最期の種まき

よし ひろし

最期の種まき

 夜明けの空は、もはや美しくなかった。


 灰色と赤黒い煙が幾重にも重なり、太陽の光は濁った琥珀色に変わっていた。青かった空は、過去の映像と人々の思い出の中だけだ。



 地下研究施設の最深部で、リン・カジウラは最後の調整を続けていた。白衣の袖は煤で汚れ、目の下には深い隈が刻まれている。だが、その目は諦めていなかった。


「博士、もう時間がありません」


 若い助手のアキラ・タシロが、モニターから目を離さずに言う。その声は震えていた。


「第四次核攻撃が始まりました。この施設も、あと二時間もすれば放射能汚染域に入ります」


 リンは答えず、顕微鏡の前で指を動かし続けた。彼女の指先には、米粒よりも小さな透明なカプセルが無数に並んでいる。ナノテクノロジーの結晶――人類が最後に生み出した、希望の種。




 三年前、世界大戦が始まったとき、リンは国際生命保存プロジェクトの責任者だった。各国の科学者たちが国境を越えて集まり、一つの目的のために働いた。人類の記憶を、地球の生命の記録を、未来へ届ける、その為に。


 彼らが開発したナノカプセルには、DNAデータベース、文化遺産のデジタルアーカイブ、そして自己複製と進化の能力を持つ人工生命の種が封じ込められていた。宇宙のどこかで適切な環境に到達すれば、それは芽吹き、地球の記憶を宿した新たな生命を生み出す可能性がある。


 しかし戦争は、科学者たちの想像を超える速度で激化した。仲間たちは次々と施設を離れ、やがて連絡が途絶え――今、この施設に残っているのは、リンとアキラだけだった。




「博士。僕たちは、何のためにこれを作ったんでしょうか」


 問いかけるアキラの目には涙が浮かんでいた。


「人類は、こんなにも愚かだった。憎しみ合い、殺し合い、この美しい星を灰にした。そんな僕たちの記憶を、宇宙に送る価値があるんでしょうか? もし、この種が芽吹いたらあ――また同じ過ちを繰り返すんじゃないでしょうか」


 深い沈黙が落ち、換気システムの低い唸りだけが室内に響く。十数秒の静寂の後、リンは小さく息を吐きだし、静かに話し始めた。


「アキラ、私たちは確かに愚かだった。――でもね、私たちは美しいものも作った。音楽、詩、絵画。愛する人を抱きしめる優しさ。見知らぬ人に手を差し伸べる勇気。笑い声、涙、抱擁」


 そこで彼女は振り返り、若い助手を見つめる。


「このカプセルには、戦争の記録だけじゃなく、すべてが入っている。ベートーベンの交響曲も、母親の子守唄も、恋人たちが交わしたラブレターも。そして――私たちの過ちも、すべてが……」


 リンの目にも、涙が光った。


「もし、この種がどこかで芽吹いたなら――そこに生まれる生命は、私たちよりも賢くなれるかもしれない。私たちの過ちから学び、私たちの美しさを受け継いで。それが、最後に残された希望なの」




 最後の準備を終えた二人は、いそいで地上へと向かった。


 射出装置は、施設の屋上に設置されている。かつては天文台として使われていた場所だ。リンは幾度となく、ここから星空を眺めたが、今や空は毒々しい色に染まり、星々をはっきりと見る事はできない。今まさに東から昇る朝日の輝きも、薄いベールに覆われたようにかすんでいた。


 数百万個のナノカプセルが詰められた容器を、アキラが慎重に装着する。


「準備完了です」


 その声を合図に、リンは発射ボタンに手を置いた。この瞬間を、何度も想像していた。でも、実際にその時が来ると、胸が締め付けられる。


「さあ、種まきの時間よ」


 彼女は囁いた。


「どこかで、必ず芽吹いて。私たちの、地球の記憶を受け継いで、愚かさも優しさも、すべてを――そして、私たちを超えて、より賢い存在に……」


 ボタンを押した。


 低い振動音とともに、射出装置が作動する。超高速射出システムが、無数のナノカプセルを大気圏外へ送り出す。それらは宇宙の風に乗り、太陽系の外へ、銀河の彼方へと旅立っていく――はずだ……


 夜明けの光の中で、カプセルたちはきらきらと輝いた。まるで、新しい星が生まれるように。


 その様子を、リンとアキラは、いつまでも見続けた……




 それから数百年後、いや、数千年後、数万年後かもしれない――


 宇宙のどこか遠い場所で、一つのナノカプセルが惑星の大気圏に突入した。青い海と緑の大地を持つ、若い惑星。


 カプセルは海に落ち、静かに開いた。


 中から流れ出た人工生命の種が、原始的な生命と出会い、融合し、新しい何かへと進化し始める。それは地球の生命とも、その惑星の生命とも違う、全く新しい形。


 そして、そのDNAの奥深くには、遠い星の記憶が刻まれていた。


 愛すること。創造すること。間違いを犯すこと。そして、許し合うこと。


 リン・カジウラが最後に願ったこと――愚かさも優しさも、すべてを受け継いで、もっと賢く、もっと思いやりのある存在へと。


 宇宙は広く、時間は長い。


 地球最期の種まきは、今、実を結び始めた……



END


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