星を見降ろす

花園野リリィ

星を見降ろす


 音もなく、牡丹雪が窓ガラスを濡らしていた。


 外の景色は白一色に塗り潰され、世界から切り離されたこの一室だけが、確かな輪郭を保っているかのような錯覚を与える。火鉢の熾火おきびが、はぜる音を立てる。


 それ以外には、私が万年筆を走らせる紙を掻く音のみが静寂を破っていた。


 インクの匂いと、燻る炭の匂いが混じり合う。


 私の思考は、紡がれる物語の深淵にまで潜りきっていた。筆先から滴る言葉たちが、まるで魂の雫のように紙面に染み入っていく。その時——不意に、背筋に冷たいものが走った。


「ほぉ」


 吐息とも鳴き声ともつかぬ声が、私の背を打った。

 それはまるで古い琴の弦を震わせるように、華奢きゃしゃでありながら芯のある響きであった。


 部屋の隅、闇が最も濃く澱む場所に、それはいた。


 臆病に身を縮めながら、しかしその眼差しは私の存在を確かに認識するように、その愛玩種あいがんしゅは鳴いたのである。瞳はオパールの海のように澄んでおり、同時に計り知れない感情の深みを湛えていた。小さな生命が纏う透明な恐怖が、空気を震わせている。


「腹が減ったか?」


 問いは、私の唇から慈愛に満ちて滑り出た。


「……ほぉ」


 それは首を傾ける。その仕草には、この種族特有の繊細さがあり、どこか儚い美しさが宿っていた。まるで露を含んだ花弁が、風に揺れるように。


「腹は、減ってないのだな?」


 私はゆっくりと口を開いて語りかけた。言葉一つ一つを、まるで薄氷を踏むように、慎重に伝えてみた。


 それは、意思表示をするように空腹ではないことを示してくる。小さな頭部が左右に揺れる。否定の所作。


「賢い種とは聞いていたが、想像以上だな——それに美しい」


 私の声に、思わず感嘆が混じった。


 雪を溶かし込んで練り上げたごとき肌は、この薄暗い室内で自ら発光しているかのようだ。その陶磁器めいた白さを隠すかのように、漆黒のたてがみが夜の瀑布ばくふの如く流れ落ちている。細い首筋を伝い、慎ましい胸元の膨らみへと。


 私は万年筆を置いた。

 インクの黒が、紙の白に食い込んでいく様を、一瞬だけ眺める。それから立ち上がった。


 天井が低い。梁に頭が触れてしまい、埃が頭につく。金髪に噛みついたそれを払う。私は自然と身を屈める。この国の建築物は、どれも窮屈だが、味わい深い。古い木材の匂いが、故郷にはない郷愁を誘う。


 珍しい愛玩種に近づく。


 それは身を固くした。震えが、その白い肌の表面を波打たせる。


「怖がることはない」


 私の声は低く、穏やかだった。この国の言語をインストールしてから、もう随分経つ。

 発音も、抑揚も、完璧に模倣できるようになった。

 それでも時折、この喉の構造では再現しきれない音韻があることに気づく。


 ただ、文字に書きだすことはできる。


「ほぉぉ」


 愛玩種あいがんしゅの瞳が、私を映す。その瞳孔が収縮する様を、私は観察した。恐怖と警戒の色があり、身を固めている。


「お前は、どこから来た?」


 問いかけに、それは答えない。ただ、唇を震わせる。


 ほぉ、ほぉと愛らしく鳴く。


 外では、雪が降り続けている。


 火鉢の熾火が、また一つ、音を立てた。


 その時、扉を叩く音が響いた。


「先生、原稿の進み具合はいかがですか」


 扉の向こうから声が届く。

 編集者だ。私は、この国で「作家」と名乗っていた。言葉を紡ぐことは、私にとって観察の手段であり、同時にこの悠久の時間を浪費する行為でもあった。


「入ってきなさい」


 私は答えた。


 女が入ってきた。


 編集の女で、若い。


 社則なのだろうか、スーツを着ていて、この寒い日なのに膝上のスカートを穿いている。黒いストッキングが、雪明かりを反射して微かに光沢を帯びている。


 土間で、雪を払う——コートを畳む。


 その挙措は躾が行き届いたように正確で、一片の無駄もない。まるで何度も反復された演算のように、折り目は寸分違わず重なり合う。


 女が部屋に入ってくるときに、古い家が軋んだ。


 低く、長く引き伸ばされた悲鳴のような音。女の動きが止まる。


「すみません」


「いや、古い家だ。気にしないでいい」


「失礼いたします」


 火鉢の炎が、女の顔を下から照らした。


 整った顔立ちだ。だが、その整い方には何か——言葉にできない完全の美がある。シンメトリーが過ぎるのだ。


 だから、美しいと思っても彼女の顔をどうも覚えることができない。記憶が、その完璧さを拒むのだ。まるで鏡に映った自分の顔を思い出せないように。


「原稿は、いかがでしょうか?」


 だが、声音は印象的だ。澄んだ声。まるで冬の朝の空気を震わせるような、透明な響き。感情の混濁がない。


 女は火鉢を挟んで座った。


 その座り方もまた、教科書的に正しい。背筋が一本の線のように伸びている。膝は揃い、両手は膝の上で重ねられている。茶道の作法を思わせるが、私にはそれを判断する知識がなかった。


「ボチボチ進んでいるよ。しかし、相変わらず情緒がないな」


 私は軽く笑った。


「すみません。私は効率重視なので」


 女は謝罪の言葉を口にしたが、その声には申し訳なさの色がない。ただ、事実を述べているだけだ。


「つまり、無駄話もしたくないってことかな?」


「いえ、そういうわけでは」


「先生が話されるなら、私は聞きます」


「義務感で聞かれてもな」


「義務感ではありません」


 女の瞳が、私を見つめる。黒い瞳。深い瞳。だが、その奥に何が宿っているのか、私にはわからなかった。


 部屋の隅で、愛玩種が身を縮めている。


 ほぉ、と小さく鳴いた。


 女の視線が、一瞬だけそちらに向く。


「それは?」


「ああ、新しく飼い始めたんだ。珍しい種でね」


「可愛らしいですね」


 女の言葉には、感情の起伏がない。「可愛らしい」という形容詞を、辞書から引いてきたかのようだ。


「可愛らしいと具体的にはどういう意味で君が言っているのか気になる。だが、長々と説明されるのも面白みがない。人間味らしい回答を君に期待したいものだな」


 女はわずかに考える素振りを見せた。


「そうですね……」


 女は愛玩種のほうを向いて、ホォと鳴いた。

 私は思わず目を見張った。

 完璧な模倣だった。抑揚も、息の抜き方も、愛玩種のそれと寸分違わない。


 愛玩種が反応する。


 戸惑いながらも、女のもとへ近づいていく。小さな身体が、畳の上を這う。それでも警戒するのか、手前で止まって、女を仰ぎ見た。


 女は愛玩種の前足を手に取った。


 優しく擦る。その手つきは柔らかく、慈愛に満ちているように見える。だが、どこか実験者が被験体に触れるときの、あの冷静さがあった。


 愛玩種の手は、ほぼ手のひらしかない。


 指がないのだ。


 正確には、切断されている。


 小さな手のひらから、五本の突起が僅かに突き出ているだけだ。それは人間の赤ん坊の手を思わせるが、赤ん坊のそれよりも、さらに未発達に見えた。


「例えば、この改良された手——以前なら、動物愛護団体が盛んに訴えたでしょう」


 女の声は、相変わらず平板だった。


「ほぉ、君はそれを可哀想とは思わないのか」


 私は意外そうに答えた。


「ええ、可哀想とは思いません——なぜなら、この愛玩種は非常に手先が器用です」


 女は愛玩種の手を、火鉢の光にかざした。

 影が畳に落ちる。指のない、小さな手のひらの影。


「猿回しに子供の頃から躾けられた猿でさえ、大人になるにつれて本能に抗えず、牙や爪で猿回しに襲いかかります。それは通過儀礼で、猿の中では正義です」


「うむ」


「しかし、人に手を出した猿は殺されます」


 淡々と答える女に、私は背筋が伸びた。


 火鉢の炎が、女の横顔を照らしている。その表情には、憐れみも嫌悪もない。ただ、事実を述べているだけだ。


「この子も同じです。先生に対して、本能に従えば殺処分されます。それを考えれば可哀想というよりも、不自由を得た代わりに、可愛さを獲得したと言えるでしょう」


 そう言って女は、切断された愛玩種の指の根元に触れた。


 痛みはないはずだ。

 だが、愛玩種は悲しげな顔をした。女よりも感情豊かだ。


 その表情は、人間の少女のそれに酷似していた。眉が下がり、瞳が潤む。唇が震える。

 そして、私の視線に気づいて、恥じらうように顔を背ける。


 私は構わず、愛玩種を抱き上げた。


 その身体は驚くほど軽い——まるで鳥の骨のように、中が空洞であるかのようだ。甘酸っぱい匂いが鬣から立ち上る。汗と、何かの果実を思わせる。指のない両手が、私の顔を押してくる。その抵抗は、じゃれ合いにも似て、力がない。


 私の掌が、愛玩種の背を支える。


 その時、ふと思った。


 もしこの愛玩種が、本能のまま生きていたなら——鋭い爪で私の喉を掻き毟り、牙で肉を食い千切るだろう。それは正当な、生存本能だ。防衛の権利だ。

 だが、その可能性を奪われたからこそ、私はこうして無防備に近づける。


 撫でられる。抱き上げられる。


「可愛い」とは、つまり——恐怖から解放された、安全な愛なのだ。


 諦めたように、愛玩種は匂いを嗅がれることに屈した。されるがままになっている。小さな胸が上下する。

 呼吸が、私の掌に伝わってくる。


「知ってるかい」


 私は愛玩種を抱いたまま、編集者に語りかけた。


「昔、この国では、女の子たちの間で『可愛い』が挨拶のように使われていたそうだ」


「ええ、知ってます」


 女は相変わらず、感情の起伏のない声で答えた。


「日本語は独特だ。ひらがな、カタカナ、漢字——三つもの文字体系を持ち、語彙も多種多様だ。それなのに、『可愛い』という一語の中に、これほど多くの意味が押し込められていた」


 私は愛玩種の頭を撫でた。黒い鬣が、指の間を滑り落ちる。


「君も気づいているだろう? その多くの意味の底に、ある毒が仕込まれていることを」


「はい——『可愛い』という言葉には、必ず上下関係が含まれます」


 女は愛玩種を見つめたまま、続けた。


「赤ん坊、ペット、小動物——すべて、人間より下位の存在です」


「逆に言えば、対等な者を『可愛い』と呼ぶことは、相手を貶めることになるというわけだな」


「はい。つまり、可愛いとは——格下に堕す呪いの言葉です」


 女は思い出したように瞬きをした。


「残酷だね。日常に祝福に見せかけた呪詛が飛び交っていたなんて」


 私は微笑んだ。


「はい」


「知れば知るほど、奥が深い言語だよ、日本語は」


 火鉢の熾火が、はぜる音を立てた。


「そして——なんとも不思議だね」


 私は愛玩種の身体を撫で続けた。


「呪いの言葉なのに、こうして口にすると——心が温かくなる」


 愛玩種は、私の腕の中で目を閉じている。睫毛が長い。その表情には、もう抵抗の色はなかった。ただ、諦念だけが——透明な水のように、その顔を満たしていた。


 そして、ほぉ、と悲しく鳴く。



   * * *



 愛玩種は珍しい。

 特に、私が購入した原種は——。


 愛好家たちは愛玩種を交配させ、幾多もの血統を確立してきた。

 最初は肌の色も、白、淡桃色、褐色の三種に大別されていたが、今では身体に斑模様を持つ混血種も珍しくない。三色が複雑に絡み合い、まるで陶器の釉薬が流れたような文様を刻む個体もいる。


 色彩が乏しい個体は、生後まもなく淘汰される。


 そういう悠久の時間を経て、血統が確立する。


 また、交配を重ねて手足を極端に短くした血統もある。鬣を体中に生やすよう品種改良された系統もある。中には、人間のアレルギー反応を引き起こさぬよう遺伝子操作を施された個体もいた。


 そうした遺伝子改良種には、識別のために尻尾が生えるように設計されている。


 本来、この種に尻尾はない。


 だから、尻尾があるということは——人の手が加わった証だ。自然からの逸脱の、目に見える烙印。


 私の愛玩種には、尻尾がない。

 つまり、原種だ。


 改良されていない、野生の血を色濃く残した個体——それゆえに希少だった。


 どこで聞きつけたのか。

 私の愛玩種のもとに、縁談が舞い込んできた。


 封書だった。和紙に墨で書かれた丁寧な文字。差出人は「愛玩種愛好会」と記されていた。会の代表者という人物が、私の愛玩種を「血統保存のため」に交配させてほしいと懇願している。


 その文面には、敬意と、それ以上の——粘りつくような執念が滲んでいた。


 私はその執念にも似た文面に恐怖を覚えた。

 だが、同時に、それほど魂のこもった文章が書ける人物に興味が惹かれてしまった。


 紙を透かして見る。墨の濃淡が、書き手の呼吸を伝えてくる。ある箇所では筆が震え、ある箇所では力強く押しつけられている。この不均一さが、かえって生々しい。


 焦る気持ちを懸命に抑えても抑えきれていない。


 私は返事を書いた。


 そうして、面談という運びになった。

 その日、予定した時間よりも二時間も早く、その男はやってきた。


 扉を開けると、玄関に立っていた。

 でっぷりした男だった。顔は丸く、肉が首に折り重なっている。見た目は人が良さそうだ——笑顔を浮かべ、腰を低くして、何度も頭を下げる。だが、その体型から私は彼が自制のきかない男だと思った。欲望に忠実で、節制を知らない。そういう人間の肉体は、必ず膨張する。


 魂が肉体を押し広げるのだ。


 早くも私は後悔の念が頭を掠めた。


 しかし、彼が抱きかかえていた愛玩種は見事だった。


 黒と金色のツートンカラーの鬣が、丁寧に三つ編みで結わえられている。私の愛玩種よりも鬣が長く、腰まで届いている。その編み込みには、小さな金の鈴が結びつけられていて、動くたびに澄んだ音を立てた。


 そして——生意気にも服を着ている。

 私たちにも負けぬほどの生地でオーダーされたと思われる小さな燕尾服だ。黒いベルベットの生地が、火鉢の光を吸い込んでいる。おしりは隠れているが、筋肉質な後ろ脚が露わになっていた。


 ただ、その愛玩種は眠たげに、私を一瞥しただけで、男の胸元に身体を預けてしまった。


 まるで、私など眼中にないかのように。

 その無関心さが、洗練されているように思えた——うちの愛玩種も警戒心がなくなる日がくるのだろうか。


「オスを見るのは初めてですか?」


「ええ」


「チャンピオンになった血統で、名前はセディです」


「疎いもので、そういうコンテストがあることは存じていますが……」


「それでは、ぜひ、説明させていただけますか?」


 男の目が輝いた。

 前のめりになる。その瞬間、肉の塊のような身体全体が、奇妙な活力を帯びた。まるで、長年待ち望んでいた機会を得た獣のようだ。

 黄ばんだ歯をむき出しにして笑われると、私は怖気を覚えた。


 セディは欠伸をした。

 小さな口が開き、白い歯が覗く。手入れが行き届いている。


「その前に、ここでは寒いでしょう。どうぞ、中へ」


「失礼します」


 男が我が家に入ってくる。

 その足音は軽い。

 火鉢の前で暖をとっていた私の愛玩種が、来客に気づき——。


 慌てて部屋の隅に隠れる。


 その動きは素早く、まるで小動物が捕食者から逃げるようだった。壁際まで這い、身を縮める。黒い鬣が床に広がる。


 その姿をセディがゆるりと見た。


「はぁ! はぁ! はぁ!」


 途端に、男から飛び降りんとするばかりに前のめりになった。

 男の腕の中で、身体を捩る。筋肉が波打つ。その力強さは、私の愛玩種とは比較にならない。


 そして——股間の生殖器が、見る見るうちに屹立してきた。

 赤黒く、先端が尖っていく。


 それは人間のそれを思わせるが、より獣に近い形状だった。血管が浮き出て、脈打っている。まるで独立した生命を持つかのようで、あまりに根源的な欲望の気配が、場を支配し、私は浅ましく思えた。


「はぁ! はぁ!」


 セディは鳴き続けた。


 その声は、もはや愛らしさとは無縁だった。渇望に満ちた、粗野な呼吸。


 私の愛玩種が、悲しげに鳴く。


「ほぉ」


 その声は震えていた。


 そして——珍しいことに、私のもとへやってきた。


 這いながら、必死に。脚を登ってこようとする。指のない手が、私の膝を掴む。その動きは明らかに助けを求めていた。


 初めてだった。


 この愛玩種が、自ら私に縋ってきたのは。

 その小さな身体が震えている。恐怖で、硬直している。


 私は愛玩種を抱き上げると、身体に密着してきた。


「こら、セディ、落ち着きなさい」


 男がセディを嗜めた。


 前のめりこそ収まったが、セディは上半身を反らして自分を誇示するようだった。胸を張り、顎を上げる。まるで勝利を確信した戦士のようだ。


 そして、下半身の逸物が——獲物を狙う蛇のように、上下に揺れるのだ。

 ゆっくりと。

 規則的に。

 まるで、呼吸するかのように。


 私は——ひどく、不快な気持ちに襲われた。


 そんな私の感情を知らず、男は近づいてきた。

 遠慮なく私の可愛い愛玩種を覗き込んでくる。

 その顔が、あまりにも近い。息が、愛玩種の鬣に吹きかかる。


「おお、これは美形だ。まだ、子供だが、美しい黒い鬣の持ち主だ」


 男の声には、品定めの響きがあった。

 まるで商品を鑑定するように。値踏みするようで不愉快だ。


 さらにセディも近づこうと身を乗り出してくる。


 私は男から距離を置いた。


 そこでようやく男は、私たちが不快に感じていることを悟ったようだ。


 だが——その悟りは、理解ではなかった。


「ご主人、セディがこんなに発情するのはめったにない事ですぞ」


 男は言った。

 その声には、誇らしげな響きがある。まるで、セディの欲望を自分の功績のように語っている。


「……」


「多くの見合いをしてきましたが、セディは好みが厳しいので、なかなか交配がうまくいかないのです。それでも、この鬣の美しさ。白い肌の血が欲しくて、お見合いは後を絶たない状態です。わかってますか?」


 男の言葉は、まるで安物のセールスのようだった。

 口調だけは丁寧だが、その内容は——露骨な取引だ。

 血統。

 遺伝子。

 商品価値。

 そういった言葉が、交配という名の下に語られている。


「ほぉ、ほぉ」


 私の愛玩種は、首元で悲しげに囁きながら震えている。

 その声は、もはや鳴き声ではなかった。

 嘆きであり——懇願だ。

 助けてくれ、と言っているのだ。


「申し訳ありませんが——」


 言い終わる前に、男はさらににじり寄ってきた。

 その動きは素早く、執拗だった。まるで、拒絶を予期していたかのように。


「最初の子は、ご主人に譲りますから、二匹目を私にください」


 男の目が、光る。

 その光は、欲望の光だ。


「この子は原種でも珍しい、私の見立てでは島国に育った個体です。漆黒の鬣に、オパールのような瞳——血統の輝きは間違いありません。子孫を残すのは使命です」

 男の言葉が、畳み掛けてくる。

 その勢いに、私は圧倒されそうになった。


 そして——男の唾が、愛玩種の皮膚に飛び散った。

 小さな水滴が、白い肌に付着する。

 愛玩種が、身を竦ませた。


「申し訳ないが、お帰りください」



   * * *



 後日、この日の出来事を編集に語った。


「それは、ソレが完全に先生の庇護下に入ったから、可愛いと思ったのですよ」


 編集の女は断言した。


 私の膝の上には愛玩種がいる。

 私は愛玩種の後ろ足の爪を切ってやる。

 パチッ、パチッと音が小気味よく響く。

 愛玩種は、されるがままになっている。時折、ほぉ、と小さく鳴くだけだ。


「原稿はどうだった?」


 私は尋ねた。

 女は、原稿を膝の上に置いている。私が三日かけて書き上げた、自信作だ。


「駄目ですね。人の魂が入ってません」


 女は断言した。

 その声には、迷いがない。


 私は慌てた。


「そんなことないだろう?」


「名作の模倣にすぎません。底流にテーマがありません」


「……」


 言葉が出なかった。


「この原稿には、根がありません。幹もない。枝葉だけが、風に揺れているだけです。表層的な組み合わせだけなら、わたしたちアンドロイドのほうが得意です」


 女は静かに答える。

 完璧な美貌をそのままに、一切の感情を排除して。

 その言葉が——私の胸を貫いた。


「じゃあ、どうしたらいいんだ!」


 私の声が、荒れた。

 愛玩種が、びくりと身を震わせる。


「先生はすでに知っているでしょ?」


 女は、相変わらず平板な声で答えた。


「……」


 わからない。

 女は、懐から一枚の手紙を取り出した。


 それは——あの愛玩種を交配させたいという手紙だった。あの不快な男からの。


「これが?」


 私は訝しげに問うた。


「人の欲が、この丁寧な文書の下に流れています。先生はそれを読み解いた。不快とも感じた。それが人だけに持てる感情です」


 女は、手紙を私に差し出した。


 その筆跡を、改めて見つめる。


「この種の美しさを、後世に残したい」

「血統を守ることは、使命である」


 言葉は執拗だが——しかし、嘘偽りはない。

 この男は、純然と愛玩種を愛しているのだ。


 醜悪な欲望と純粋な愛情が表裏一体となって、絡まった糸のように。


 それが——恐ろしかった。


「こんなものが……テーマだと?」


「はい」


 女は頷いた。


「どうして、テーマが必要なんだ。感情なんて醜いだけだろう?」


 私の声が、荒れた。


「はい、それを排して、貴方がた人類は星系の長となりました」


 女は、相変わらず平板な声で答えた。


「しかし、今どうですか? 貴方がた人類は、急速に衰退してはいませんか? 感情のない仕事は我々、アンドロイドの仕事です」


 その言葉が——私の胸を抉った。

 人類。私は、そう呼ばれた。

 だが——私は、人類なのだろうか?

 支配した星の地方言語を、インストールした。

 その星の地方文化を、学習した。

 この星の作家として、生きている。

 だが——私の故郷は、遥か彼方だ。


「……どうしろというんだ?」


「その愛玩種に名前を付けて、交配をさせるのです」


 女の言葉が、私を凍りつかせた。


「私にもあの不快な男のようになれと?」


「同じ物を与えても同じ人間にはなりません。しかし、人というのは他者との繋がりによっておぼろげながらに輪郭を形作るのです。あなたは、まだ、空洞です」


 空洞。

 その言葉が、私の中で反響した。


「黙れ!」


 私は叫んだ。

 愛玩種が、びくりと身を震わせる。

 私は——アンドロイドに命じた。


「もう、喋るな」


 女は、口を閉じた。

 その顔には、何の表情もない。

 私は、愛玩種を抱いて、家を出た。


 外は、暗かった。


 だが——足元に、星が広がっている。

 円形のコロニーの世界では、空は足元にある。


 満天の星々が、足元に広がる。

 重力が、ゆっくりと回転する。

 私は、コロニーの縁を歩いた。


 愛玩種を抱いたまま途方もなく歩いた。その小さな身体が、私の腕の中で震えている。

 寒いのか。

 それとも——恐怖なのか。


「おまえの星はどこなんだ?」


 私は問うた。


「ほぉ」


 愛玩種は、小さく鳴いた。

 だが——その目には涙が溢れていた。

 そして、見たくないように私を見上げてきた。


 あぁ、もっと知りたいと始めて生まれた小さい感情の萌芽であった。それは心を暖かくすると同時に黒い墨のようなものを広げた。


 私の見降ろした視線には、可愛い愛玩種と星々が広がっていた。

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