「10話 – 亀裂の記憶」

操縦席に座るジンのHUDは、青い光で点滅していた。

画面の隅には、本日の出撃目的が太字で表示されている。

〈任務:小規模反乱軍残党の鎮圧および宣伝効果の最大化〉


DECG司令官の声が、機体内部の通信網を通して響いた。

「今回の作戦は単純だ。反乱軍の動きは微弱だが、対外的には“脅威的な勢力”として演出する。我々の舞台は戦場だ。モスナインのステージと共に、この勝利を民衆の記憶に刻みつけろ。」


命令を聞いていたジンは、思わずシートを握りしめた。

〈宣伝効果〉〈舞台〉〈公演〉——今ではどれも聞き慣れた言葉だった。

むしろ戦闘ブリーフィングの中で、最も頻繁に出てくる単語だった。


“舞台、公演、効果。”

彼は自分自身に問いかけた。


「俺はパイロットなのか……それとも芝居の小道具なのか。」



眩しい照明とプロジェクションスクリーンに覆われた格納庫は、戦場というよりコンサートステージに近かった。

ライトは銀色に輝き、スピーカーからはDECGのスローガンが流れていた。


巨大なスクリーンには、ルビルビとシャフィナのリハーサル映像が映し出されている。

ルビルビの赤い衣の裾が舞い、シャフィナの冷たい声が「秩序」を歌いながら背景を満たしていた。


「DECGが守る。文化と均衡、そしてあなたの日常——」


司令官は続けて言った。

「我々の敵は不純分子だ。民衆は“脅威”を必要としている。

今日、その脅威が崩れ落ちる瞬間を、彼らに見せるのだ。」


ジンはその言葉を聞いて、静かに俯いた。

『俺たちが消すのは“脅威”なのか……それとも、人なのか。』


その思考は、声になることはなかった。


♪♪♪


錆びついた格納庫の中で、反乱軍の兵士たちが数人、装備の点検をしていた。

「弾薬、これだけか?」

「本部からの補給はとっくに途絶えてるさ。今日は…時間を稼ぐだけだ。」


年老いた指揮官は、擦り切れた地図を広げながら言った。

「DECGは今日、大規模な放送を計画している。たとえここで我々が崩れ落ちようとも――この戦いがあったという事実だけは残さねばならない。人々に、あいつらの都合のいい姿だけを見せてはいけない。」


彼の視線は窓の向こう、漆黒の宇宙へと向けられていた。

「我々の目的は勝利ではない。存在の証明だ。」


♪♪♪


クソヤロ部隊の整備区画。

巨大な金属アームが戦闘機を吊り上げ、床には潤滑油の匂いが漂っていた。


赤い照明の下で、ルビルビは戦場カメラに映る自分の姿を一瞬見つめ、

それから視線をクソヤロ部隊の方へと向けた。


整備員や兵士たちの間に、ジンの姿があった。

彼はヘルメットを手にしたまま、俯いていた。

滑走路の光が彼だけを避けるように流れ、

まるで舞台照明の中でただ一人、影の中に立っているようだった。


ルビルビの唇がわずかに上がった。

「……主役が静かすぎるじゃない。」


彼女は囁くように呟き、ゆっくりと歩み寄った。

ハイヒールの金属の踵が、格納庫の床を澄んだ音で叩く。

その“コツ、コツ”というリズムは、まるで音楽のように均一に響いた。


周囲の整備員たちは一斉に顔を上げたが、

誰一人として止めようとはしなかった。

彼女の行動のすべてが“演出の一部”だと信じていたからだ。


ジンの目の前に立ったルビルビは、微笑んだ。

その瞳は驚くほど澄んでいた。


「緊張してるの?」

彼女は首を傾げて尋ねた。


自分の影が彼にかかっていることも、

自分への挑発だと分かっていながらも、ジンは答えなかった。


ルビルビはさらに一歩、近づいた。

そして、予告もなく彼のヘルメットを外した。


空気の流れが変わった。

一瞬の静寂の中で、時間さえ止まったようだった。


彼女の唇が触れた。

短い息。熱。

ジンの呼吸が乱れた。


HUDが赤く点滅し、警告を表示した。

[Warning: Pilot O₂ fluctuation detected]

[Unexpected Contact — Unit Rb-01]


押し返すことも、受け止めることもできず、ジンの指先が震えた。

ルビルビの香りと体温は、夢ではなく確かな現実だった。


唇を離した彼女の指先が、彼の顎のラインをなぞるように滑り、そこで止まった。

そして耳元で、彼女が囁いた。


「出撃前に運を祈るのが、礼儀でしょ?」


その声は甘く、それでいてどこか乾いた響きを持っていた。

ジンは何も言えなかった。

彼女から渡されたヘルメットを握る手が、固く動けずにいた。


ルビルビは微笑みを残したまま背を向けた。

その瞬間、彼女の耳の中の送信機がかすかに点滅した。

[Emotional Sync : 0.023% — Data Captured]


照明の下で、再びカメラが回り始める。

全員がそれをひとつのパフォーマンスとして記録した。

だが、ジンの胸の奥には説明のつかない熱だけが残っていた。

ジンは何も言えなかった。


再び空気の温度が変わった。

ルビルビとジンの間にまだ消えきらない熱が漂っているとき、

冷たい足音が響いた。


金属の床を叩くヒールの音――一定で、規則正しい。

シャフィナだった。


彼女は二人の方へゆっくりと歩み寄る。

その瞳には、光がなかった。

「プロトコル違反を検知。理由を問う。」


その声は命令のように硬質で、

感情の波は一切含まれていなかった。


ルビルビは身体をひねり、彼女を見据えた。

唇の端には、まだ余裕を感じさせる微笑みがあった。

「データの収集よ。」

彼女は淡々と言った。

「共鳴反応のテスト。」


シャフィナは答えの代わりに、わずかに頷いた。

「データ比較のため、同一行為を実施。」


その言葉が終わるやいなや、

彼女は一片のためらいもなくジンへと歩み寄った。


ルビルビが「ちょっと、それは――」と言うより早く、

シャフィナは同じ行為を繰り返した。


唇が触れた。

だがそれは接吻というより、測定だった。

冷えた金属が触れるような感覚――体温ではなく、プロトコル。


ジンは息を呑んだ。

HUDが一斉に警告を放つ。

[Sync Ratio: 0.97 → Critical Zone]

[Resonance Unstable]


視界が閃光に包まれ、白いノイズが走った。

彼は反射的に身体を押し返した。

「これは命令じゃないだろ…!」


シャフィナは瞬きひとつしなかった。

ルビルビは指先で唇を軽く拭い、笑った。

「命令? ジン、いつから命令と感情を区別できるようになったの?」


その言葉は冗談めいて聞こえたが、

彼女の瞳はそれよりもずっと深い場所を見ていた。


シャフィナは静かに頭を下げ、淡々と記録を取る。

「感情は不要なノイズ。しかし、記録する。」


ルビルビは口角を上げた。

「そう、そのノイズがあるからこそ――私たちは歌うの。」


二人の声が共鳴するように交差した。

熱と冷気、二つの波が同時に格納庫の空気を震わせた。


ジンは何も言えなかった。

ただ、その二つのリズムがぶつかり合いながら生み出す微細な波形――

人間と機械の狭間にある、“感情”という形を感じ取っていた。


【AI SYSTEM REPORT / 9486 パイロット・チャンバー】

• 変動行動検知 — Ruby-01, Saphina-02

• Emotional Sync Ratio 0.97 — 許容範囲内

• 「Performance Enhancement(演出効果向上)」として分類

• 行動逸脱 — レビュー対象として記録


【オペレーター記録】

「9486の反応パターンが予測と異なる。感情回路の動揺の可能性あり。」

「削除を推奨。」


ルビルビは再びジンから視線を外し、肩越しに言った。

「――ショウの始まりよ。ステージで会いましょう。」


シャフィナもその後ろに続いた。

二人の背中は、完璧に演出された俳優のようだった。


喧噪の中、ジンは一人取り残された。

彼は逃げるようにヘルメットを被り、視界を閉ざした。


ヘルメットの中のHUDには、まだルビルビの唇の跡のような

微かな熱が残っていた。


「……これは脚本にないはずだ。」


AIが再びカウントダウンを開始する。

「出撃まで、60秒。」


ジンの手が操縦桿を握る。

ルビルビの笑い声とシャフィナの声が、

機体内部の通信網に残響のように混ざり合っていた。


ジンはその音を聞きながら、静かに呟いた。

「戦場じゃなくて……舞台なら、

俺はいったい、どんな役を演じているんだ?」


HUDの青い光がまた瞬いた。

機体が発進トラックへと移動すると、滑走路の端に

赤い誘導灯が一つ、また一つと灯っていった。


その瞬間、戦場送信チャンネルが開かれ、

空気を震わせる低音が流れ始めた。


モスナインのオープニングメロディ――

《Crimson Parade》。


イントロが鳴り響いた瞬間、ルビルビの声が戦場を切り裂くように爆ぜた。

「♪ Stand by— the world’s on fire!」


爆音と照明が同時に弾ける。

格納庫の外壁が展開し、数十機のスピーカー・ドローンが次々と離陸した。

彼らは軌道上へと散開し、音響波をリアルタイムで中継していく。


ジンのHUDには、DECGのロゴとともに

【Live Transmission: ON AIR】

の文字が赤く点滅した。


音楽は、もはやただのBGMではなかった。

振動がエンジンの共鳴板を震わせ、

機内の計器すらリズムに合わせて微かに揺れていた。


――戦場が、舞台になっていく。


反乱軍側の通信網にも、同じ信号が流れ込んできた。

ノイズの混じった歌声――だが、そのメロディの波は正確に彼らのコックピットまで届いた。


若い反乱軍パイロットが歯ぎしりしながら叫ぶ。

「戦闘も始まってないのに……もう祭りのつもりかよ!?」


老兵が静かに答えた。

「奴らは“戦争を見せる”んだ。」


彼はスクリーンに映るモスナインのリアルタイム中継を見つめた。

まばゆい照明、踊り、歌――

そしてその裏で、一人、また一人と散っていく味方の航跡。


「俺たちは、その舞台の犠牲に過ぎない。」


その言葉が終わると同時に、空全体が紅く染まった。

軌道上のスピーカー・ドローンが一斉に出力を上げ、戦場全体を震わせる。

空と地の境界が曖昧になり、爆発の閃光すら音楽の一部となっていった。


ルビルビの声が電波と光を伝って広がる。

「これは戦いじゃない――ショーよ。」


彼女の囁きが通信網をかすめて消えた。

ジンはヘルメットの中で息を呑む。

エンジンが震え、心臓がそのリズムに合わせて鼓動した。


――Crimson Parade。


その歌は、すでにすべての生命の鼓動を指揮していた。


出撃カウントダウンが始まった。

[T-minus 10 seconds]

[Flight Path: Crimson Route]


HUDの上で赤いラインが生き物のように走り、軌道を描き出す。

ルビルビの手の動き、シャフィナの歌詞、ドローンカメラの視点が同時に同期していた。

画面の端には 「LIVE FEED – STAGE A」 の文字が点滅する。


「ジン、集中だゲコ。」

ジェイコアの声が通信チャンネルに流れた。

「これはただのショー信号じゃないゲコ。タイミングが……完璧すぎるゲコ。」


ジンは操縦桿を強く握りしめた。

空と舞台の境界が消え、戦場全体がリズムに合わせて震える。

ルビルビの一つひとつの手の動きが、指令信号に変換されていく。


「これは……」

背筋を冷たいものが走った。

「演出だ。俺たちは戦ってるんじゃない……踊らされてるのか?」


[3… 2… 1… Launch]


出撃信号とともに、機体が発進トラックを疾走した。

赤い光が視界を飲み込み、すぐに軌道上の空が反転する。


その瞬間、モスナインのコーラスが爆発的に鳴り響いた。

「Crimson Parade――進撃せよ!!」


ルビルビの声は歌だった。

だが同時に、指揮命令でもあった。

その音声波形とジンの操縦入力が、完全に重なり合う。


[SYNC RATE 98.3% – Neural Resonance Active]


反乱軍陣営から複数のミサイルが発射された。

しかしDECGのドローンたちは、まるでリズムを刻むように一斉に動く。

ビートに合わせるかのように、次々とミサイルを回避していく。

爆発の瞬間すら、コーラスの拍にぴたりと合っていた。


ジンのHUDが激しく揺れる。

ルビルビのジェスチャー、シャフィナのハーモニー、そしてジン自身の操作信号――

それらがひとつの波形へと収束していく。


ジェイコアが低く呟いた。

「命令コードと歌詞が……完全に一致してるゲコ。

これは偶然じゃないゲコ。」


シャフィナの声が再び戦場を包んだ。

「Crimson Parade――ポジション維持、ハーモニーライン展開。」


ジンは言葉にならない感覚に飲み込まれた。

操縦ではない。演奏だ。

戦闘ではない。合奏だ。


彼の指先と心臓が、リズムに合わせて同じ鼓動を刻んでいた。


廃墟となった格納庫から、炎と煙が空へと噴き上がっていた。

反乱軍の古びた機体が数機、まだ動いていた。

外装は錆びつき、エンジンからは黒煙が立ちのぼる――それでも、彼らは空へ上がっていった。


「最後まで行くぞ! 俺たちがここにいたことを、見せてやれ!」

通信チャンネルで、反乱軍の叫びが響く。

その通信コードは、旧式の古いものだった。

信号は弱く、不安定だったが――そこに込められた感情は、

空を震わせるモスナインの歌声よりも、ずっと“人間的”だった。


彼らの声は震えていた。

だが、必死だった。

恐怖と覚悟が、一本の振動のように混ざり合っていた。


ジンのHUDが即座に反応する。

[HOSTILE TARGET DETECTED]

[ENGAGE PROTOCOL: ACTIVE]

赤いマーカーがひとつ、またひとつと表示され、反乱軍の機体が次々と標的に指定される。


だが、ジンはトリガーを引かなかった。


照準の向こうで、古びた機体の一つが揺れながら姿勢を整えていた。

エンジンの煙の中、コックピットのシルエットが見えた。

誰かが必死に機体を操縦している。

その動きは――どう見ても、「逃げようとしている」ように見えた。


本当に“敵”なのか?


攻撃意思のない相手を前に、ジンの指が止まった。

だがHUDは、無情に命令を続ける。

[ENGAGE TARGET / 3… 2…]


ジンの目には、ただ壊れていく機体の軌跡しか映っていなかった。

燃料も、支援も、通信も断たれたまま、

彼らは「誰かに見届けてほしい」という想いだけで、空へ突き進んでいた。


「ただ……生きようとしてるだけじゃないか。」

ヘルメットの中で、ジンの低い声がこぼれた。


ルビルビの声が再び轟く。

「♪ Parade—Burn the sky!」


その音楽に合わせて、DECGのドローンが一斉に炎を吐いた。

赤い空の歌と、黒い煙が交錯する。


一瞬、ジンは自分の視界が――まるでステージの照明のように閃くのを感じた。

彼はトリガーから手を離した。


[Pilot Input Delay Detected]

[Warning: Sync Ratio 72% ↓]


ジェイコアが隣で、尻尾でジンを叩くようなジェスチャーをした。

「ジン、命令が切れたゲコ! 早くシンクを合わせ直さないと――!」


だが、ジンは返事をしなかった。

反応も、なかった。


彼の視界には、ただ一つの光景だけが残っていた。


煙の中で――燃え上がる反乱軍の機体が、

ついに空を抜けられず、粉々に砕け散る瞬間。


そして、そのコックピットから最後に聞こえてきた、誰かの叫び。

「誰かが……生きなきゃ、だろ……!」


その声が消えた瞬間、ジンの心臓が一瞬止まった。


音楽は、まだ鳴り響いていた。

だが――もう彼には、それが“歌”には聞こえなかった。


モスナインのステージは、まさにクライマックスを迎えていた。

スクリーンに映る舞台は、眩しいほどの輝きに包まれている。

ルビルビの赤い衣の裾が回転し、光の軌跡を描く。

シャフィナのボーカルは氷のように澄みわたり、空気そのものを震わせた。


「秩序に逆らう波動は――必ず、消去される。」

その声は、合図だった。


DECGの戦艦から一斉砲撃が始まる。

――紅い閃光。

――音響砲塔の震動。

――そして空を裂く残響。


反乱軍の格納庫が紅蓮の炎に包まれた。

爆発の波動が空気を押し出し、ジンのHUDが揺らぐ。

だが、送信映像の中ではそれが“照明演出”として変換されていた。


ステージライトと砲撃の閃光が、同じ周波数で交差する。

ジンの背に寒気が走った。


「……これが、舞台なのか。」


吐息がヘルメットの内側を曇らせる。

HUDは戦場を二分して映し出していた。

左の画面にはライブ配信のステージ映像、右には実際の攻撃マップ。

しかし、その二つの映像は徐々に境界を失っていく。


砲撃の爆発はスポットライトのように炸裂し、

燃え落ちる機体の軌跡はレーザーショーの残光と重なった。

観客用中継画面には字幕が浮かぶ。


「Phase 3 – The Dawn of Order」


わずか10分で、戦闘はDECGの圧倒的勝利で終わった。

反乱軍の残存機体は墜落し、通信網は沈黙する。

だが――音楽は止まらなかった。

モスナインのステージは、なおも続いていた。


ステージスクリーンには《Victory Transmission》の文字が点滅する。

司令官の声が重なる。

「民衆は、我々がどんな敵と戦ったかを問わない。

覚えるのは、ただ“勝利”のイメージだけだ。」


その言葉が終わるより早く、シャフィナがステージの端へと歩み出た。

紅いライトの下で、彼女の影が爆撃の煙と重なり合う。

まるでカメラの向こうを見据えるように、彼女は顔を上げた。


「――私たちは守り抜く。私たちの未来を。」


その瞬間、ジンのHUDが再び揺れた。

カメラの赤い光が、燃え落ちた格納庫の残光と完全に重なっている。

そして、ジンは悟った。


彼らが守り抜いたのは――未来ではない。

この“ショー”の完成度だった。


ジンの耳は、まるで世界の音がすべてひとつに溶けたように、

歌と戦闘音が区別もなく混ざり合って響いていた。


爆発音とドラムが同じリズムを刻み、

ルビルビのコーラスが金属の衝突音の隙間をすり抜けていく。


機体の震動は、まだ止まらなかった。

エンジンはすでに停止しているのに、その振動は胸の奥深く――

いや、心臓よりさらに深い場所まで響いていた。


ジェイコアが警告音を鳴らす。

「ジン、ログを確認するゲコ。

公演の波形に、別の信号が隠れてるゲコ。」


HUDが閃光を放ち、無数の波形をスキャンする。

そしてその一瞬――隙間に、ひとつの言葉が浮かんだ。


「記憶。」


ジンは息を呑んだ。

「……記憶、だって?」


その瞬間、すべての音が消えたように思えた。

だが耳の奥では、まだかすかにルビルビの声が響いていた。


「――私たちは守り抜く。私たちの未来を。」


ジンは唇を噛みしめた。

「……これはただの戦闘じゃない。」


モニターに映る自分の瞳が、揺れている。

「……誰かが、俺に話しかけてる。」


機体の外では、すでに戦場の後処理が始まっていた。

DECGのドローンが残火を処理し、ライブ配信は終了信号とともに切断された。

だが、ジンの機体だけはまだ微かな震動を吸い込み続けていた。


彼はゆっくりと息を吸い込み、

肺に残った金属の匂いを吐き出した。


「……。」


歌は終わった。

ステージの映像も消えた。


それでも、彼の耳の奥では――

あのコーラスのように、歌と命令が反芻され続けていた。


機械音と心臓の鼓動の狭間に、

微かな女性の声が繰り返し囁く。


「――覚えて。」


ジェイコアが沈黙を破った。

「ジン、データログの整理完了だゲコ。

だけど、一部の記録が自動で削除されたゲコ。」


ジンは顔を上げた。

「……削除?」


「うん。システムログ上は、“外部アクセスなし”って出てるゲコ。」


彼はしばらく何も言わなかった。

モニターには、きれいに整理されたデータウィンドウだけが残っていた。


何も――残っていない。


「……誰が消した?」

彼は低く呟いた。

「……俺が見る前に。」



ジンは任務後、ようやく与えられた短い休息の時間に、

操縦席の椅子にもたれかかった。


機体の外から聞こえる金属の軋みと、低く唸るエンジンの音が耳の奥で反響していた。

だが疲労はすでに限界を超えており、まぶたは鉛のように重く、ゆっくりと閉じていった。


――深い闇の中へと沈んでいく。


そして、長く封じ込めていた記憶の断片が、再び浮かび上がった。


少年時代のジンが立っていた大地は、まるで巨大な呼吸のようにうねり、裂けていく。

地面全体が崩れ落ち、彼の身体はそのままシンクホールの深い闇へと吸い込まれた。


「危ない!」――誰かが叫んだが、もう遅かった。


宙に浮いた刹那、耳に響いた振動音が、大地と空を満たした。

それは単なる崩落音ではなかった。

まるで巨大な心臓が脈打つような――そんな波動だった。


その下にあったのは、ただの水ではなかった。

深く、蛍光のように輝く液体が、波のように押し寄せてくる。


光は青く、触感は赤かった。

冷たいのに、なぜか温かい。

その中には、心臓の鼓動のように規則的な振動があった。


――ドクン、ドクン、ドクン。

――“私たちは待っている。”


その声は、波動の中で響いた。

耳で聞くというより、脳の奥のどこかが直接震えていた。


それが男の声なのか、女の声なのか、

ひとりなのか、複数なのか――区別もつかなかった。


ジンは身体をねじり、視線をそらそうとしたが、

夢の中の視界はぼやけ、意識はゆっくりと遠のいていく。


必死にもがく彼の身体は、しかし液体の中で――息ができた。

酸素のないはずの空間で、肺が柔らかく開き、

空気ではなく、“光”を吸い込むような感覚。


そのとき――誰かの手が、彼の肩に触れた。


――白い光。


反射的に振り返ると、白衣の裾が波のように揺れていた。

その姿はぼんやりとしていて、輪郭も曖昧だったが、

彼女は小さなペンダントを彼の手に握らせた。


それは古びたコンパスだった。

だが、その針は北を指していなかった。

この世に存在しない、未知の方向をただ一つ――

何度でも、何度でも指し続けていた。


周囲の人々――研究者だったのか、大人たちだったのか――が口々に言う。

「壊れてるよ。方向を失ってる。」


しかし、白衣を着た母は静かに首を振り、優しく囁いた。

「これはね……いつだって“宝物”を指しているのよ。」


その声は、あまりにも温かかった。

ジンはその声を、離したくなかった。


手を伸ばし、声に触れようとした瞬間――

光の水面に、ひびが走った。


――“目を覚ましなさい。”


泣き声のように掠れた声が響いた。

そして、夢は波に砕けたガラスのように、粉々に散った。


目を覚ました瞬間、ジンの手は反射的に自分の首を探っていた。

目はまだ完全に開かず、呼吸も浅い。

だが指先は、確かに“何か”を探していた。


首には、ペンダントなど掛かっていない。

だが、肌をかすめる感触はあまりにも鮮明だった。


冷たい金属の温もり。

夢の中で握りしめていたコンパスの重みが――まだ、そこにあった。


「…………。」


ジンは、ゆっくりと息を吐き出した。

ジンは無意識のうちに右手を上げ、胸をぎゅっと押さえた。

心臓が不規則に脈打ち、まだどこかであの“鼓動”が続いているようだった。


呼吸を整えようとした瞬間、猫の姿をしたジェイコアのホログラムが隣に浮かび上がった。

「ジン、大丈夫ゲコ? 顔が真っ白ゲコ。」


ジンはすぐには答えず、指先をゆっくりと見つめた。

濡れているわけではないのに、確かに“感触”が残っていた。

彼は低く呟いた。


「……まだ、残ってる。」


ジンは一度目を閉じ、かすかに答えた。

「……夢を見たんだ。」


その声は乾いていたが、吐息にはわずかな震えがあった。


機体の内部は静まり返っていた。

だが、耳の奥ではまだ蛍光色の液体が波打つ音が聞こえるようだった。


彼はゆっくりと手を下ろし、呟く。

「……これは、ただの夢じゃない。」


HUDの生体モニターが不安定に点滅する。

心拍数のグラフが急上昇したかと思えば、ゆっくりと安定域へと戻っていく。


ジェイコアが静かに告げた。

「ジン、ログに残響信号が残ってるゲコ。

夢の中で“記憶波形”の一部が活性化したみたいゲコ。」


まだ夢の余韻に囚われているジンは、何も答えなかった。

ただ、首筋に触れた手をそっと握っては開いた。


そこには――何もなかった。


それでも、彼は確かに“何か”を掴んでいた。



「これが幻覚なら……どうしてこんなにもリアルなんだ?

……俺は、本当に“普通の人間”なのか?」


外部スピーカーからは、まだDECGの宣伝放送が流れていた。

「今日もDECGは市民の安全を守りました! 偉大な英雄たちに拍手を——!」


しかし、ジンの瞳はもうその方向を見ていなかった。

彼の内側に生まれた“ひび”は、もはや塞ぐことができないほど深く裂けていた。


廊下の向こうから、他の部隊員たちの会話が聞こえてきた。

二人組の兵士が並んで歩きながら、今回の作戦を「いつものルーティンさ」と笑っていた。


「結局、DECGが全部台本を作ってんだろ? 俺たちは動くだけでいい。」


その言葉に、ジンの足が止まった。

彼は無意識のうちに呟いた。


「……ショーなんかじゃない。あれは、信号だった。」


仲間たちは同時に振り向いた。

「今なんて? またあの“科学キャンプの幻覚”の話か?」

冗談めかした口調だったが、その目にはわずかな警戒が滲んでいた。


ジンは返す言葉を見つけられず、そのまま廊下の奥へ歩き出した。

背後から、「なあ、あいつ最近ちょっとおかしくないか?」という囁きが聞こえた。


反対側の角に立っていたスカルが足を止めた。

「……あいつ、今なんて言った?」


後ろからぶつかりそうになったクリムゾンが、前方の会話を聞いたらしく舌打ちした。

「また変なこと言い出したな……。」


通りかかった兵士たちは二人の姿に気づいて慌てて敬礼したが、

スカルは一瞥もせず、無言のまま歩き出した。



休憩室。

ジンは一人で壁際の送信機から流れる微かなノイズを聞いていた。

ただの通信雑音のはずだった。

だが、その中に――かすかに重なる“声”があった。


「……我々は、待っている……」


破片のような音声が、鼓膜を貫いた。

両手で耳を塞いでも、心臓の鼓動が送信機のリズムと同期している錯覚から逃れられなかった。


ジンは震える手で記録装置を取り出し、いくつかの単語を打ち込んだ。

「蛍光液体/振動/メッセージ/コンパス」


その瞬間、彼は無意識のうちに首から下げた小さなペンダントを握りしめた。

銀色のフレームの中に収められた古いコンパス――

その針は、いつも同じ方向を指していた。


大人たちは笑いながら「壊れてるだけさ」と言っていた。

だが、白衣を着た“顔の思い出せない母”だけは違っていた。


「これはね、いつだって“宝物”を指しているのよ。」


その声が――まるで残響のように、再び心の奥で響いた。



戦場は再び開かれた。

黒い空と赤い閃光が交錯し、無数の機体が軌跡を描いてすれ違う。

ジンは反射的に操縦桿を握りしめたが、頭の中では先ほど記録装置に残した言葉が延々と渦を巻いていた。


蛍光液体、振動、メッセージ、コンパス。

それらは単なる幻覚ではなく、まるでパズルの欠片のように彼の意識へと集まっていく。


そして——歌。


送信チャンネルのどこかから、微かな旋律が重なってきた。

モスナインのステージ中継と同じ波長、

だがその中には、説明のつかない異質な震えが潜んでいた。


ジンは静かに息を整え、視界を定めた。

「……これは、次に必ず確かめなきゃ。」


機体が急降下し、戦場へ突入する。

仲間たちの声が通信に溢れたが、ジンは答えなかった。

彼の中では、すでに別のリズムが鳴っていた。


夢と記憶、そして歌が生んだ“ひび割れ”。

それがどこへ導くのか、まだ分からなかった。


だが、ひとつだけ確かなことがある。


「……俺は、普通の人間じゃない。」


その確信が、初めてジンの唇からはっきりと言葉になった。


♪♪♪


モスナインとクソヤロ部隊の共同任務が終わっても、

都市の空はまだ、あの公演の余韻を残すように赤く染まっていた。


ルビルビは先ほどの戦場を思い返しながら、無表情でフライトスーツのジッパーを引き上げた。

シャフィナは何も言わず、その隣を静かに通り過ぎる。


「ルビルビ。」


DECGの幹部の声が、全館スピーカーを通して響いた。

「作戦中の予期せぬ行動、報告を受けた。」


「演出の一部です。」

ルビルビは短く答えた。


「……その“演出”のおかげで共鳴値が上昇したのは事実だ。

だが上層部は、それを“制御不能な要素”として分類した。」


「感情じゃありません。科学です。」


「感情のように“見せかける”実験、というわけか。」


幹部はため息をついた。

「その実験が成功していることを祈る。DECGは“結果”しか信じない。」


通信が切れ、ルビルビとシャフィナはそれぞれの整備区へと散った。

照明の落ちた廊下には、冷却剤の匂いを帯びた金属の空気だけが残った。



ルビルビは、今では自室のように感じる診療室の扉を開けた。

そこには、淡い紫の髪をゆるく束ねた女医——ビオレッタが待っていた。

白衣に刺繍されたDECGのロゴが冷たい照明を反射して光る。


「……本当に、やったのね。」


ビオレッタが椅子に座るルビルビを見つめた。

ルビルビは小さく息を吐く。


「あなたが言ったでしょ。血清の“主成分”はジンだって。」


「そう。でも、直接確かめるとは思わなかった。

危険なやり方だったわね。」


ビオレッタはモニターを起動し、ルビルビの生体データを表示させた。

二つのグラフが重なっていた。

ひとつはルビルビのもの、もうひとつはジンのもの。


二つの波形は、完全に一致していた。


「……効果はあったわ。」

ルビルビが静かに言った。


「錠剤を使わなくても、彼の体から分離された成分だけで。

私の神経電位が安定したの。

あれは単なるホルモン反応じゃない。」


モニターを見つめていたビオレッタが顔を上げ、微笑んだ。

「つまり、証明されたのね。

ルビルビが摂取していた血清は——“彼”から作られていた。」


「あなたが言ってたわよね。

これは生命工学じゃなくて、“共鳴学(レゾノロジー)”だって。」


ビオレッタは椅子の背にもたれ、ゆっくりと頷いた。

「そう。

そして、ジンはその“共鳴”の中心体。

あなたが感じた安定、それは薬効じゃなく、“信号”よ。」


予想もしなかった言葉に、ルビルビの瞳が揺れた。

「……信号?」


「彼は送信体。あなたは受信体。

そして今——あなたは“彼と同じ周波数”に同調している。」


ビオレッタは少し沈黙し、低く囁いた。

「ルビルビ。あなたはもう、完全にDECGの管理下にはいない。

それは感情じゃなく、“動機”よ。」


無意識に機械の心臓のあたりを押さえていたルビルビは、指先を強く握りしめた。

「……私のしたことが、感情じゃなかったって言うの?」


ビオレッタは期待していた答えを聞いたかのように、くすっと笑った。

「それを自覚できるなら——あなたは本当に“普通の人間”って言えるかしら?」


そう言って彼女は立ち上がり、白衣の裾を翻して出口へ向かった。

「気をつけなさい、ルビルビ。

“感情”は、DECGにとって“エラー”とみなされるの。」


扉が閉まり、診療室には静寂が戻った。

ルビルビは、ビオレッタが見ていたモニターに目を向けた。


そこには、重なり合う波形の端に——

ジンの名ではなく、一つのコードが残されていた。


[RESO-R]


ルビルビはその文字を指先でなぞりながら、かすかに呟いた。


「R……わたしの中で響く名前。」


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