第5話 種も仕掛けもないけど、この手で0.4%は倒してきた
その夜、ノートを開いて教科書は閉じて、ペンを持って宿題はせず、
――この春に
それは符雨にとって、彼女との日々が日常になって久しいからだ。
「鈴晴」
呟いてから、その音があの人懐っこくて真面目な後輩の姿を象るまで一瞬だった。出会ってすぐのころ、一緒に遊ぶうちにだんだん鈴晴の肩の力が抜けていくのが嬉しかった。テスト勉強を一緒にしたこともあった。国語が得意な鈴晴に符雨が助けられたのもいい思い出だ。
そして、夏休みには二人でお祭りに行った。
『
『あはは、見てください! 私の勝ちですね、三上先輩』
『うーん、ここは多分、本論の展開的に教科書の例題よりこっちのテキストの方が分かりやすいですよ』
『えっ、夏休みですか? 予定は……わ、私は別に、その……ふ、符雨先輩はどうなんですかっ』
『うーん、海はちょっと……あの、私、一緒にお祭りに行きたいです』
『ねえ、見て下さい符雨先輩! 符雨先輩が好きそうな屋台ありましたよ!』
『――花火、綺麗ですね。先輩』
『あれ? 先輩』
『ふふ、先輩』
『……先輩っ』
『先輩』
こつ、こつ、こつ、と。
触れれば容易く折れてしまうほどに伸びたシャーペンの芯をぼんやりとした手つきで戻しながら、符雨は知った。記憶の視界でいつも揺れる、そのポニーテールを、ああ、あたしはいつも目で追っていたんだな、と。
その時ふいに震えたスマートフォンが、真っ暗だった画面を灯して通知を吐き出した。
「――あ」
何の連絡か確かめる前に目に映った待ち受けを見て、符雨は咄嗟に自分の口を押えた。
――鈴晴と一緒に眺めた花火の写真。
「……あたし」
思わず口から零れる言葉を、彼女はもう止められなかった。
「鈴晴が、すきだ」
どくん、と。
たったその3文字が
30分が経つ頃にはメモを取る手は止まり、代わりにメモとスマホを見ながら符雨は何やらがしゃがしゃと腕を動かし始めた。
「……あたしのポリシーには反するけど、でも」
符雨は慣れない動きに普段使わない腕の筋肉を痛めながら呟いた。
「この気持ちを、確かめたい」
鈴晴が好きだというこの気持ちを。
今まで自分は恋人が居たことがないからという理由で始めた「恋人」くじの遊び。それを使えば、きっと確かめられると思った。自分の「好き」の色を。
「……鈴晴」
――そして、符雨はそれが。
「あたしが初めて好きになるのが鈴晴なら、きっと嬉しいから」
恋であればいいなと、思った。
※※※
いつもよりも前髪のセットに時間がかかった。
登校中、友だちと会った時に「ふーちゃん今日はテンション高いね?」と言われた。
廊下を歩く時、すれ違う生徒たちにいちいち一瞬だけ緊張した。
絶対にないと分かっているのに、教室の扉を開けたその先に鈴晴が居ればいいのにと、思った。
※※※
鈴晴がいつもの場所に来ない日はそれなりにあって、そういう時は「友だちと食べることになって」とか「次の時間の体育当番なので」とか連絡があるものだったが。
「……今日は、忙しいのかな」
もう何度目か、スマホに通知が来ていないか確認した符雨はくじ箱の上面にスマホを伏せると、ぐぐっと伸びをした。普段なら連絡くらいしてよねと唇を尖らせる符雨だったが、今は不思議と心地よかった。
お昼を買いに入ったコンビニで、昨日鈴晴から貰ったサンドイッチが目に入り、気づくと買っていたことも。新しく見つけたクッキーの期間限定味の感想も。
鈴晴になんと言おうか考えるだけで、楽しかった。
「……先輩!」
昼休みが終わろうかという時間になって、その声が聞こえた時符雨は飛び跳ねるように顔を上げ、視線を彷徨わせた。すぐに視界に鈴晴の姿を捉える。
こちらに向かって駆け寄って来る彼女は教科書とノート、筆箱を抱えていて、走ったことだけが原因には思えない疲労の色を顔に浮かべていた。
「ごめ、んなさい。授業が長引いて、お昼食べる時間が無くて。委員会の集まりに出席してたら、もうこんな時間で、連絡も、その、出来なくて」
符雨の前で膝に手をついて告げる鈴晴はそこで言葉を切って深呼吸を挟んだ。
よほど急いできてくれたのだろう。符雨は後輩の頭に伸ばしかけた手を引っ込めて、代わりに昼食用に買ったペットボトルを掴んだ。
「ありがと、鈴晴。ほら、これ良かったら飲んで」
「あ、ありがとうございます……って、これ午後ティーじゃないですか。先輩、いつもカフェオレとか緑茶なのに」
「まあまあ。たまにはさ」
「……いいです、けど」
鈴晴は符雨のペットボトルを躊躇うことなく受け取るとぐいと傾けて、喉を鳴らした。そんな後輩に目を細めた符雨は、ごそごそと袋を漁って鈴晴の為にとっておいたクッキーを取り出した。
ペットボトルと交換で渡すと、鈴晴はふにゃと柔らかく微笑んで「やった、お昼食べ損ねちゃったので嬉しいです」とさっそく個包装の袋を開けてクッキーを摘む。
「聞いてくださいよ、先輩。さっきの委員会、急いで向かったらお昼食べながら参加してる子もいたんですよ? 私も持っていけば良かった……ってこのクッキーひょっとして限定味ですか? あ……これ、当てますよ! えっと、マロン味ですね!」
符雨の隣にすとん、と腰かけた鈴晴はいつもよりも機嫌がいいように見えた。
そんな後輩の様子に喉の奥がそわそわと疼いた符雨は、紅茶で疼きを飲み込んでから、顎先をさするジェスチャーをして、
「ふぉっふぉっふぉ、正解じゃよ……もう教えることは何もない……これ全部、持ってゆきなさい……」
「せんぱ――ふ、符雨師匠! あ、ありがとうございます……!」
鈴晴もそんな符雨にノリノリで返し、コンビニ限定味お菓子師匠とその弟子のやり取りがしばらく続いた。
はぁ、と心地の良い脱力感と共に息を吐き出した符雨は「さてと」と一呼吸置いてからくじ箱を抱えて立ち上がった。
「じゃあお昼休みもそろそろ終わっちゃうし、最後に今日もガチャだよ!」
「……くじじゃないんですか?」
「ほぼ同じだって。よし、行くよ!」
「……はぁ。まあ、いいですけど。今日は当たるといいですね」
「――っ、ま、まあ見ててよ」
相変わらず座ったままの鈴晴は膝に肘をついて、片手で頬杖をつきながら先輩を見守る。その細い眼差しに気づかないふりをしながら、符雨は意識を研ぎ澄ました。
集中する。簡単だ。手を突っ込むだけ。もう何度もしている。
ただ、そうやって「恋人」のくじを引けばいいだけ。
――
「よしっ!」
「ふふ、もう、先輩ずいぶん真剣ですね」
「――いいの! 何が出るかなっ!」
符雨は勢い任せにいつもの歌を歌って、ばっ、とくじを引いた。
その手のひらには、
「……今日は、当たり引けましたね」
「そ、そうだね! やった、『恋人』だよ!」
「ですね」
頬杖をついたままふにゃりと微笑む鈴晴に舌がもつれて、「にゃははっ」とぎこちない笑みが零れてしまった符雨。くじを箱に戻して元あった場所に置きなおし、ふう、と額を拭う。
ちら、と鈴晴を覗くとちょんちょん、と前髪を指でいじっていて。
「チャイム、鳴っちゃいますよ」
「あ、うん……」
「放課後、どうするか決めといてくださいね」
「だ、だね……」
手で胸元を押さえながらこくこくと素直に頷く符雨をじっと見つめた鈴晴は、顔をわずかに逸らしながら控えめに両手を広げた。微かに震える指先と、赤く染まる耳。
「ほら、先輩」
「――えっ」
「だ、だからっ、『恋人』ですよ?」
「あ! そ、そうだよね、だよね! あはは……」
すっかり恒例になっていた、「恋人」のくじを引いた日のハグ。
いつもは符雨から誘ったりハグする流れだったから、不意打ちの後輩の言葉に符雨は声が震えてしまった。ちら、と鈴晴を見上げる。目が合わない。唇がもにょもにょしてる。ほっぺもちょっと赤い気がする。
――なんて思っていると、気づくと符雨は鈴晴に抱きしめられていた。
「えっ」
鈴晴の背中に腕を回す余裕もなくて、胸元と腹部あたりで彷徨っていた手の位置のまま鈴晴の腕に収まる。
「わ、私からは、初めてですかね」
「そ、そうかもね」
本当は、時間をかけてゆっくり確かめられればと思っていたのに。
だから、仕掛けも練習したのに。
今、符雨の頭の中をぐるぐると回る文字は二つだけだった。
「あったかいです、ね。先輩。今日涼しいので、その……い、いいですね!」
「あ、だ、え、な、あ、あたしも! 鈴晴!」
「――ふふっ、何があたしもなんですかっ」
鈴晴の声が笑って、少しだけ抱きしめられる力が強くなって。
その瞬間、符雨は肩が強張っていたことに気づいて。
すとん、と力を抜くと案外と手も自由が効いたから、恐る恐る、鈴晴の背中に伸ばして。
その指先が、鈴晴に触れる寸前に。
「チャイム、鳴っちゃいましたね」
その声と共に抱擁が解かれた。
「じゃあ先輩、その、また放課後」
「あ、うん――」
そそくさと荷物を抱きかかえ、小走りに去っていく鈴晴の後ろ姿をぼうっと眺める。すぐに曲がって見えなくなって、それでもまだ鈴晴がそこにいるみたいに見つめる先に。
さっきのハグが、フラッシュバックして。
「……っ!!」
符雨は手で顔を覆って、その場にしゃがみ込んだ。
「う……! マジックの練習、意味なかったじゃん……!」
思い出す、昨日の夜。
「恋人」のくじをなんとしてでも引くため、符雨はイカサマに頼った。
「恋人」くじをもう一枚作って、箱から引くふりをして袖口からコピーの方を出す。慣れるまで時間がかかったしまだ完璧ではないけれど、箱の中に手を突っ込む都合バレにくいと思ったのだ。
「真剣に遊ぶ」というポリシーを破ってまで――マジックに頼ってまで――当たりを引いて、気持ちを確かめようとした符雨だったが。
「あたし、鈴晴が好きだ」
鈴晴からのハグで、符雨は確信した。
どうしようもないくらいに、あたしはあの子が。
「好き……」
その声は、しゃがんで膝に顔をうずめる符雨の耳に何度も木霊したのだった。
鈴晴が好きだと気づいた符雨は、その日から。
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