夜明けの空にまいた種

サンキュー@よろしく

【自主企画用書き下ろし】お題:夜明けの空にまいた種

 もう少しで夜が明けそうな早朝。僕らは街を見下ろす丘の上で、冷たい夜風に吹かれながら、満天の星を眺めていた。吐く息は白く、空気に溶けていく。隣に座る君は、僕のコートの袖をぎゅっと握りしめていた。


「ねえ、真夜中に金星って見えないのかなあ……」


 唐突に、君がそんなことを呟いた。


「金星? どうしてまた急に」


「だって、一番星なんでしょ? 一番明るくて、綺麗なら、一番暗い時間に見られたら、もっと素敵だなって」


 僕は少し笑って、君の頭を優しく撫でた。


「残念ながら、それは絶対に叶わない願いなんだ」


「えーっ、どうして? 意地悪……」


 不満そうに唇を尖らせる君に、僕は空を指さしながら説明を始めた。


「意地悪じゃなくて、物理法則。金星はね、地球より内側、つまり太陽に近い軌道を回ってる『内惑星』なんだよ。だから、地球から見ると、いつも太陽の近くにいるように見えるんだ」


「たいようの、ちかく……?」


「そう。だから、太陽が沈んだ直後の西の空に見える『宵の明星』か、太陽が昇る直前の東の空に見える『明けの明星』としてしか、僕らは金星を見ることができない。太陽が地球の真裏にある真夜中の空に、金星が来ることは絶対にないんだ。天文学上の、絶対的なルールさ」


 僕の言葉に、君は「そっかあ……」と、少しだけ残念そうな声を漏らした。その横顔を照らす月明かりが、なんだか寂しげに見えた。

 しばらく沈黙が続いた後、君がぽつりと言った。


「じゃあ、私たちが離れ離れになるのも、どうしようもないのかな……」


 来月から、僕は遠い街の大学へ行ってしまう。それはもう、ずっと前から決まっていたことだった。


「……そんなことないさ」


 僕は精一杯の声を絞り出した。


「そんなことない。僕らは惑星じゃないんだから。僕らの未来に、絶対的なルールなんてないよ」


「でも……」


「そうだ。見えないなら、作ればいいんだよ。僕らの未来を」


 僕の突拍子もない提案に、君はきょとんとした顔でこちらを見た。


「作るって……どうやって?」


 僕はにやりと笑って、東の空を指さした。地平線の向こうが、ほんの少しだけ白み始めている。


「この夜明けの空の下で、一緒に種をまこう」


「種……?」


「そう。目に見えなくたっていい。僕らの心の中にだけ見える、とびきり明るい未来を描くんだ。それが、僕たちの種だ。そうすれば、どんなに離れていても、同じ未来にたどり着くんだ」


 僕の言葉を、君は瞬きもせずに聞いていた。やがて、その瞳にじんわりと涙が浮かんだ。

 それから僕らは、夜が白みゆく空に向かって、たくさんの夢を語り合った。僕が建築家になる夢、君が小さな飲食店をひらく夢。いつか一緒に住む家のこと。少し照れながら、未来の家族のことも。

 僕らはそんな、ダイヤモンドよりも輝く未来の欠片たちを、一つ、また一つと、丁寧に、大切にまいていった。


 ——そして、季節は巡り……。


 早朝の澄んだ空気の中、僕が設計し、君が切り盛りするこの店の、静かな時間。二階の住居スペースでは、僕らの宝物である娘がまだ夢の中にいる。


「はい、どうぞ」


 香ばしい湯気を立てるコーヒーカップが、僕の前にことりと置かれた。君はにっこりと微笑むと、そのまま僕の隣の席に腰を下ろした。


「不思議よね」


 君はポツリと呟いた。


「何が?」


「あの日のこと。夜明けの空に種をまこう、なんて……よくそんなロマンチックなこと、思いついたよね」


「必死だったんだよ。君と離れたくなくて」


 僕らは顔を見合わせて笑った。あの頃のどうしようもない不安が、今ではたまらなく愛おしい思い出だ。


「ねえ、答え合わせしない?」


「答え合わせ?」


「うん。あの時まいた種のこと。私たちの夢、ちゃんと叶ったかなって」


「ああ……。僕の夢は叶ったよ。こうして、君のためのお店を設計できたんだから」


「私の夢も叶った。あなたの隣で、このお店に立ててる」


「それだけじゃないだろ?」


 僕がそういうと、君は「うん」と微笑んで、二階の天井を愛おしそうに見上げた。


「一番大きくて、一番可愛い種も、ちゃんと芽を出してくれたもんね」


「だな。でも、僕がまいた一番大きな種は、それだけじゃないんだ」


「え? なあに、それ」


「君の隣で、ずっと笑ってるっていう未来だよ」


 君は少し顔を赤らめて、僕の肩にこてんと頭を乗せた。窓の外では、あの日のように明けの明星が僕らを見守るように輝いていた。

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