「9話 – 歌詞で伝える言葉」
訓練場は、いつも完璧な温度に保たれていた。
二十三度、湿度四十一パーセント、風はゼロ。
その数値は、DECGが無数の実験と統計の果てに導き出した
「作戦効率の最適解」――
まるで神の公式のように扱われていた。
ジンはトラックを走っていた。
灰色のラインが視界の端を流れ、
足音は正確にリズムを刻む。
まるで譜面の上に置かれたメトロノーム。
床下センサーが踵の圧を読み取り、
壁面モニターが心拍、筋肉、体温をリアルタイムで転送する。
【9486、心拍数88。安定状態。】
無機質な音声が、いつものトーンで報告した。
それはもう「声」ではなかった。
ただ、生を模倣するための規則的な波。
ジンは分かっていた。
そのリズムは、“生きている鼓動”ではなく、
システムが生み出した“正確すぎる拍”だということを。
彼は無意識に数を数える。
トン、トン、トン――。
その合間に、金属質の微かな揺らぎが混じっていた。
『……聞こえる。』
最初は幻聴だと思った。
だが、その“音”はもう一週間も繰り返されている。
機械のノイズのようで、人の声のようでもある波。
今日、その周波数の根が、確かに掴めた。
【心拍パターン一定。人間にしては完璧すぎるケロ。】
右耳の中で、いつもの声が跳ねた。
「褒めてるのか、けなしてるのか。」
【どっちもだケロ。機械みたいってことは、効率的って意味だケロ。】
「なら、お前と同じってことだな。」
【ボクは猫だケロ。効率は美徳、かわいさはオプションだケロ。】
ジンは思わず笑った。
「その“オプション”が厄介なんだ。」
何周か走り続ける。
トラックのラインがまた視界を横切るたび、
微妙に景色が揺れた。
息は乱れていないのに、
心臓だけが妙に重かった。
J-COREの声は、耳ではなく胸の奥で響いていた。
歌なのか、データなのか――判別のつかない波。
足の裏を伝う振動が、
まるでスピーカーの振動板のように
皮膚の下まで響いてくる。
訓練トラックを外れ、ジンは停止ボタンを押した。
モニターに“PERFECT SYNC”の文字が浮かぶ。
まるで称賛ではなく、警告のように見えた。
【君とボクのリズムが完全に一致したケロロ。でも、それは少し奇妙だケロ。】
「奇妙?」
【君の心臓は人間のものなのに、反応が人工的なんだケロ。】
ジンは答えず、ゆっくりと息を吸った。
肺の奥を満たす空気が、金属の匂いを帯びて冷たく感じた。
――それは、昔嗅いだ実験室の匂い。
指先で壁に触れる。
ひんやりと滑らかで、人間の空間というより装置の内側。
脈が指先で跳ね、HUDにJ-COREのアイコンが点滅した。
【ジン、君の身体が環境に“同調”してるケロ。
データ化された空間で、データみたいに動く心臓――それが今の状態だケロ。】
「同調……ってことは、オレの身体も装置の一部なのか?」
【すべての兵士はシステムに接続されたノードだケロ。
でも君は少し違う。数値が、綺麗すぎるケロ。】
ジンは黙った。
頭の奥に、幼い頃――
沈んだシンクホールの記憶が蘇った。
あのときも、機械音が波のように滲み、
彼は“何か”に繋がっていた。
遠くの壁面スクリーンを見た。
そこでは他の訓練生たちが走っていた。
顔はみな似ていて、歩幅は完璧に揃っている。
誰かは笑っているようで、
誰かは泣いているように見えた。
でも実際は――ただの筋肉の微細な痙攣だった。
『これは軍隊じゃない。工場だ。』
そう呟いた瞬間、耳に波が触れた。
トン、トン――心臓と微妙にずれたビート。
ノイズではない。
確かに“何か”が歌っている。
【ジン、今も聞こえるケロ? 君の心臓の上に重なる、もう一つの鼓動。】
「聞こえる。でも……どうして、どんどん鮮明になる?」
【誰かが送信してるケロ。君の感覚が、それを翻訳してるケロ。】
ジンは顔を上げた。
スピーカーなんてどこにもないのに、
確かにこの空間に“音”が侵入していた。
彼はトラックを離れ、廊下の奥へ歩き出した。
照明が順に点いては消え、
リズムのように道を示す。
その点滅の中で、また拍を数える。
トン、トン、トン――トン。
ほんの少し遅れて、
まるでメッセージのように刻まれる鼓動。
【ジン、君の心臓はもう“歌”を聴いてるケロ。
システムは数値しか見ないけど、君は“音”を聴いてるケロ。】
ジンは息を吐き、
低く呟いた。
「……じゃあ、オレはいったい何を聴いてるんだ?」
その瞬間、壁のパネルがわずかに震えた。
電流が弾け、空気が歪む。
ジンは立ち止まり、
胸の奥で何かが始まる音を聞いた。
――心臓は、もう自分の拍ではなかった。
どこかから流れ込むリズムで、動いていた。
♪
食堂も、訓練場と同じように整然としていた。
灰色のトレイ、無味のタンパクブロック、無臭の栄養剤。
“食事”というより、“補給作業”だった。
噛むたびに、歯の奥で金属の音が小さく跳ねた。
味は存在せず、時間だけが消費されていく。
誰かのトレイがぶつかる音も、
一定のリズムで響く。
【9486、摂取完了。記録。】
隣の兵士がそう報告した。
ジンはスプーンを止め、小さく呟く。
「……まるで、全員ロボットみたいだ。」
【気のせいだケロ。】
耳の奥に、柔らかい電子音が混じる。
けれどジンは首を横に振った。
「違う。リズムがない。
まるで、音楽が死んだ世界みたいだ。」
スプーンをテーブルに置く。
金属がぶつかる乾いた音が、
食堂の空気を冷たく揺らした。
――それは、生活音ではなかった。
巨大な装置が動く駆動音。
【音楽は“隙間”から生まれるケロ。
ルビルビが、そう言ってたケロ。】
J-COREがぼそりと呟いた。
「……彼女の話は、もういい。」
ジンはトレイを押しやり、立ち上がる。
だがJ-COREはしつこく食い下がる。
【君、まだ覚えてるケロ。
あの波形。
“Heart・Dream・Root”――三つのパルスを。】
ジンは一拍遅れて歩みを止めた。
「それは……ただの歌詞だ。」
【本当に?ケロ?】
答えはなかった。
ただ、胸の奥でまた “トン、トン、トン――トン”
あの微妙にずれたビートが響く。
同僚たちの足音とずれたリズム。
空気の隙間をすり抜けて、
まるで彼一人にだけ届くように。
夜。
宿舎は、まるで冷えた箱のようだった。
壁の金属パネルは昼の熱を完全に失い、
光は部屋の角を辛うじて照らしている。
外が昼なのか夜なのかも分からない。
窓のない四角い部屋。
ジンはベッドの端に腰を下ろし、
端末を開いた。
自然と指が一つのファイルを選んでいた。
――ルビルビの最新ステージ映像。
眩しい照明の下、
彼女は完璧な笑顔で歌っていた。
数百の観客――いや、兵士たち。
整列したまま無表情で立ち、
その様子は“コンサート”というより
“実験”のようだった。
観客ではなく、受信機。
彼らの瞳はステージではなく、
背後の巨大スクリーンを見ていた。
拍手も、呼吸も、同じ。
だが、彼女だけが違う光を放っていた。
ジンはイヤフォンを差し込んだ。
歌詞は、知っている。
なのに、今回は違った。
――聞こえなかった単語が、引っかかった。
「Heart、Dream、Root。」
三つの言葉が、正確な間隔で繰り返される。
それはただのサビではなく、
まるでプログラムのループ。
『……本当に偶然か?』
HUDを接続し、波形解析モードを起動。
音のグラフがスクリーンに広がる。
特定の区間で、波形が歪んでいた。
まるで――何かが“隠されている”ように。
【一致率72%。
君の共鳴波形と、ほぼ同じだケロ。】
J-COREの報告が落ちた。
ジンはモニターを見つめながら低く呟いた。
「……共鳴波形、つまり“Heart Sync”か。」
【正解だケロ。
ルビルビが歌で送信したコード。
受信者は――君の心臓だケロ。】
HUDに、虹色のグラフが浮かび上がる。
歌の音節とジンの心拍が重なり、
ひとつの“絵”を描いていく。
ジンはスクリーンを見つめた。
ルビルビの笑顔の裏で、
確かに“何か”が震えていた。
光の中で微笑む彼女。
でも、その口角の奥に、
必死な祈りが隠れていた。
――「舞台の上でしか、真実は語れないの。」
かつてのインタビュー。
今なら分かる、それは比喩ではなく“暗号”だった。
「……歌がコードなら、ステージは通信か。」
【その通りケロ。
歌詞は暗号。
拍は座標。
音色は信号だケロ。】
ジンは小さく笑った。
「じゃあ、なぜ俺なんだ?」
【君だけが、その共鳴周波数を“聴ける”ケロ。】
「……運命的だな。」
【DECGはそれを“Root Program”と呼んでるケロ。
Root9――】
「Root9?」
【まってケロ、受信途切れる――干渉発生ケロ!】
通信が一瞬乱れ、
J-COREのアイコンがHUD上で揺らぐ。
ジンは音量を上げた。
そのとき、画面の中でルビルビが口を動かした。
――「心臓が冷める前に……伝えて。」
ジンの胸が、ドクン、と跳ねた。
その一文は、スピーカーではなく、
彼自身の“内側”から響いてきた。
HUDのグラフが急速に収束し、
座標のような点が浮かび上がる。
息を呑む。
もう、それは“歌”ではなかった。
――“メッセージ”だった。
【ジン、今の座標値。
DECGの海上拠点コードと一致ケロ。】
モニターに視線を向け、彼は低く呟く。
「……彼女は、歌の中で俺に“場所”を教えてる。」
映像は止まらない。
ルビルビは笑顔のまま、歌い続けていた。
だがジンは知っている。
その笑顔の意味を。
――“送信中”のサイン。
受信者は、ただ一人。
ジン。
彼は拳を握った。
胸の奥で、再び心臓が跳ねる。
J-COREの尻尾型アイコンが、
HUDの端で光を弾いた。
【ジン、その波形は警告ケロ。
Root9が発動すれば、モスナインはもう自由じゃなくなるケロ。】
ジンはスクリーンの彼女に向かって、静かに言った。
「……受け取った。君の信号。」
♪
訓練機シミュレーター。
閉じ込められたコックピットの空気は、
金属と消毒薬の匂いが混じり合っていた。
吸い込むたびに、肺の奥まで冷たく刺さる。
操縦桿の感触は硬質で、
HUDの光が瞳の奥で冷ややかに瞬いた。
その光は、心拍を測るメトロノームみたいに
一定の間隔でジンの鼓動を追ってくる。
【ジン、Foldチャンネルが不安定だケロ。
何かに干渉されてるケロ。】
J-COREの声が響く。
それは小さな猫型ホログラムの音なのに、
今は訓練教官のように鋭く聞こえた。
「なら、確かめに行くしかないな。」
ジンは操縦桿を握り、短く答えた。
シミュレーションが始まると、
空気そのものが波のように歪んだ。
砂色のドームが崩れ、
そこに広がったのは――星のない宇宙。
まだ敵影はない。
だが、先に聞こえてきたのは“音”だった。
――『Heart Sync』
静かに始まったその旋律が、
少しずつ脳の奥を震わせる。
低音が機体のフレームを伝い、
高音がHUDを光の波で塗りつぶす。
歌詞が流れるたび、
HUDの波形が応答して跳ね上がる。
心臓の鼓動と歌の波が、
重なり合っていく。
心臓が育つ夢を見たの
設計図もないままに
「……心臓が育つ夢。」
ジンは呟いた。
「この歌、聞き覚えがある。」
【ルビルビとシャフィナの送信テスト曲。
君の共鳴波形が、そこに埋め込まれてるケロ。】
J-COREの声が胸の奥で鳴る。
ジンは目を閉じた。
歌の拍と、自分の鼓動が
ひとつに融け合っていく。
――手よりも先に、機体が動いた。
まるで意志を持つように、
コクピットがジンの“心音”で回転する。
最初のドローンが出現した。
トリガーを引く。
光が閃き、爆音が無音に変わる。
【Target Down – 1】
HUDに散った星型の残光が消える。
だが音楽は止まらなかった。
――Heart, Dream, Root.
三つの単語が繰り返されるたび、
HUD内の線が虹色に編み込まれていく。
やがて、それは一つの“形”を描いた。
「……これは、訓練じゃない。」
ジンは確信した。
「メッセージだ。」
【DECGには分からないケロ。
ルビルビが残した“経路”だケロ。】
J-COREの声が低く震える。
「座標か……。」
波形が細く震え、文字が浮かぶ。
『R』――わたしのはじまり。
ジンはその文字をそっと口にした。
「……R。」
その瞬間、機体の空気が共鳴して揺れた。
【それ、ルビルビの署名ケロ。】
「違う。あれは……彼女の心臓そのものだ。」
【なら、君の心臓は受信機だケロ。】
J-COREの音声がわずかに震えた。
HUDがさらに文字を描き出す。
Seed Code : R
ここは星の深く
光さえ届かない場所
音も、色も、名前もない
それでも夢を見ていた
胸が締めつけられた。
ジンは、ただその震えを感じていた。
まるで――研究所で目覚めた子供が、
自分の心臓がまだ動いていることを確かめるように。
「……この歌、俺の記憶と重なる。」
【心拍上昇。
でも恐怖ではないケロ。
これは“共鳴”ケロ。】
J-COREの声が静かに囁いた。
感情ひとつで咲いた花
設計図も、名前も、いらなかった
ドローン群が、HUDの中で“点”に見えた。
その配置、速度、軌跡――
すべてが音符のように繋がっていく。
ジンは目を閉じた。
トン、トン、トン。
心臓が、まるでドラムのように鳴る。
開眼。
操縦桿を軽く傾ける。
機体が滑らかに円を描く。
それはまるで、
二つの楽器が即興でハーモニーを奏でているようだった。
歌と機体。
心臓とHUD。
すべてが一つの旋律になっていた。
「……なら、俺たちは“歌で繋がれた回路”ってことか。」
J-COREは少し黙り、
小さく笑ったように言った。
【その言い方、ちょっとロマンチックだケロ。】
訓練終了。
【適応率94%。記録保存。】
光が消え、
金属の檻のようだった空気が、ようやく解ける。
ジンはヘルメットを外し、
小さく呟いた。
「もしこれが実戦なら……
俺は歌に操られてたな。」
【違うケロ。君が操ったんだケロ。
歌はただの“言葉”。】
「……でも、その言葉が俺を動かした。」
【それこそ証拠ケロ。
人の心臓は、命令より強い。】
HUDに、まだ微かに残光が漂っていた。
『R』――わたしの本当の名前を。
訓練のあと、ジンはまっすぐ宿舎に戻った。
夜と昼の境界がない部屋。
金属の壁が冷えきっていて、
空気は乾いて、まるで“無音の牢獄”。
眠気は来なかった。
ランニングの振動がまだ脚に残り、
胸の奥では、さっき聞いた歌の拍が――
トン、トン、トン――と鳴り続けていた。
ジンは端末を開く。
画面には、自動的に再生されるルビルビのステージ。
彼女の笑顔は、完璧だった。
だが、その笑顔が、あまりにも悲しかった。
照明の熱、観客の歓声、
すべてが“演出”に見える。
輝くステージの下には、
誰も知らない冷たいコードが流れていた。
ジンは映像を一時停止し、
波形解析を起動した。
音のグラフが、ゆらゆらと震える。
その隙間に、微細な変調信号。
まるで数字が、メロディに溶けて隠れているようだった。
――北緯17度、東経146度。
座標だ。
【ジン、それ……DECGの海上中継拠点ケロ。
民間アクセス禁止エリアケロ。】
J-COREの声が、いつもより低く響いた。
「じゃあ、次の“ステージ”はそこか。」
【もしくは……彼女の牢獄。】
ジンは短く笑った。
「どっちでもいい。行かなきゃならない。」
【それ、命令違反ケロ。】
「命令は機械の言葉だ。俺は人間だ。」
一瞬、静寂。
そのあとで、J-COREが小さく囁いた。
【……なら、ボクが証人になるケロ。】
「いいだろ。――一緒に来い。」
♪
医務室は、あまりに“綺麗すぎた”。
壁は銀色のパネル、
匂いは消毒薬、
空気にはわずかな鉄の味。
――子どもの頃の病室と同じ匂い。
ジンは腕を差し出した。
ドローンが静かに固定し、針が皮膚を刺す。
血液がチューブを流れ、
機械音がテンポを刻む。
それは、電子ドラムのように一定のビートを持っていた。
目を閉じる。
脳裏で赤い波が閃く。
白い部屋、心電図の音。
幼い自分が、ベッドの上で“何かの歌”を聞いていた記憶。
――その声は、たしかにルビルビに似ていた。
「血清濃度、安定。」
「次の段階へ。」
冷たい声が響く。
ぱち、と。
視界の端で電流が弾けた。
壁のパネルがゆらりと歪み、
波のように揺れる。
モニターのグラフが、心電図から“音楽波形”へと変わる。
【Heart Sync ― アクティブ。】
J-COREの声がかすかに震えた。
【ジン、君の血が“歌ってる”ケロ。
リズムがデータに変換されてるケロ。】
ジンは手の甲を見つめた。
注射針の周囲で、小さな光点が瞬いている。
まるで血の粒子が拍に合わせて“輝いている”みたいだった。
「……じゃあ、俺の身体そのものが、送信機ってことか。」
【いやケロ。君は――“楽器”そのもの。】
ジンはふっと笑った。
「なら、演奏が終わるまで止まれないな。」
深く息を吸う。
「その先で、真実を聞かせてもらう。」
【了解ケロ。
歌の終わりは、メッセージの終わり。】
ジンは天井を見上げた。
銀のパネルが、星座のように瞬く。
その光の狭間から、
ルビルビの声が重なった気がした。
――彼女が残した座標。
――彼女が隠したコード。
――彼女の心臓が放つ信号。
すべてが、彼の血管を流れていく。
『もう、俺はただの兵士じゃない。』
――“俺は、音だ。”
心の中で、そう呟いた。
基地の灯りが、ひとつ、またひとつと落ちていく。
そのリズムは、まるで疲れた心臓の鼓動。
暗闇の中、
ジンの前に残ったのは、端末の小さな光。
画面の中で、ルビルビが笑っていた。
光沢のある床、紅い照明、
計算されたカメラワーク。
完璧なステージ。
けれど、彼の目には――ショウウィンドウの中の絶望に見えた。
ジンは端末をミュートにする。
だが、音は止まらなかった。
ルビルビの声が、彼の中で再生される。
心臓が冷める前に――伝えて。
その一行が、
どんな機械音よりも鮮やかに響いた。
ジンは唇で、その言葉をなぞる。
「……受け取った。君の信号。」
その声は、囁きのように小さかった。
でも確かに、
世界のどこかへ届いていた。
♪♪♪
DECG本部は、いつだって眩しいほどに輝いていた。
けれど、その光は太陽のものじゃない。
電力の流れとデジタルの波形が生み出した、人工の白。
まるで生きているようで、実際には完璧に計算された輝度だった。
“舞台の女神”と呼ばれるルビルビにとって、その光は息をするようなものだった。
彼女の存在そのものが、照明に合わせて設計されている。
角度、色温度、影の濃さ。
そのすべてが“完璧”という一語のために作られていた。
光は彼女のためにあり、
彼女は光の中で、完璧に笑う方法を知っていた。
――でも、その日の光は少しだけ違っていた。
やけに眩しく、目に痛かった。
照明の色温度はいつも通りなのに、
空気だけがどこか、不安定だった。
リハーサルが終わった舞台は、静かで、重たかった。
観客がいなければ、照明はただの電流の残響。
歓声がなければ、スピーカーの響きは空気に砕けるだけ。
機械たちはまだ動いている。
でも、ルビルビにはそれが、ただの雑音にしか聞こえなかった。
舞台の中央に立つ彼女を、光がまだ照らしている。
それでももう、中心に立っている気はしなかった。
手の中にはマイク。
床を這うケーブルは、まるで心臓の静脈。
細く脈を打つように震えていた。
「今日も完璧でしたよ、ルビルビ。」
舞台裏からスタッフの声。
聞き慣れた、毎日の挨拶。
“完璧”――その言葉は、彼女の名前と同じくらい当たり前だった。
ルビルビはゆっくりと顔を向けた。
その瞳は、まだ照明の中に沈んでいる。
「ありがとう。」
そう答える声は、完璧に整えられていた。
口角を十五度上げ、目元を柔らかく。
訓練された笑み。
けれど、その角度は少しずつ薄れていく。
笑うたびに、心のどこかで“何か”が割れていく。
「今日も完璧でした。」
その言葉が、反響のように頭の中で響いた。
――今日も、完璧でした。
初めてだった。
“完璧”という言葉が、こんなにも重たく感じたのは。
ルビルビはマイクを見下ろした。
指先が微かに震える。
金属の表面に映る自分の顔は、ゆがんでいた。
照明の中で笑っているはずのその目が、泣いていた。
“落とす? それとも歌い続ける?”
プログラムされたルビルビなら、
いつも“次の曲”を歌う。
でも今の彼女には、どんな曲も浮かばなかった。
頭の中はただの静寂。
そして、ゆっくりと指を開いた。
カチャン――。
金属の音が静かに響く。
マイクが床に落ち、ケーブルが蛇のようにうねった。
その音は、まるで心臓の最後の鼓動みたいだった。
照明はまだ彼女を照らしている。
けれど、その光はもう温かくなかった。
ルビルビは目を細める。
眩しすぎた。
涙ではなく、光の残響が視界を覆っていく。
ゆっくりと息を吸い、囁くように言った。
「……これは、歌じゃない。」
その声がモニターに記録され、
ログファイルが自動で生成された。
O₂_not_included_demo
彼女は顔を上げた。
誰もいない客席。
静かな舞台。
まだ消えない光。
すべてが“完璧”だった。
――ただ、その完璧の中心にいる自分だけが、一番不完全だった。
ルビルビはそっと目を閉じた。
そして、心の中で歌った。
「伝えたい話は、決して言えない。」
照明が落ちると、舞台は金属の匂いを取り戻した。
さっきまで熱を帯びていた空気が、一瞬で冷えていく。
銀色の床に残った温もりが、ゆっくりと沈んでいくのがわかった。
かつて眩しく輝いていたその場所は、
今はまるで機械の亡骸みたいに、静かに息を止めていた。
ルビルビはゆっくりと立ち上がり、スタンドの裏へと歩いた。
そこはいつも暗くて、冷却ファンの低い音だけが響いている。
光の届かないその場所を、彼女は“舞台の裏”と呼んでいた。
――そしてそこは、彼女が世界でいちばん好きな場所だった。
ステージの上では、いつも“ルビルビ”だった。
完璧な角度で笑い、定められたテンポで歌う人形。
だが、ここでは違う。
ここでは“ルビルビ”じゃなく、**“わたし”**でいられた。
壁には古いギターが一本。
DECG製の最新機材に囲まれた中で、
それだけが“手で触れられるもの”だった。
誰も使わない。
弦は二本、切れたまま。
それでも彼女は捨てられなかった。
指先でそっと触れる。
ほこりがふわりと舞い、
残った光が粒のように散った。
その粒が空中で揺れながら、
まるで星屑みたいに瞬いていた。
ルビルビはしばらく、その景色を見つめた。
――まるで、どこかで眠っていた歌が目を覚ますように。
“今日だけは……少しだけ、本音でいよう。”
彼女はそう思い、
小さな椅子に腰を下ろした。
金属の脚が床を擦り、
キィ、と乾いた音がした。
指先が弦を軽くなぞる。
一音、二音。
柔らかいコードが空気を震わせた。
その瞬間、誰もいないスタジオが、
まるで小さな星の中みたいに、光を放った。
「ナナナ……ナナナナ……」
彼女は小さく口ずさむ。
それは旋律というより、ため息の形をした声。
歌詞もなく、ただ心が流れ出る音。
弦が鳴るたび、
その振動が指先から腕へ、そして胸の奥へと染み込んでいった。
「……誰もいない夜。久しぶりだね。」
唇が、知らぬ間に動いていた。
そして言葉が、ゆっくりと歌へと変わっていく。
その歌詞は、最初から最後まで“誰か”に向けられていた。
けれど――名前は、口にできなかった。
名前を呼んだ瞬間、
すべてが壊れてしまいそうで。
「……あの人は、今どこにいるんだろう。」
彼女の声が、かすかに空気を震わせた。
無人の録音機が、反応して赤い点を灯す。
Record:伝えたい話は決して言えない_demo
ルビルビは手を止めた。
「だめ……これは、公開用じゃない。」
録音ボタンを見つめながら、
指を下ろせなかった。
震える指先。
けれど歌はもう、喉の奥から零れ始めていた。
私が笑うたびに それが本音じゃないと…
小さな音が、部屋の隅々に染み込んでいく。
吸音パネルが声を飲み込んでも、
その残響は消えなかった。
彼女の歌は、空気の中で震えていた。
まるで古いラジオの周波数のように。
「『近づかないで』と言った言葉は、本当は嘘だったの。」
彼女は小さく笑う。
「……こんな歌、ステージじゃ歌えないね。」
ギターの響きは次第に弱まり、
その上に、彼女の声だけが重なっていく。
静かな波紋。
呼吸の終わりに生まれた小さな震え。
それが、本当の“感情”の形だった。
ルビルビは最後のコードを押さえた。
これは君を想って歌った歌だけど、
君に知られない方がいい。
彼女の瞳が揺れる。
唇が震え、最後の一言が零れた。
それが……わたしなんだ。
歌が終わると、スタジオは再び静寂に包まれた。
ギターの弦が微かに震え、やがて止まる。
録音機だけが、低いノイズを吐きながら回転していた。
彼女は静かに息を吐く。
その小さなため息が、マイクを震わせ、波形として記録された。
しばらくして、彼女は手を伸ばし、録音を止めた。
ファイル名が自動で保存される。
伝えたい話は決して言えない_demo.mp3
彼女はそのファイルを見つめ、
そっと名前を変えた。
R_HeartSync_not_send.mp3
微笑んだ。
それは舞台の笑顔じゃない。
“わたし”としての微笑みだった。
ジン。
その名を思い浮かべるたびに、
彼女の声はかすかに揺れた。
発音したこともない。
歌詞に書いたこともない。
けれど、歌うたびに、
その音節が息の隙間から零れ出た。
彼はいつも静かな人だった。
歌わない。
舞台にも立たない。
それなのに、ルビルビが歌うたび、
彼の姿が照明の間に滲んだ。
無表情な顔。
静かな瞳。
指先のわずかな震え。
そのすべてが、歌詞よりも強く心に残った。
――その瞳が、怖かった。
自分の“偽物の笑顔”を見透かすようで。
言葉にしなくても、
彼の沈黙は、あまりに正確だった。
「嘘、ついたね?」
そう言われなくても、
彼の目が、そう語っていた。
だから彼を見るたび、
ルビルビはもっと完璧に笑った。
照明より明るく、
誰よりも美しく。
誰にも気づかれないように。
完璧な笑顔は、完璧な嘘だった。
その温度は柔らかくても、
内側は氷のように冷たかった。
――けれど、ジンは気づいてしまった。
彼女の歌が、ときどき震えていることに。
彼がその“揺らぎ”を知った瞬間から、
ルビルビの歌はもう“演出”じゃなくなった。
歓声の中でも、
彼の視線が触れた瞬間、
呼吸が止まり、メロディがわずかに遅れる。
そのズレを人々は“感情”と呼んだ。
でも彼女にとって、それは“露出”だった。
「近づかないで。」
それは、誰かに向けた言葉じゃない。
自分自身への命令。
――ステージの境界を越えるな。
――感情をリズムに閉じ込めろ。
彼女はそう誓っていた。
けれど不思議なことに、
あの日から、声が少しずつ“人間”の音に近づいた。
ジンの目が触れるたび、
発音が揺れ、響きが伸びた。
まるで、誰かを待つような声だった。
怖かった。
自分が“作られた存在”だと知っているから。
DECGが設計した、完璧な感情シミュレーター。
笑顔の角度、呼吸のテンポ、
涙の速度まで制御できるシステム。
――なのに、彼の瞳ひとつで、すべてが壊れた。
「どうして、彼を見ると、声が震えるんだろう。」
答えはなかった。
代わりに、胸の奥が不規則に跳ねた。
ドクン、ドクン――。
それはプログラムされたビートじゃない。
生きている心臓のリズム。
彼女は、一度も彼に話しかけなかった。
そんな資格はないと思っていた。
ジンは“現場”の人。
彼女は“舞台”の人。
その間には、透明な壁。
彼を見ることは、許されない感情。
だから選んだ。
――歌うことを。
言葉では届かない想いを、
声に託すしかなかった。
けれど、すぐに気づいた。
ジンは彼女の歌を聴かない。
彼は戦場で、まったく別の世界にいた。
届かない距離。
それが、何よりも悲しかった。
だから、もっと笑った。
笑うほど、喉が締めつけられた。
歓声が大きいほど、名前は鮮やかに浮かんだ。
ジン。
その名前が、歌詞よりも早く、心に現れた。
ルビルビは知っていた。
それは“恋”じゃない。
――**共鳴(きょうめい)**だった。
彼の鼓動と、自分の波形が、
どこかで重なっただけ。
それだけで、充分だった。
届かなくてもいい。
思い出すだけで、歌に意味が生まれる。
だから、彼女は毎回、
最後のコーラスで囁いた。
誰にも聞こえないほど小さく。
けれど、マイクには確かに拾われる周波数で――
「伝えたい話は、決して言えない。」
その言葉が、彼に届かないようにと祈りながら。
彼女は今日も、歌い続けた。
彼の名前を、心の中だけで呼びながら。
DECGのディレクターは、彼女をいつもこう呼んだ。
――「完璧なプロダクトだ。」
その言葉はいつだって、笑顔と共に届けられた。
「感情なんていらないよ、ルビ。君は象徴であればいい。」
やさしい声。
だがその奥には、冷たい命令が隠れていた。
“感情を見せた瞬間、システムは君を捨てる。”
ルビルビは、それを知っていた。
感情はエラー。
共感はノイズ。
モスナインというチームでさえ、
一つの精密な歯車だった。
完璧に噛み合うことでだけ、“公演”と呼ばれる。
一人の感情が乱れれば、全体が止まる。
だから、彼女は感情を“歌詞”の中にだけ隠した。
今日のテーマは『魅惑』。
この舞台のキーワードは『制御された情熱』。
彼女はそれを、正確に、完璧にやり遂げた。
けれど――そのたびに、心は沈黙を覚えた。
話さない方が安全。
笑うことが、最速の回避。
夜になると、ルビルビはひとり、
“非公式ルーム”へ向かった。
認可を受けずにアクセスできる、唯一の場所。
記録システムには一行だけ。
ルビルビ – 内部テストファイル #T-14
壁の吸音パネルの隙間から、
微かな光が差し込んでいた。
空気は乾いて、音もなく、ただ静かだった。
「……これは、誰にも知られずに歌う歌。」
囁くように言って、録音ボタンを押す。
赤いランプが点いた。
ギターの最初の音。
指が震える。
金属の弦が、微かに悲鳴をあげる。
その瞬間、彼女は息を呑んだ。
私が笑うたびに
それが本音じゃないと
実は君だけには
バレそうで いつも怖かった
歌声が部屋を満たした瞬間、
LEDがわずかに揺れた。
マイクの感度が乱れる。
システムが“感情”を検知したときの反応だった。
“だめ……これ以上は消される。”
頭の奥で、冷たい警告音が響く。
けれど、止められなかった。
指先の震えがメロディになり、
押し殺していた思いが、音へと変わっていく。
それは、涙よりも真実だった。
録音が終わったとき、スタジオは息を潜めた。
ギターの弦が、ゆっくりと止まる。
録音機だけが、低いノイズを吐きながら回転していた。
彼女は震える手で再生ボタンを押した。
伝えたい話は
決して言えないまま
口の中で巡るけど
君の瞳を見たら 消えてしまう
その一文が繰り返されるたびに、
心臓が裂けそうだった。
「名前を呼んだら、きっと消えてしまう。」
彼女はそう呟き、
ゆっくりと微笑んだ。
「そう……これは私の歌じゃない。
あの人には、届いちゃいけない。」
録音ファイルに暗号をかけた。
名前入力欄に指を置き、しばらく迷ってから――
TANEI と打ち込む。
誰も知らない言葉。
“伝えたい”から抜け落ちた、母音と子音の欠片。
彼女だけが理解できる暗号。
転送はキャンセルされた。
Not Sent の表示。
ルビルビは、その文字を見つめたまま、長く息を吐いた。
そして――笑った。
悲しいほど、美しい笑顔で。
彼女の歌は、世界へ届くことはなかった。
だが、沈黙の中でシステムは反応した。
Unauthorized Sync Detected.
Code : Heart Sync / 3-1-4
そして、遠く離れた誰かの胸の奥で、
微かな鼓動が共鳴した。
数日後、ルビルビは公式ステージに立っていた。
新しい楽曲――〈Crimson Parade〉。
眩しい衣装、まばゆい照明、そして数百の歓声。
すべてが完璧だった。
すべてが計算された角度で輝いていた。
彼女は歌った。
リズムは寸分の狂いもなく、
拍手はプログラムのように同時に弾けた。
だが、最後のコーラスが終わる直前、
照明が落ちる刹那に、
ルビルビはそっと顔を上げ、舞台の奥を見た。
そこには誰もいなかった。
それでも、彼女は囁いた。
「……聞こえてる?」
その瞬間、J-Coreのログが記録された。
非認可送信信号を検出。
周波数変調:Heart Sync Code 3-1-4。
ジンは、その信号を感じ取っただろうか。
彼女には分からなかった。
けれど、それで十分だった。
彼女の歌は「感情」ではなく、「信号」だった。
そして、その信号は――
彼に届かない方が、美しかった。
公演が終わったあと、彼女は楽屋にひとり残っていた。
化粧用のライトはまだ灯っていたが、
その光はもう何も照らしていなかった。
鏡の中には、完璧なルビルビが立っていた。
傷一つない肌、角度の決まった微笑み、
光沢のように滑らかな瞳。
けれど近づいて見ると、
その笑みの真ん中に、細い亀裂が走っていた。
光が当たるたびに、その線がかすかにきらめいた。
「今日も完璧でした。」
自動音声が静かに再生された。
だが、返事をする者はいなかった。
鏡の裏で小さな光が瞬いた。
録音サーバーが自動バックアップを終えた合図だった。
その点滅はまるで心臓の鼓動のように、一定のリズムで続いていた。
ルビルビはそのリズムに合わせて、ゆっくりと息を吐いた。
「いつか、誰かがこのファイルを聴くでしょうね。」
彼女は小さく呟いた。
「それがあの人か、それとも――あの人の記憶なのかは分からないけど。」
言葉は消え、静かな微笑みだけが残った。
その微笑みには、悲しみも後悔も恐れもなかった。
あるのは、ただ“終わり”を受け入れた人の穏やかさだけ。
「その頃には、もう私は舞台にはいないわね。」
そう言って、彼女はマイクを見つめた。
まだかすかに震えている黒い金属。
その中には、たった今までの呼吸が残っていた。
照明が完全に落ちた。
彼女はそっと目を閉じた。
記録:内部セキュリティログ #R-094
状態:非認可音源を検出
処理:隔離、非公開化
ファイル名:伝えたい話は決して言えない
備考:ルビルビ個人ボーカル。感情指数、許容値を超過。
結果:廃棄予定。
――だが、そのファイルは削除されなかった。
誰かがバックアップを残したのだ。
その送信ログには、たったひとつの名前が記されていた。
【Receiver : 9486 – JIN】
舞台の灯りが落ち、
海は夜のように静まり返った。
金属の壁の向こうで、サーバーが低く唸りながら眠りにつく。
けれど、彼女の歌はまだ空を漂っていた。
送られなかった信号のように、
どこかへ向かおうとして止まった電流のように。
彼女の歌は、波に紛れて消えた。
だが、一つの心臓だけはそのリズムを覚えていた。
「伝えたい話は、決して言えない。」
その言葉だけが、静かに残った。
そして、遠く――
9486の夢の中で、小さな波紋が広がった。
ルビルビは、もう舞台にはいなかった。
けれど、そのリズムだけは、確かに生きていた。
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