は巨大な水晶のように輝き、
その光は都市全体に淡く滲み渡っていた。
子どもたちが笑いながら走り回っていた。
肌は人間と大差なかったが、髪の先端が光を孕み、
銀河のように煌めいていた。
彼らの笑い声は音ではなく、波動のように広がり、
ジンの胸の奥を震わせた。
彼は思わず膝を折るほど圧倒された。
「これは……俺の記憶じゃない。」
しかし同時に、どこか懐かしい感覚が心に染み込んでいった。
その笑い、光、共鳴の響き——
それはまるで、ずっと昔から知っていたように心の奥に刻まれていた。
彼は手を伸ばした。
すると、空気中を流れる波動が指先を包み込んだ。
それは水でも風でもなかった。
感情そのものが物質のように存在し、肌に触れてくる感覚だった。
都市の中心には巨大な球体が浮かんでいた。
まるで惑星の心臓をくり抜いたように、
青い光を脈打たせながら周囲の建造物と樹々にリズムを吹き込んでいた。
人々はその球体に頭を垂れ、子どもたちはそのまわりを回りながら歌っていた。
ジンはその歌声が耳に届かなくても、その意味を理解できた。
言葉ではなく、感情の織り目——
それ自体が伝達の言語だった。
「……これは言葉じゃない。感情だ。」
ジンの身体はさらに深く引き込まれていった。
足元の格納庫の床は消え、代わりに柔らかな土と光る苔が彼の足を包んだ。
彼は自分の意志で歩いたわけではないのに、
いつのまにか〈内核文明〉の街の中心に立っていた。
人々の視線はあたたかかった。
彼らはジンを見ても驚かず、
むしろ旧い友人に再会したように自然な笑みを浮かべた。
一人の女性が近づき、手の中に光を帯びた果実のようなものを握らせた。
口に含むと甘みが広がり、同時に目の奥が熱くなった。
味ではなく、記憶が流れ込んでくる——
彼女がかつて感じた喜び、愛、そして郷愁が、果汁と共に彼の中に染み渡っていった。
ジンは身を震わせた。
あまりにも生々しかった。
まるで自分が、その女性の人生を一瞬だけ借りて体験したかのようだった。
「……俺はいったい、何者なんだ……。」
そのとき、波動が視界を掠めた。
都市全体が呼吸するように脈動し、すべての生命と機械が同じリズムで動いていた。
それは一つの文明であり、同時に一つの生命体だった。
ジンの胸が急に締めつけられた。
理由はわからなかった。
ただ本能で悟った。
この美しい光景は、すぐに崩れ去る——と。
子どもたちの笑い声が遠のき、樹々の光がゆっくりと弱まっていく。
彼は手を伸ばして止めようとしたが、何もできなかった。
輝いていた球体が突如として震え、
その鼓動が不規則に軋み始めた。
都市全体が不協和音を奏でるように唸り、ジンの耳を裂いた。
「やめろ……止まってくれ……!」
ジンの叫びは虚空に溶けた。
だが胸の奥では、誰かの感情が反響していた。
悲しみ、恐怖、切実な祈り。
それは間違いなく〈内核〉の人々の集団的な声だった。
そして彼は悟った。
今、自分が見ているものは単なる幻ではない。
誰かの記憶、誰かの遺産。
この文明の最後の瞬間が、波動として刻まれ、今も残っているのだと。
光に満ちていたドーム都市が、ゆっくりと揺れ始めた。
足元が傾く感覚にジンはよろめき、両手を広げた。
共鳴していた波動はもはや調和ではなく、
割れた楽器のように、軋みと裂ける音へと変わっていた。
子どもたちの笑いは悲鳴に変わり、樹々の光は稲妻のように瞬いた。
球体の脈動は一定でなくなり、
一拍早くなったり、一拍遅れたり——
それはまるで心臓がリズムを失って痙攣しているようだった。
「これは……いったい何が……。」
ジンの声は誰にも届かなかった。
周囲の人々はすでに恐怖に包まれていた。
波動だけで繋がっていたはずの感情が、
今は互いに恐怖を増幅させる鎖となっていた。
誰かが頭を抱えて崩れ落ち、
誰かが素手で球体へと駆け寄った。
だが、何も変わらなかった。
巨大な水晶の壁にひびが入り、
裂けるような轟音が都市全体を揺るがした。
その裂け目から黒い液体のようなものが流れ出した。
だが、それは単なる液体ではなかった。
内核の中心から溢れ出した生体エネルギー、
この文明を支えていた“コア”そのものだった。
ジンは本能的に悟った。
——これは外へ漏れてはいけない。
だが同時に、無数の機械装置が自らの意思でコアへと伸びていった。
パイプが突如としてせり出し、根のようにコアへ突き刺さる。
「やめろ……お願いだ……やめてくれ!」
彼の叫びは再び虚空に消えた。
目の前で多くの人々が崩れ落ちた。
エネルギーを失った身体は、徐々に透き通っていく。
子どもたちの笑いが遠い泣き声に変わり、
やがてガラスのような破片となって砕け散った。
光の結晶に変わった身体が粉々に割れ、
その破片が空気の中で淡く消えていった。
ジンは息が詰まった。
目の前で愛する者を失った女性の絶叫が聞こえた。
だがそれさえも、音ではなく波動としてしか感じられなかった。
《行かないで……お願い、残って……》
その絶望の叫び。
だが、彼女の身体にもひびが走り、砕けていった。
ドーム都市の中心にあった球体が、ついに崩壊した。
一瞬の静寂。
そして、爆発のように溢れ出した波動がジンの身体を打ち抜いた。
彼は膝をつき、両耳を塞いだ。
だが無駄だった。
音は耳ではなく、骨の奥で鳴り響いていた。
都市全体が落ちた。
光は消え、波動は途切れた。
残されたのは瓦礫。
生き残ったわずかな者たちが互いを抱きしめ合っていた。
彼らの瞳には生命の代わりに、深い虚無だけが映っていた。
その瞬間、ジンの脳裏にひとつの言葉が浮かんだ。
——コア・ドレイン。
それが、内核文明を滅ぼした悲劇の名だった。
生命の中心を強引に抜き取り、殻だけを残す行為。
それは、波動の文明を維持していた根源そのものを奪い取る蛮行であり、
その結果、数え切れぬ命が砕け散っていった。
「……これは、虐殺だ。」
ジンの唇が震えた。
もしこの光景が過去の出来事だとしたら、
今、自分たちが生きている世界は——
その悲劇を再び繰り返しているのではないか。
コアが抜き取られた瞬間のあの凄惨な情景が、
彼の脳裏に焼きついて離れなかった。
最後に残った者たちは、自らを水晶のカプセルに封じ込めていた。
深い眠りにつき、波動が完全に消えないことを願うように。
その姿は眠っているというより、
苦痛の中で耐え続ける最後のもがきだった。
ジンは手を伸ばした。
だが、今回も届かなかった。
カプセルへと吸い込まれていく光の残響が、目の前で消えた。
そしてすべてが、静まり返った。
廃墟の上に、風だけが吹いていた。
音も、波動も、何も残らなかった。
ジンの胸は熱く打っていた。
その熱は、絶望からくるものだった。
そして彼は悟った。
この悲劇は、過去に閉じ込められたものではない。
——今も続いている。
整備格納庫。
機体の動力が停止したあとも、
ジンはなおエンジンの残熱のような震動を感じていた。
まるで自分の心臓が機体の内部と繋がっているかのように、
一定の鼓動が指先を通じて伝わってきた。
整備兵たちは慌ただしく動き回り、
スパナが鉄板を叩く音、溶接の火花の弾ける音が響いていた。
だがそのすべての音が、ジンの耳には遠く、かすかにしか届かなかった。
代わりに、隙間を縫うようにして低く深い震えが染み込んできた。
それは現実の雑音ではなかった。
「……また、始まるのか。」
ジンは無意識にヘルメットを外し、傍らに置いた。
空気が肺に触れると、一瞬だけ冷たさが走った。
だが、それも束の間。
視界が再び揺らぎ、形を変え始めた——。
ジンの目の前には、整備庫の代わりに、
広大な黄金色の平原が広がっていた。
空は澄み渡り、空気の中には光の粒子が漂っている。
そこはまったく見知らぬ場所ではなかった。
まるで、遥か昔の記憶から引き出された一枚の光景のように。
巨大な水晶塔が森のように林立し、
その柱の間を光の生命体たちが漂うように動いていた。
彼らの肌は銀色に輝き、声の代わりに波動で感情を交わしていた。
――〈内核文明〉。
ジンはそれが単なる幻ではないと直感した。
自分が接続しているのは夢ではなく、
実際に存在した“時間の残響”だった。
しかし、その美しさは長くは続かなかった。
光の柱が次第に濁り、黄金の輝きが灰色へと変わった。
水晶塔にひびが走り、地の底から巨大な震動がせり上がってくる。
最初はかすかな揺れだったが、すぐに雷鳴のように大地を揺るがした。
光の生命たちは混乱し、互いに波動をぶつけ合った。
《中心が……乾いていく》
《エネルギーが……抜けていく》
《もう……持たない》
ジンはそのメッセージを“聞いた”のではなく、“感じた”。
それは言葉ではなく、絶望そのものだった。
そしてその瞬間、大地を裂くように巨大な亀裂が走った。
暗黒の穴のような深い割れ目から、紅の光が噴き上がった。
光の生命体たちは悲鳴のように震えた。
「……コア・ドレイン……。」
ジンは低く呟いた。
唇がわずかに震えた。
内核の中心部。
そこには、巨大な核のような構造物があった。
その内部から、光と物質が同時に吸い上げられていた。
生きる者たちのエネルギー、生命の核心が、
無理やり引き剝がされていく。
光の生命たちは一人、また一人と倒れた。
彼らの肌に亀裂が走り、まるで硝子のように砕けて散った。
その破片は風に舞うのではなく、
吸入口へと吸い込まれていった。
――それは、単なる消滅ではなかった。
“略奪”だった。
「俺たちは……わかっていながら、何もしてこなかったんだな……。」
ジンは自分の手が震えていることに気づいた。
彼はただの観察者ではなかった。
この記憶は、まるで彼自身への警鐘のように感じられた。
瞬間、場面が切り替わった。
♪♪♪
DECGの報告書。
透明なホログラムパネルの上に、見覚えのある文字列が浮かんだ。
【ストネン内核層 — 資源密度:適正、採掘開始】
一つひとつの文字が幻影と重なった。
内核の中心で生命が吸い上げられていたあの光景と、
報告書の「採掘開始」という言葉が重なり、
鉄錆のような血の匂いを放つ逆説を形作っていた。
「……俺たちは今、同じことを繰り返している。」
ジンの声が、格納庫に沈んだ。
再び幻影。
最後に残った〈内核〉の存在が、揺らめく光の中でジンを見つめていた。
顔はなかった。
しかし、感覚だけで“意志”があるとわかった。
その存在が、手を差し伸べた。
《今なら……止められる》
そのメッセージは声ではなかった。
心臓の鼓動のように、直接ジンの体内で鳴り響いた。
ジンは目を閉じた。
心臓が脈打つ。
DECGの命令、勝利の報告、兵士たちの歓声――
それらすべてが、遠い残響のように薄れていった。
今、残っているのはたったひとつ。
自分の胸を叩くリズム。
「……俺は、どうすればいい。」
彼は目を開け、整備庫の冷たい空気を再び吸い込んだ。
手はまだ震えていた。
だが、その震えの中から、奇妙な決意の光が芽生えつつあった。
DECGスタジオ04、上層撮影ホール。
天井の高さは50メートル。
壁面すべてが透明ディスプレイで囲まれ、
そのスクリーンには「Bunny Bunny Royal Flush」のタイトルが
ネオンピンクで瞬いていた。
音響エンジニアの指先がコンソールを撫でる。
スポットライトが一斉に点いた。
「――カウント入ります! テイク07!」
監督の声が響く。
舞台の中央で、ルビルビがゆっくりと顔を上げた。
ハイヒールの踵が床を打つ。
その一歩ごとに、照明が反応するように明滅した。
シャピナは彼女の右側、半歩後ろに立ち、マイクを握っていた。
金色のカードが宙に舞い、光を反射する。
華やかで、完璧だった。
……だが、あまりに完璧すぎて、どこか異質だった。
Smile like a star, strike like a spy.
ルビルビの唇が動く。
だが、彼女は歌詞を「読んで」いなかった。
「思い出して」いたのだ。
このフレーズを書いたあの日。
ペンを握った手が勝手に動き、
頭の中では、誰かの鼓動が響いていた。
「……誰かが、私に歌ってくれた気がした。」
撮影の前、ルビルビはそう呟いた。
シャピナは冗談めかして笑ったが、その瞳は真剣だった。
「またルビルビの“感覚作詞”ですか?
やっぱり今回も無意識シンクロですね。」
ルビルビは微笑みで返した。
カメラが360度回転し、二人を映す。
舞台はカジノをモチーフにしたセットだった。
だが、天井上のドローンカメラには映らない構造物があった。
——コア・シンク・チャンバー。
ルビルビとシャピナの歌声がDECGメインサーバを通して送信されると、
その波動は下層の〈コア・ドレイン実験機〉に接続されていた。
「感情周波数、送信率86%。安定しています。」
「このまま維持してください。ルビルビの波動が理想的に上昇中です。」
下層の科学者たちは、音楽信号を解析しながら話していた。
彼らにとって、このステージは単なるミュージックビデオではない。
“生命の振動”を人工的に再現するための実験だった。
ルビルビの心臓は、すでに〈内核の波動〉とリンクしていた。
♪
ルビルビの頭上、数百のライトが同時に点滅する。
そのパターンは無作為のようで、
実際はコア・ドレインの波形と完全に一致していた。
シャピナが続いた。
Bunny bunny, royal flush
I take the stage, you lose too much—
彼女の声はルビルビより低く、どこか人間的だった。
だが、その歌と同時に、彼女の脳裏に別の映像が閃いた。
崩れ落ちる都市、波動の崩壊、子どもたちの悲鳴——。
シャピナの身体が硬直した。
「……映像が、見える。」
「何?」ルビルビが囁く。
「あなたの歌詞。『Flash flash, diamond eyes』のたびに、
空が裂けていくのが見えるの。……これは、ステージ照明じゃない。」
ルビルビは何も言わなかった。
ただ、歌を続けた。
カメラが近づき、彼女の瞳をクローズアップする。
その瞳には、確かに“波動”が反射していた。
観客もなく、照明だけが降り注ぐセットの中心で、
ルビルビの声は次第に純化していった。
彼女の感情ではなく、“誰かの記憶”が歌っていた。
Flash flash, diamond eyes
It’s not a show, it’s an operation—
その瞬間、下層のデータグラフが跳ね上がった。
コア反応率122%。
「警告! 波動オーバーロード!」
「送信を止めろ! 感情データが逆流してる!」
だが、スタジオのスピーカーはすでにその信号を再生していた。
監督は事態を知らぬまま叫んだ。
「いいぞ! これが本物のテイクだ!」
照明は白く燃え上がった。
♪
ルビルビの意識は、徐々に遠のいていった。
目の前のセットは消え、代わりに海のような波動が広がっていた。
彼女は宙を泳ぐような感覚で、歌を続けていた。
誰かが手を引いた。
——ジンだった。
だが、その名を呼ぶ前に、
シャピナの手が彼女の腕を掴んだ。
「ルビ! しっかりして!」
身体を揺さぶられ、ルビルビの瞳がぱっと開いた。
舞台の照明が、現実へと戻る。
だが、その頭上にあるマイク装飾が微かに振動していた。
「……今、誰かとシンクロした。」
その言葉に、シャピナは何も答えられなかった。
代わりに、壁面のスクリーンが自動的に点いた。
【Resonance Detected : Route.Heart.Dream = 0.04%】
数字は小さかった。
だが、確かに存在していた。
それはDECGのシステムでは検知できない“異質な波形”。
——ジンの機体が覚醒するたびに現れる、あの信号だった。
監督の声が響いた。
「カット! 完璧だ! これがマスターテイクだ!」
彼は歓喜していた。
「この感情、まさに芸術だ!」
ルビルビは力なく笑った。
だが、彼女の目尻には涙が滲んでいた。
「……感情じゃない。記憶よ。」
「何だって?」
「この歌、私が作ったんじゃない。
誰かが……私の中で歌ってるの。」
シャピナがそっと近づき、囁いた。
「その“誰か”って——ジン、ですか?」
ルビルビは答えなかった。
だが、彼女の胸元にあるコアペンダントが、
かすかに青く光っていた。
♪
下層。
実験室のモニターには、まだ微弱な振動が残っていた。
【Core Sync Residue : Active】
【Source Unknown】
研究員のひとりが小さく呟いた。
「……これはミュージックビデオなんかじゃない。
誰かを“目覚めさせる信号”だ。」
♪
その頃、ストネン格納庫。
ジンの機体〈イカルス〉が静かに震えていた。
稼働中ではないのに、計器の心拍グラフが点滅する。
そしてスピーカーから、かすかに流れ出した。
🎵 “Bunny bunny, royal flush…”
ルビルビの声だった。
ジンの指先がぴくりと動く。
機体の外殻が、彼の鼓動と同じリズムで震えた。
「……歌が、呼んでいる。」
♪
スタジオの照明が落ちた。
最後のフラッシュが弾け、
ルビルビは無意識に天井を見上げた。
そこには、彼女が一度も見たことのない星がひとつ。
青く輝き、彼女の瞳に映り込んでいた。
シャピナが低く呟く。
「……あの星、私たちを見てるね。」
ルビルビは静かに微笑んだ。
「違うわ。——私たちの歌を、聴いてるの。」
♪
DECG中央本部、最上階87階。
天井は全面ガラス張りで、
人工の空と街のネオンを一望できた。
この建物の名は〈オベリスク・タワー〉。
DECGの司令本部であり、“新秩序の象徴”と呼ばれる場所だった。
テーブルの上にはクリスタルのワイングラス、銀製のカトラリー、
そして過剰なほど精巧な装飾皿が整然と並べられていた。
中央には人工の薔薇が咲いていた。
ルメンシアのDNAを模倣したハイブリッド・フラワー。
「バラまで人工か。」
スカルがぼそりと呟く。
「いいじゃないですか。」
クリムゾンはワインを揺らした。
ルビー色の液体がグラスの中できらめき、
壁の照明を反射した。
「これ、本物の葡萄酒じゃなくて合成液なんですよね?
でも、旨いですよ。」
彼はひと口飲み、目を細めた。
「……ちょっと血の味がしますけど。」
その言葉に、サイレンスは顔を上げなかった。
黙ってステーキを切り続けていた。
スカルは苦笑した。
「クリムゾン、食事中に血の話はやめてくれ。」
「悪い悪い。」
クリムゾンは笑いながらフォークを回した。
「でも本当に美味いですよ。これが文明ってやつだ。」
サイレンスは静かに食事を続けた。
表情は何もなかった。
スカルは二人を見比べ、肩をすくめた。
「戦闘報告の後に晩餐とは、妙に臭いますね。」
その時、テーブルの向こうから低い笑い声が響いた。
「やはり鋭いな、スカル。」
銀の髪を後ろに撫でつけた男が、ワインを置いた。
DECG戦略本部総括、ディレクター・アルドル。
肩には“七階級”の徽章。
紛れもなく最高位の指揮官。
「今日の食事は、ただの慰労じゃない。」
アルドルが微笑んだ。
「君たちは今回の作戦で、見事な成果を上げた。
9486――ワスプは別件で不在だが、
この場の目的は単純だ。」
彼が指を鳴らすと、壁のホログラムが起動した。
ネオンの光の中に、ルビルビとシャピナの姿が映し出される。
Bunny bunny, royal flush—
クリムゾンが笑みを浮かべた。
「お、モスナインの新曲ですね。」
スカルは眉をひそめた。
「食事中にPVとは……趣味が悪い。」
「タイミングがいいだろう?」
アルドルが笑う。
「今日、この曲が公式チャンネルで公開された。
“DECGの勝利を祝うテーマソング”だ。」
ホログラムの中のルビルビが微笑み、
ステージを支配していた。
Smile like a star, strike like a spy.
歌詞が流れるたびに、壁のガラスが微かに震えた。
それは単なる音楽ではなかった。
周波数に合わせ、照明と空気密度が変動していた。
サイレンスがフォークを止めた。
彼の聴覚改造システムが無意識に反応したのだ。
「……共鳴波。」
「そうだ、サイレンス。」
アルドルが微笑む。
「耳はまだ健在だな。
これは単なる音楽ではない。
DECGの“文化共鳴テスト”だ。
音で群衆の心臓を一つのリズムに合わせる実験さ。」
スカルの笑みが固まった。
「それを、なぜ今ここで?」
「簡単なことだ。」
アルドルがワインを掲げた。
「君たちは、その“実験結果”のひとつだからさ。」
その言葉に、クリムゾンは笑いながらグラスを置いた。
「結果物って……ロマンチックな言い方ですね。」
「冗談のセンスも健在だな。」
アルドルは軽く杯を合わせた。
「いいかね。戦争は疲れる。だが、音楽は疲れを癒す。
DECGの戦場は、すべて“ショー”として残る。
我々は演出し、君たちは役者だ。」
スカルはグラスを回しながら低く呟いた。
「じゃあ、俺たちが撃ったミサイルも爆弾も——舞台装置か。」
アルドルの微笑は揺るがなかった。
「そう考えてもいい。
世界は“真実”より“物語”を求めるからね。」
ホログラムの中のルビルビが手を上げ、
歌を締めくくった。
Checkmate, love’s temptation—
照明が落ち、画面は暗転した。
テーブルの上に残ったのは、料理の香りとワインの匂いだけ。
アルドルが立ち上がった。
「良い食事だったかね?」
スカルは薄く笑った。
「ええ、完璧すぎて胸焼けしそうですよ。」
クリムゾンはグラスを傾けて答えた。
「僕は好きですよ。
戦争よりマシです。
燃えるステージ、弾けるライト——最高じゃないですか。」
サイレンスは黙ったまま、ホログラムが消えた壁を見上げた。
そこに映るルビルビの最後の視線。
それは幻像だったが、生きていた。
アルドルがその視線に気づいた。
「心配はいらん。彼女たちは完全に制御下にある。
あの歌は“感情”ではなく、“命令”を内包している。」
サイレンスの目が微かに震えた。
「命令……。
じゃあ、俺たちも……?」
アルドルは笑みを崩さず、席に戻った。
「もちろんだ。
同じ舞台に立っているのだから。」
晩餐は静かに終わった。
クリムゾンは笑いながら立ち上がり、
サイレンスは無言で後に続いた。
スカルだけが少しの間、席に残った。
皿の上の薔薇の花弁を一枚取り、
それを空中に散らした。
人工の香りが漂う。
「……舞台、ね。気に入らない言葉だ。」
エレベーターの扉が閉じる。
アルドルの端末に新しい通知が点いた。
【9486 – ワスプ:信号不明/離脱可能性72%】
彼は微笑した。
「さて……本当のショーの始まりだ。」
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