はじめてのおしごと①

 目を覚ますと、そこは――いつもの天井とは違っていた。いつもの目覚めなら、少しの凹凸のあるアイボリーのクロスが目に入るはず。けれど、今、寝ぼけ眼の霞んだ視界に映るのは、柔らかな木目の天井だった。


「まだ、慣れないなあ……。」


 毛足の長い、肌触りの良い薄手の毛布を、口元まで引っ張りながら、何度か瞬きをする。気を抜くと再びくっついてしまいそうな瞼をなんとか引き離して、ひとつ、大きなあくびをする。


 ぐっ、と体を伸ばしながら窓の外を見れば、太陽はすっかり空の頂点を過ぎようか、とうろついているあたりだった。


「イレクトさん、まだ寝てるかな。」


 ここ数日で、私はすっかりねぼすけになってしまっていた。というのも、この店の主、イレクトさんは寝たい時に寝て、起きたい時に起きる、という自由な生活を送っているのだ。時には夜遅く――いや早朝まで何やら不思議な音が聞こえてくることもある。


 そっとベッドを抜け出し、貸してもらった部屋着の裾を直す。昨日着ていた服は、彼が「すぐに乾かしてあげるよ」と言って、指を一度鳴らしただけですっかり元通りになっていた。科学では説明できない現象にも、少しずつ慣れていかなければならないのだろう。


 軋む階段をゆっくりと降りていく。すっかり慣れた香草の香りに混ざって、何か、甘いものの焼ける香りがした。それはまるで、学校から帰ってきたときに、母がお菓子を作っていてくれた時のような、どこか懐かしくて、安心する香りだった。


「おはよう、マリ。よく眠れたかい?」


 濃緑のソファに深く腰掛けて、イレクトさんはひらひらと手を振っていた。珍しく、今日は早起きであるようだった。それは、私がこの世界に来た翌日とは、まるで違う姿だった。


 

 私がここへ来た翌朝、誰もいない階下に肝を冷やしたのも、もう1週間ほど前になる。あの朝、うっかり昼過ぎまで寝過ごした私が慌てて階段を降りた先に待っていたのは、薄暗い部屋で沈黙を貫く家具たちだけだった。


 夢なのではないか、と自分の状況を受け止められずにいた私にとってその静寂が、何よりも恐ろしかった。まるで、世界にたった一人取り残されてしまったかのような、途方もない孤独。あの蜂蜜のように甘い声も、ビスクドールのように美しい貌も、差し伸べてくれた温かい手も、全てが幻だったのではないかと、本気でそう思ったのだ。

 

 半ば泣きそうになりながら、店の扉を開けるべきか、それともこのまま彼を待つべきか、決めかねていた時だった。

 

「……おはよう、マリ。」

 

 ひょっこりと、店の奥の扉から顔を出したのは、他でもないイレクトさんだった。薄手のブランケットに身を包み、余らせたそれをまるでトレーンのように引き摺りながら。少し癖のある髪はあちこちで絡まっていて、まるで寝癖が自我を持っているかのようだった。


 あまりにも無防備なその姿に、張り詰めていた恐怖の糸がぷつりと切れて、安堵のため息が漏れたのを覚えている。


 どうやらイレクトさんは基本的にという時間に対して極めて非協力的な生活を送っているらしい。日が昇った頃に床につき、気が向いたら起きる。起きてからしばらくは、意識がほとんど外と繋がっていない。そういう生き方をしている人なのだと、私は知ることとなった。



「……思い出したら、なんだかおかしくなっちゃった。」

 

 あの時のことを思い出し、くすくすと笑う私を、イレクトさんは不思議そうな顔で見つめている。

 

「何か、面白いことでもあったのかい?」


「いいえ――ただ、別人みたいだな、って。」


「ひどいなあ、マリ。僕だって、たまには早起きくらいするさ。」

 

 そう言って悪戯っぽく笑うイレクトさんの手元には、いつもと同じ、縁の欠けた白いマグカップがあった。立ち上る湯気からは、リンデンフラワーに似た香りがする。


「ごめんなさい。でも、なんだか安心します、そういうイレクトさんを見てると。」

 

 私の言葉に、彼は少しだけ目を丸くしてから、嬉しそうにふわりと笑った。その笑顔は、まるで陽だまりそのもののようで、私の心までぽかぽかと温めてくれる。


「さっきから、何か甘くていい香りがしませんか?」

 

 くん、と鼻を鳴らして辺りを見回すと、イレクトさんは「うん、鼻がいいね」と頷いた。

 

「君が起きてくる頃合いかと思って。簡単なものだけど、焼いておいたんだ。」

 

 彼が視線で示したテーブルの上には、いつの間にか白磁の皿が二枚用意されていた。こんがりと狐色に焼かれたパンのような何かの上で、黄金色の蜂蜜がきらきらと光っている。傍らには、朝露に濡れたばかりのような瑞々しい果実が添えられていた。

 

「君が来てから、朝食というものを摂るようになったんだ。一人だと、どうにも億劫で。」

 

 そう言って微笑む彼の言葉に、胸の奥がきゅっと締め付けられる。ここに居ていいのだと、そう言われているような気がして、頬が熱くなるのを感じた。


「さあ、冷めないうちに食べようか。今日はきっと、マリにとって初めての仕事の日になるから。」


「ついに、ですね。」


 緊張していないわけではない。けれどそれ以上に、胸を満たすこの温かい期待感と、隣にイレクトさんがいてくれるという安心感が、私の背中をそっと押してくれていた。私はひとりではないのだ。


 私の声に、イレクトさんは少しだけ驚いたように目を見開き、それから、とても嬉しそうに目を細めた。

 

「ああ、そうだね。……いい顔をしているね、マリ。」

 

 彼の言葉に、また頬が熱くなるのを感じながら、私はこんがりと焼かれたパンを一口頬張った。サクりとした食感の後に、じゅわっと甘い蜜が口の中に広がる。懐かしくて、優しい味。それが、高鳴る心臓を落ち着かせるお守りのように感じられた。


「今朝は、店の扉についているベルがなんだかそわそわしているね。誰かが自分を鳴らしてくれるのを、今か今かと待っている。」

 

 私にはただ静かにぶら下がっているようにしか見えないベルが、そわそわしている。そんな不思議な言葉も、彼が口にすると、まるで真実であるかのように思えた。


 イレクトさんはそう言うと、楽しそうに目を細め、縁の欠けたマグカップを静かに口元へと運んだ。

 

 彼が湯気を一口含んだ、その時だった。

 

 カラン、と。

 

 静かな朝食の時間を切り裂くように、高く澄んだ音が響いた。

 

 びくりと、私の肩が揺れる。心臓が、きゅっと縮こまるのがわかった。視線を上げると、イレクトさんが「ほらね」と言いたげに、悪戯っぽく微笑んでいるところだった。

 

「……噂をすれば、だよ。」

 

 私はごくりと唾を飲み込み、緊張に速まる鼓動を聞きながら、ゆっくりと扉の方へと視線を向けた。扉の磨りガラスの向こうに、俯き加減の小さな人影が映っている。

 

「さあ、マリ。君の『はじめてのおしごと』だ。」

 

 イレクトさんの穏やかな声に促され、私は意を決して椅子から立ち上がる。胸の奥で高鳴る鼓動を抱きしめながら、私は、はじめてのおしごとに向かって歩き出した。

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