第10話 逃亡の夜に替え玉は誰
経費削減のため、前回に比べ、今回の催しに招かれた貴族はかなり少なかった。出席者のほとんどは皇族か、もしくは機密を扱う重臣たちばかりである。
もっとも、貴族たちはこの“武闘大会”の主眼ではない。私は必要最低限の招待状だけを送り、あとは特に気を配らなかった。ジャンヌの戦勝一周年祝賀会の準備を手伝った経験があるおかげで、催しの場を整える仕事にも多少は慣れが出てきた。
とはいえ、たとえ小規模な“武闘大会”でも、開催の場が皇宮の敷地内である以上、慎重な準備が欠かせない。
ひと月後、“武闘大会”は予定通りに開催された。
会場は皇宮からそう遠くない草原地帯で、皇族や貴族たちはすでに臨時に設けられた天幕の中で休息していた。それぞれの天幕には季節の果物や菓子、茶が用意され、貴族たちの手慰みとなっている。
外には大量の鉄の剣、盾、甲冑が整然と並べられ、試合時にはすぐ取り出せるようになっていた。風にはためく巨大な旗には、青い薔薇と茨を組み合わせた王家の紋章が刺繍されており、それが権威の象徴でもあった。
近衛の召集や試合規則の制定など、実務の多くはランスヴィルが担った。彼には特別な手腕があるのか、驚くほど短い時間で皇宮内のすべての近衛をまとめ上げてしまった。もちろん、私が裏で意図的に取り計らい、離宮を守る近衛たちも「観戦学習」という名目で呼び出されていた。
今回の開会挨拶はエドワルド様が形式的に務め、短い挨拶のあと、主導権はすぐランスヴィルへと渡された。
銀白の軽装鎧に身を包んだランスヴィルの傍らには、戦場を共に駆けてきた漆黒の愛馬が控えていた。鋭い眼光が出場者全員を見渡すと、その姿はまるで戦神が降臨したかのようだった。
「諸君!ここに立つのは、エシュガードに選ばれし勇士たちだ!この神聖なる“武闘大会”で己の力を解き放ち、意志を鍛えよ!」
「さあ、今こそ主君にその力を示すときだ!」
彼が腕を振り上げると、その力強くも落ち着いた声が震える空気に響き渡った。
「エシュガードの名のもとに!」
一瞬にして、近衛たちの雄叫びが天を震わせる。
試合の進行とともに、歓声や剣戟の響きが入り交じり、会場の熱気は次第に高まっていった。
この“武闘大会”は名目上は訓練であり、対戦相手を傷つけることは禁じられていた。とはいえ、実戦さながらの勝負に擦り傷程度は避けられない。そのため急な怪我に備えて、フォスタスと彼の弟子たちも招かれていた。一方、ルドヴィクスは武闘に興味がなく、財務卿としての公務を理由に不参加。エドワルドもさほど関心を示さず、私が外で観戦するのを咎めることもなく、自分は天幕の中で書物をめくりながら退屈を紛らわせていた。
正直なところ、私は武闘が少し怖かった。もし切磋の果てに誰かが大怪我をしたら、“こんな大会を開かなければよかった”と、きっと後悔してしまうだろう。
……でも、そうじゃない。
私はセモニエのためにこれを開いたのだ。
彼女が無事に逃げ出せるなら、それでいい。
私は小さく頭を振った。考えすぎても仕方がない!
“武闘大会”が無事に進み、セモニエが成功裏に逃げられたなら――まさに一石二鳥ではないか!
会場を一回りし、顔見知りの近衛や貴族たちにも大会の感想を尋ねてみた。今のところ、出場していない者たちも皆、目を輝かせながら観戦しており、その様子を見て、私の心も少しだけ軽くなった。
もちろん、この“武闘大会”にいちばん熱を入れているのは、ほかでもないランスヴィル卿である。彼はほぼすべての種目に出場していた。騎乗、剣術、弓、そして徒手の格闘――どれを取っても彼は隙がなく、三手も交わさぬうちに相手の急所を打ち抜いてしまう。中には勇敢にも一定時間互角に戦う者もいたが、最終的には彼がすべての攻勢をさばき、勝利を収めた。
その一つひとつの動きの強弱は、素人の私には見分けがつかなかったけれど、年配の近衛たちが口をそろえて言うには、「将軍はほとんどの相手に手加減をしている」とのことだった。
……そんな強者を相手にして、セモニエは本当に逃げおおせられるのだろうか?
ランスヴィル卿は決して残忍な男ではない。
それはこの数日の付き合いで私もよくわかった。
時に皇太子殿下に対してさえ無礼な物言いをすることもあるけれど、それは“信頼されているがゆえの傲慢”――つまり、親しさの表れなのだ。
帝国軍を率い、数々の戦で勝利を収めてきたという事実こそ、彼が勇猛でありながらも冷静な策略家であることの証でもあった。
もし憎しみさえなければ、セモニエもこの婚姻を受け入れたかもしれない。
少なくとも、外から見れば、軍政の両権を握る彼はまさに栄光の絶頂にある。皇女の夫としては、申し分のない相手に見えるだろう。
日が傾き始め、激しい戦いが続いた一日も終わりに近づいた。翌日、エドワルドが自ら結果を発表し、上位者には貴重な武具と賞金が授けられる予定だった。
……セモニエの方は、どうなっているのだろう?
翌日は快晴。
澄みきった青空の下、“武闘大会”の熱戦は再び繰り広げられ、夜の帳が降りるまで続いた。
予想通り、優勝者はランスヴィルであった。だが、彼はエドワルドから授与される褒賞を辞退しようとした。
「殿下、この礼は……悪いが、受け取るわけにはいきません。」
「どういうことだ、ランスヴィル卿。“武闘大会”の勝者が皇室の宝を受け取るのは古来よりの慣例だ。いくら君といえど、それを破ることは許されぬ。」
「誤解しないでください、殿下。俺が言いたいのは、この宝があまりにも貴重すぎるってこと。俺ひとりのもんにしちまうのは、さすがに気が引ける。」
「ふむ……。だが、一度授けたものをどう扱うかは君の自由だ。自分で使おうと、他人に譲ろうと、好きにすればいい。」
「……そういうことなら、ありがたく預かっておきます。そのうち、信頼できる部下に出会ったら――その時に渡すとしますか。」
謙虚な姿勢を見せたランスヴィルに、若い近衛たちは歓声を上げて称賛した。
一方で、数名の貴族は陰で囁き合い、あからさまに不快そうな表情を浮かべていた。その中のひとり――サノー伯爵と呼ばれる男は、「ふん」と鼻を鳴らし、背を向けて立ち去った。
続いて、上位に入賞した近衛たちにも皇室から賞品が授けられ、こうして“武闘大会”は正式に幕を閉じた。
この二日間、準備や運営の確認に奔走していた私は、さすがに疲労を隠せず、あくびを噛み殺しながら立ち上がった。「やっと寝室に戻って休める……」――そう思った矢先、ランスヴィルとエドワルド様が何やら話しながらこちらへ歩いてきた。
「おお、これは皇太子妃様。二日間、本当にご苦労さまでしたな。」
ランスヴィルは試合を連日戦い抜いたとは思えぬほど元気いっぱいで、笑みを浮かべながら挨拶をしてきた。
「とんでもございません。護國卿様の采配があってこその成功ですわ。」
「粉のように白いお化粧でも、隠しきれぬほどの隈が出ているよ、ヘローナ。」
エドワルド様は遠慮のない口調で、私の疲れ顔を指摘した。
「本当は君も連れて皇妹の見舞いに行くつもりだったが、その顔じゃ今日はやめておいた方がよさそうだ。」
えっ?ま、待って――!
今このタイミングでセモニエの離宮に行くなんて、絶対にまずい!
くっ……もう少し時間を稼げればよかったのに……!
「ど、どうか私もご一緒させてくださいませ!」
私は慌てて姿勢を正し、なんとか口実を探した。
「その……先日、皇女様からお手紙をいただきまして、近頃お身体の具合が優れないとのことで……“武闘大会”の件でずっとお伺いできず、気になっておりましたの。」
「ふむ?」
エドワルド様は半信半疑の表情で私を見た。
「では明日か明後日、自分で行けばよいだろう。わざわざ今、一緒に行く必要があるのか?」
「そ、それは……殿下とご一緒の方が賑やかで楽しいですし、皇女様もお喜びになるかと……!」
――ああ、穴があったら入りたい。
我ながら苦しすぎる言い訳だ。
「殿下、皇太子妃様がそこまで仰るのなら、ご同行いただきましょう。大した手間にもなりませんしね。」
ランスヴィルが軽く笑いながら助け舟を出してくれた。
「どうせ長引く話でもないでしょう、エド?」
「……こら。人前で“エド”と呼ぶなと言っているだろう。」
エドワルド様は呆れたようにため息をついた。どうやら二人の仲は本当に親しいようだ。
「皇太子妃様は“身内”ということで、特別に許してやれよ。」
「はぁ……わかった。」
「君、聞こえているのか?――皇女はどこにいる?」
エドワルドの顔は血の気を失い、まるで地獄から来た死神のように恐ろしい表情をしていた。
彼の前に跪いていたのは、金髪の侍女の姿をした女。
その女は恐怖に震え、全身が小刻みに揺れていた。
ランスヴィルは腕を組み、壁にもたれかかって成り行きを見守っている。
私は殿下の背後に立ち、ただこの侍女の無事を祈ることしかできなかった。
先ほど、私たちはセモニエの離宮を訪ねた。だが侍女の報告によれば、皇女は昨夜のうちに姿を消したという。守衛たちはすぐさま周囲の捜索を始めたが、その最中、この金髪の侍女――皇女の衣を身にまとった彼女が逃げ出すところを、エドワルドが捕らえたのだ。
「殿下、わたし……本当に、何も知らないのです……」
侍女は恐怖のあまり言葉をつなぐこともできない。
「どうかお許しを!わたしは……ただ、皇女様の頼みを断れなかっただけで……!皇女様はわたしと入れ替わって、そのまま……姿を消されました!それ以上のことは、何も……!」
「君は考えもしなかったのか?あのか弱い皇女が、ひとりで外に出ればどんな危険に遭うか。今のうちに正直に話したら、すぐに皇女を見つけ出せるのはずだ。」
「わ、わたしは本当に……何も……!」
「……そうか。もっと効果的な方法で口を開かせるしかないな。」
エドワルドが手を軽く上げると、二人の近衛が前へ出て、女の両腕を左右から押さえつけた。
「十秒だけやる。――話さなければ、その腕を……」
だめ!このままでは――!
この侍女はおそらく、セモニエに利用された身代わりにすぎない。何の価値もない駒なのかもしれない。
だが、それでも私は見過ごせなかった。
誰かが目の前で痛めつけられるなんて、どうしても耐えられなかった。
エドワルド様が“悪魔”のように見えるのも嫌だった。
愚かでも、甘すぎると言われても構わない――
黙っていられなかった。
私は殿下の前へ駆け寄り、両手を広げて侍女をかばった。
「皇太子妃、君は何をしている?」
「殿下、もうお調べになる必要はありません!」
私は覚悟を決め、胸の前で両手を組み合わせた。
「皇女様の逃亡は、すべてこの私が仕組んだことです。この侍女はただ皇女を逃がすために時間を稼いだだけの囮。彼女は本当の居場所を知りません。罰を与えるなら、私ひとりにしてくださいませ。」
「……」
沈黙が部屋に広がった。エドワルド様はため息をつき、こめかみを押さえながら目を閉じた。そして両手を組み、顔をその間に埋める。彼の表情が見えなかった。
「君は、自分が“皇太子妃”だから罰せられないと思っているのか?」
「罪が露見した以上、相応の罰は受けます。……でも、どうか無関係な者には手を出さないでください。」
「無関係、だと?……ふん、ならば君の口から聞こう。皇女はどこへ行った?」
この件について、セモニエからも聞かされてはいなかった。
私は唾をのみ込み、瞬時に筋の通る嘘を組み立て始めた。
「数日前、皇女様は私に密談を持ちかけました――逃亡を手伝ってほしいと。私はそれを承諾し、“武闘大会”を口実に離宮の守衛を遠ざけたのです。逃亡の日は大会の初日と決め、発覚を遅らせるため、この侍女に皇女様と入れ替わってもらい、二日目の夜まで時間を稼ぐようにしていました。……ですが、殿下と護國卿様が突然いらしたことで計画が狂ったのです。以上が、すべての経緯です。」
「なるほど、筋は通っている。だが肝心な一点が抜けているな。」
エドワルド様が手を上げると、先ほどの近衛たちが私の両腕を押さえた。
「皇女の行き先は?」
心臓が激しく打ち、理性がかき消されそうだった。
「……体力のない女性が二日間で行ける距離など、殿下の方がよくご存じでしょう?」
「ふん、君と駆け引きしている暇はない。言わなければ、君があの侍女の代わりに罰を受けることになる。安心しろ、君が片腕になっても――妻として扱ってやるさ。」
ま、まさか……本気!?
「動いたら承知しませんわよ!わたくしはヴァレン家の娘ですのよ!」
私は必死に近衛の拘束を振りほどいた。
二人は顔を見合わせ、どちらの命令に従うべきか迷っていた。
そんな緊張が走る中、沈黙していたランスヴィルが口を開いた。
「なら、こうしよう。皇太子妃様とその侍女を、別々に尋問したらどうだ?」
「で、ですが!すべて私ひとりが――」
「だが、こいつも共犯だろ?それは事実だ。」
「……そうだな。互いに庇い合っている可能性もある。別々に聞くのが筋だ。――その侍女は君に任せる、ランスヴィル。手加減はするなよ。」
「了解した。」
近衛たちは、泣き叫ぶ侍女を引きずって連れ去っていった。
「ま、待って!彼女に酷いことはしないで……お願いです!」
エドワルドとランスヴィルは短く視線を交わした。ランスヴィルは肩をすくめ、小さくため息をつき、私に約束した。
「安心しろ。俺は拷問なんて性に合わねぇからな。皇太子妃様、自分の心配をした方がいいぜ。」
彼は意味ありげに言い残して部屋を出ていった。
「来い。」
エドワルド様は私の手首を強くつかみ、隣の部屋へと引きずるように連れて行った。二人の近衛は入ってこなかった――それだけで、私はほんの少しだけ息をつけた。
「さて、君と私だけになったな……。そろそろ本当のことを話してもらおうか。」
「本当のこと、ですか? 先ほど申し上げた通りですわ。」
私は気丈に振る舞おうとしながら答えた。
「なら、さっき捕まった侍女の名を言ってみろ。」
「……アンナ?」
「違うな。あの侍女の名は“モンナ”だ。つまり、君はあの侍女のことを知らない。皇女と侍女の入れ替わりについても、知らなかったということだ。」
――やっぱり、見抜かれていた。
彼はいつもそうだ。ほんの僅かな綻びで、私の虚勢を見抜いてしまう。
「君がその計画を知らなかったからこそ、私とランスヴィルと一緒に来たがったのだろう。皇女が逃げそこねていないか、自分の目で確かめたかったわけだ。君の関わったのは、“武闘大会”を開いて守衛を動かす部分だけ。皇女の行き先は、君も知らない。……そうだな?」
私は力が抜けたようにその場に膝をつき、まるで嘘を見抜かれた子どものように俯いた。
「……おっしゃる通りですわ。」
「だが、“武闘大会”を利用して皇女の逃亡を助けたのは紛れもない事実だ。」
「……彼女に、ほんの少しでも幸せになってほしかっただけです。」
「罰として、君の今後の催し物に関する権限は一時的に取り上げる。
それと、離宮の侍女と守衛たちは警備怠慢の責任で三ヶ月の減俸とする。」
あまりにも軽い処罰に、私は驚いて目を見開いた。エドワルド様は相変わらず落ち着き払っていて、まるで初めからそのつもりだったかのように淡々としている。
「……まったく。見知らぬ者を助けるために、こんな泥沼に自ら足を踏み入れるとは。どう言えばいいか……。」
気がつけば、私は殿下の腕の中に抱き寄せられていた。彼の手が私の髪を撫で、額を胸に押し当てるように包み込む。その温かさに、抑え込んでいた恐怖と悔しさが一気に溢れ出した。
涙が止まらない。
私は乱暴に拭いながら、拳で殿下の肩を叩いた。
――最初から見抜いていたのなら、どうしてあんな酷い真似を?
「殿下……殿下なんて……本当に最低ですわ!わたくしの腕を折るつもりだったなんて……!」
「君を脅さないと、すぐに同じことを繰り返すだろう?」
エドワルド様は苦笑しながら言った。
「次はもう、そんな無茶をするな。」
「……わたくしは、ただ誰かが傷つくのを見たくなかっただけですのに……。」
「君に関係のない罪は、君に関係のないものだ。他人の過ちでどんな罰を受けようと、それはその者の選んだ結果だ。君が身代わりになっても、誰も感謝などしない。むしろ、自分の代わりに誰かが犠牲になったと安堵するだけだ。」
「もう二度と、しませんわ。」
絹の手袋をはめた彼の指先が、私の背を優しく撫でる。その動きは水のように滑らかで、心のざわめきが次第に静まっていった。
しばらくして、扉がノックされた。ランスヴィルが現れ、低い声で報告する。
「話はついた。――あの女は白状したよ。間違いがなければ、明日には見つけられるだろう。」
翌日の夜、ランスヴィルは血にまみれたセモニエを抱えて離宮へ戻ってきた。
「皇女様は外で足を滑らせて転んだらしい。だが、もう大丈夫だ。」
彼はそう言った。
誰の目にもそれがただの転倒ではないことは明らかだった。けれど、誰ひとり真相を口にする者はいなかった。
ともかく、皇女が無事に戻った――それだけで、この件は“大事に至らなかった”ことになったのだ。
“モンナ”と呼ばれていたあの侍女は、自首したのちに拘禁されたという。最良とは言えない結末だが、少なくとも殿下が彼女の命を奪うことはなかった。
「逃亡の後で、何か予想外のことがあったのかもしれませんわね。それであんな姿に……。」
私は寝室の窓辺に立ち、夜空を見上げながらつぶやいた。
「殿下は……最初からこうなることを予想しておられたのですか?」
「自ら皇室の庇護を捨てた以上、困難に直面する覚悟は必要だ。私は彼女のためにできる限りの準備を整えた。それでもなお彼女が去ると決めたのなら――もう私の手の届く範囲ではない。」
「皇女様は、わたくしを頼るために本当の身の上を明かしました。……殿下が彼女を裏切ったと、そう仰っていましたわ。あれは本当なのですか?」
私は紅茶のカップを置き、椅子に座る殿下を見つめた。
彼はその視線から逃げることもなく、静かにカップをソーサーに戻すと、ゆっくりと私の方へ歩み寄った。
そして、私を窓辺へ追い詰め、掌を硝子に突いて両腕で逃げ場を塞いだ。
「君はもう少し、私という人間を理解していると思っていたのだがね、ヘローナ。」
「……つまりお認めになるのですか?」
「雛鳥の翼を折るような真似に興味はない。だが、君もわかっているだろう。
彼女はかつて己の国を裏切った。そして私は、彼女にとって残された唯一の身内として、彼女をキャストレイへ返すよりも帝国に留める方が安全だと判断しただけだ。」
「けれど、殿下のなさったことは“強引”ですわ。このままでは、皇女様はきっと黙ってはいらっしゃらないでしょう。」
私はあの地下の隠し部屋で見たセモニエの瞳を思い出す。
揺れる燭光の中で見せた、あの悲しみと決意を――。
彼女がどれほど傷つこうと、その選んだ道を誰も止められはしない。
「……殿下は、わたくしのことも裏切るのですか?」
不意にこぼれた問いに、エドワルド様は一瞬言葉を失った。何かを探すように目を細め、少しの間沈黙してから、低く答えた。
「さあ……それは、これからの“私たち”次第じゃないかな。」
「たとえ心が離れても……夫が妻を裏切ってはいけませんわ。」
殿下の腕がゆっくりと腰へまわり、私を抱き寄せる。まるで子どものように甘えるような力加減だった。
「なら、もっと夢中にさせてくれ、ヘローナ。」
拒もうとした瞬間、唇に軽い口づけが落ちた。
押し返そうとした手に力が入らない。
――胸の鼓動が、耳の奥で響く。
最初は義務だと思っていた。
“皇太子妃”として果たすべき役目だと。
けれど今はもう、違う。
気づけば、私自身も……この人に、溺れ始めていた。
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