願いを叶える絵馬子ちゃん

笹野にゃん吉

願いを叶える絵馬子ちゃん

 教室に入るなり、友里恵に「ありがとう!」と抱きつかれて絵馬子はよろめいた。

 おおかた察しはついていたけれど、肩をおし返して「どうしたの」と訊ねてみれば、案の定だ。「絵馬子に書いた願いが叶った!」なんて、友里恵は目をキラキラ潤ませながら言った。


「だから、そんな力ないってば」


 絵馬子は半ば呆れつつも自分の口元が緩むのを感じた。友里恵が高崎くんに好意を寄せていることは、絵馬子だけが知るふたりだけの秘密などではなく、周知の事実だった。廊下で高崎くんとすれ違っただけで顔が真っ赤になるくらいだから、きっと高崎くん本人も気付いていただろう。


「絵馬子のおかげに決まってるよ! ホンっトありがとっ!」


 友里恵にまたきつく抱きしめられると、かすかに香水の匂いがした。いつもと違う香りだった。背中をぽんぽん叩いてやると、手のひらから友里恵の高鳴った鼓動が伝わってきた。

 よかった。願いが叶って本当によかった。

 鼻の奥がツンとして涙が出そうになったところに、クラスメイトたちがぞろぞろと集まってきた。


「わたしも絵馬子に何か願っとこうかなー」

「ウチが前に書いたやつも、そろそろ叶うかも!」

「えっと、オレも書いてみていい?」


 涙がひっこんだのと同時に、絵馬子は露骨に頬を引きつらせてみせた。けれど、クラスメイトたちは早くも願いを夢想するのに躍起になって、絵馬子の表情には気付いていない様子だ。一枚、二枚とノートの切れ端なんかに書かれた願い事が、絵馬子の机に重なっていった。

 神社なんかに願いを書いて奉納するあれと同じ字が入っているせいで、絵馬子の元にはこうしてたくさんの願い事が集まってくる。最初は友里恵が遊びのつもりで始めたのが何故か人気を呼び、人が集まると謎の信憑性が生まれ、今では別のクラスからも願い事がやって来るまでになってしまった。友里恵の恋が成就したからには、これからさらに〈絵馬子教〉は大きくなってゆくのだろう。

 健気にこんな迷信を信じてしまえる彼らには呆れるが、たくさんの願いに目を通すのは、絵馬子も嫌いではなかった。名前が書かれているわけではないから誰の願いかわからないが、おかげで人の秘密を盗み見ている後ろめたさはなかった。ゆいいつ後ろめたさを感じることがあるとすれば、願い事の書かれた紙をポケットに入れたまま制服を洗ってしまった時だろう。もっとも、それも「洗濯物が紙だらけじゃない!」と母に叱られれば、すっかり忘れてしまう程度のものなのだったけれど。



――



 母とふたりで夕食の片づけをしている時、なんとなく〈絵馬子教〉の話になった。

 実を言えば、なんとなくではなかった。

 友里恵のことが嬉しくて母にも聞いて欲しかったのだ。


「よかったじゃない。やっぱりお母さんが名付けて正解だったわね」


 絵馬子は皿洗いの手をとめ、母親の横顔をじっとりと睨みつけた。


「最悪。お母さんがつけたんだ。変な名前のせいで毎日、紙に埋もれて大変だよ」

「あらやだ。エマコってそんなに変な名前?」

「字が変なの、字が」

「おかげで色んな子と話すんでしょ。なら、いいじゃない」


 とっさに反発したくなったが、そう言われると確かにそうだった。この名前じゃなかったら、友里恵とも友達になっていなかったかもしれない。

 けれど中学の頃まで、絵馬子はこの名前が大嫌いだったのだ。からかいの対象でしかなかった、この名前が。

 昔と今、それぞれの思いが胸に渦巻いた。

 その結果、口をついてでたのは負け惜しみじみた台詞だった。


「……迷惑してるんだよ」


 

――



 高崎くんと付き合うようになってから、友里恵は見るからになった。

 もともと学校でも薄らメイクをしていたし、ピアスもあけていたけれど、かつてのそれは「同性にさえわかればいい」という身内むけに発信された可愛さで、若気の至りとでも言うべき派手派手しさを感じたものだ。それが今では明らかに男性の視線を――高崎くんを意識したものへと変わっていた。恋愛の浮ついた雰囲気こそ発散しているものの、妙に落ち着いて清楚な感じがするのだった。

 絵馬子は、友里恵の派手さが嫌いではなかった。自己主張が苦手な絵馬子と違い、「これがわたし!」と堂々と言ってのけるような友里恵の佇まいに憧れめいたものを感じていたのかもしれない。

 でも、今の友里恵は最高に綺麗だ。のろけ話をされるのは少々うっとうしいけれど、高崎くんのことを話しているときの笑顔は花が咲いたかのようで、見ている側まで幸せな気持ちにさせてくれるものだった。「あー、しあわせそうでうざいうざい」と適当にあしらうことはしょっちゅうあったけれど。この笑顔がいつまでも萎れなければいい、と絵馬子は内心そう思っていた。

 ところが、絵馬子の願いとは裏腹に、友里恵の幸せはそう長くは続かなかった。


「……ユリ?」


 ある朝、絵馬子が登校すると、友里恵が机に突っ伏しながら肩を震わせていたのである。

 クラスメイトたちの反応は真っ二つに分かれていた。気づかわしげに友里恵を一瞥するのと、逆に友里恵をないもののように無視して談笑したりするのとだ。前者は、絵馬子が教室に入ってきたのがわかると、訴えるような目を絵馬子に向けてきた。

 あんたがいちばん仲いいでしょ。友里恵の相手してやんなよ、と。

 言われなくてもそのつもりだった。


「ユリ、どうしたの?」

「……」


 友里恵は鼻を啜る音をさせただけで言葉らしい言葉は発しなかった。

 絵馬子はあからさまに狼狽した。友里恵が泣いているのなんて初めて見たからだ。

 何があったのか。だいたい予想はついていた。でも、それを訊ねる勇気がなかった。絵馬子は、近くの椅子を拝借して、友里恵の隣に腰かけた。

 そして、恐るおそる友里恵の背中に触れた。一瞬、相手の背中がぴくりと跳ねるような動きをみせたけれど、拒絶されることはなかった。絵馬子は親友の背中をゆっくりと撫で始めた。


「……絵馬子」


 ようやく友里恵が顔をあげた。一目でこれは重症だとわかった。目元が真っ赤に腫れているのはともかく、まったくメイクをしていないのだ。すっぴんの友里恵を見たのも初めてだった。

 どんな言葉をかけるべきだろうか。――わからなかった。絵馬子はただ親友の縋るような目を見返して頷くことしかできなかった。


『フラれた』


 友里恵は声を出さずに、あるいは出せずに、唇の動きだけでそう伝えてきた。

 察しはついていたはずなのに、絵馬子は胸を針で突かれたような痛みに襲われた。

 理由を訊ねるべきか迷った。声も発することができなかった友里恵に、それを言葉にさせるべきなのか。絵馬子にはわからず、「あ」とか「う」とか言葉にならない呻きが漏れ、気付くと涙が頬を伝っていた。


「……なんで」


 友里恵は泣き笑いのような表情を浮かべた。それは瞬く間に苦悶一色に染まった。涙を堪えるようにきつく目を瞑ったかと思うと、友里恵は俄然おおきな声でこう言った。


「願い事、ぜんぜん叶ってないじゃんっ」


 絵馬子は頬に手をやった。涙を拭うためではなかった。頬を思い切り平手でぶたれたような気がしたからだ。


「ごめんね」


 絵馬子は慌てて涙を拭い、へなへなした笑みを浮かべると友里恵に踵を返した。


「ちがっ……」


 背後から釈明するような声が聞こえたけれど、絵馬子は友里恵の方を見られなかった。機械的に椅子を戻し、自分の席についた。スマホで時間を確認すると、ホームルームまであと五分しかなかった。どのみち長話する余裕はなかったのだ。そんなことを自分に言い聞かせながら一限の準備にとりかかった。



――



「……ただいま」


 絵馬子は寄り道もせずに家に帰った。

 母はまだ仕事中で、家には誰もいなかった。一目散に二階へ上がり、自分の部屋のベッドに身を投げ出すと大きなおおきなため息がでた。ベッドカバーが湿っぽい吐息を吸い込み、顔の周りで温くなった。半端なぬくもりは煩わしかった。絵馬子はベッドの上をごろりと転がった。


「わあっ!」


 いきおい余ってベッドから転げ落ちた。床にあたまや背中を打ち付け、絵馬子は悶絶した。

 

「サイっアク……!」


 結局、床の上で大の字になって天井を見上げた。シミの数をかぞえる気になんかならず、シミの形が人の顔に見えてくるなんてこともなく、絵馬子の意識はあっという間に友里恵に引き寄せられていった。


『願い事、ぜんぜん叶ってないじゃんっ』


 友里恵の気持ちはよくわかっているつもりだ。深い悲しみに打ちのめされたら八つ当たりのひとつくらいしたくなるだろう。一番つらいのは友里恵なのだ。なのに、なぜか目の前で絵馬子が泣き出したから、お前じゃないだろとイラついたりもしたに違いない。

 それでも、あの言葉は楔のように胸に刺さったまま抜けてくれなかった。

 書かれた願い事を叶える力なんてない。そう周囲に呆れていたのは絵馬子自身のはずなのに。思いもよらず、あの言葉に傷ついていた。

 そうだ。願いが叶うなんてバカバカしい。でも、そんな遊びが絵馬子を救ってくれたのだった。

 

 絵馬子はずっと自分の名前が嫌いだった。おかしな名前は、からかいの標的にされてきた。あからさまに虐められることこそなかったものの、面と向かって変な名前と馬鹿にされ、派手なグループからは、しばしば嘲笑じみた陰口の対象にさらされた。親を馬鹿にされたのも一度や二度ではない。大切な家族を蔑ろにされた憤りを覚えるのと同時に、こんな名前つけやがってと親を恨んでしまう自分自身まで嫌いになっていた。

 高校に入学した当初は、また名前のことを言われるのだろうと暗鬱としていた。担任から告げられた清掃の担当はトイレで、しかも一緒になったメンバーのひとりは、一目見ただけでスクールカースト上位に君臨することを予感させる派手な子だった。

 絶対に仲良くなれないタイプ。教室でやたら大きな声でしゃべり、陰口で思春期の満たされなさを埋めようとする人種。一目でそう決めつけた。でも違った。

 その派手な少女――友里恵は、トイレで一緒になった途端、仔犬が駆け寄ってくるみたいにパタパタやって来るとこう言ったのだ。


『絵馬子ちゃんってめちゃくちゃイイ名前だね! ご利益ありそう!』


 イイ名前なんて言われたのは初めてだった。絵馬子はとっさに友里恵の言葉を否定してしまった。いい名前なんかじゃないと。余計だったと言ってしまってから気付いた。これじゃあ第一印象は最悪だ、目を付けられるかもしれない、と絵馬子は絶望的な気持ちにまでなったが、それはまったくの杞憂だった。友里恵は、えーっと目を丸くしたかと思うと、ニッと太陽みたいな笑みを浮かべてこう続けた。


『あたしは絵馬子ちゃんの名前すきだよ! めっちゃすき!』


 あれから絵馬子の名前は、特別な名前になった。大嫌いな名前を少しだけ愛してもいい。そんな気になった。友里恵が願い事を書いてきた。叶ったらいいよねと。自分の名前を好きになった。願い事を書く遊びが広がり、絵馬子の周りに人が増えた。自分の名前が誇らしくなった――。


 涙がほろりとまなじりから零れた。

 ベッドから落ちてあんなに痛がった頭より背中より、胸の奥がうずいていた。

 明日からどうしよう。入学当初のあの頃よりも明日が憂鬱に思えた。



――



 おはようとは、ちゃんと言えた。友里恵も挨拶を返してくれた。

 友里恵からのごめんがあって、絵馬子からのいいよがあった。

 それで元通り――とはならなかった。

 友里恵がまた泣き出すと、ふたりの時間は昨日に巻き戻ってしまった。

 いや、昨日よりも悪かったかもしれない。絵馬子は友里恵を宥めることができなかったからだ。ただ友里恵の隣にいて、触れることも、なにを言うこともできずにホールムールの時間になってしまった。

 絵馬子は休み時間になると、友里恵とは別の友達と過ごした。放課後は友達と談笑したり、食べ歩きをしたりする気にもなれず、一直線に帰路をたどった。


 その次の日も、また次の日も、友里恵との関係は回復しなかった。

 挨拶はするし話しもした。けれど互いの視線が一ミリだけずれているみたいなよそよそしさがあった。

 次第に、絵馬子は友里恵との時間を息苦しく感じるようになった。ふとした瞬間、泣き出してしまう友里恵に、以前とは違う自分たちの関係に、どれだけ涙を溶かしても溶け切らない粘液のような苦痛が付きまとった。

 

「――どうしたの? ボーっとして」


 母の声で、絵馬子は我に返った。


「わっ」


 危うく手にした箸を落としそうになって、あわてて摑んだ。箸の先からずいーっと糸が伸びたのを見て、まだ納豆を混ぜる途中だったのを思い出す。納豆は絵馬子の好物だった。でも今は、箸の先にまとわりつくネバネバを見ているうちに食欲が失せてゆくのを感じた。


「やっぱ、これいらない。あげる」

「あんたが納豆食べないなんて珍しいわね。本当にいいの?」

「いいってば」

「じゃあ、ありがたく」


 母が納豆のパックを自分の前に引き寄せにっこり笑う。絵馬子の様子がおかしいことには気付いているだろうに、母はわざわざそれについて訊ねたりはしない。でも、それは我関せずの拒絶ではない。ただひとりの娘がいつでも悩みを打ち明けられるように、余裕を装っているのを絵馬子は知っている。


「わたし、ずっと自分の名前が嫌いだった」


 母が納豆をまぜる。でもその目は納豆を見ていない。娘を見ている。


「でもユリのおかげで好きになれたの」


 絵馬子は自分の思いを話した。

 名前のこと。友里恵のこと。――友里恵の失恋のこと。

 母はときどき相槌を打つだけで、余計なことはいっさい口にしなかった。ただじっと話を聴いてくれた。


「――高崎くんと何があったかも知らない。知ろうともしてない。そんな自分が大嫌い」


 自分ひとりで話していると、だんだん脱線し、収拾がつかなくなって、言いたいことも分からなくなってきた。涙がでて、茶碗のご飯を一気に吞み下そうとしたみたいに胸が詰まった。

 母はいつまででも聴いてくれた。絵馬子の嗚咽まで、まるで重大な言葉であるかのように。じっと。

 そんな母がようやく口を開いたのは、絵馬子が落ち着いてコップの烏龍茶を飲み干した時だった。


「前に、絵馬子って名前は、お母さんがつけたって言ったでしょ?」

「うん」

「でも最初はね、おじいちゃんにもおばあちゃんにも反対されちゃった。わたしたちの時代でも、そんな名前の子がいたらいじめられるって」


 絵馬子は中学までの自分を思い返さずにはいられず、口の中に苦い汁が湧き上がってくるのを感じた。

 だけど、母は当時の絵馬子の苦悩についても、やはり気付いていないわけではなかった。いつか絵馬子が「学校に行きたくない」と言った時、母は「じゃあ行くのやめな」と、いつになく優しく言ってくれたのだ。行かなくてもいい、そんな選択をしてもいいのだと思ったら、不思議と心が軽くなったのを憶えている。

 母は、ずっと絵馬子を見続けている。その目がかすかに細められた。絵馬子には、母がごめんねと謝っているように思えた。母は続けた。


「お父さんは、あからさまに反対したりはしなかったけど、やっぱりいじめられるかもとかそういう心配はしてた。お母さん自身もそうだった」

「え、お母さんも?」

「意外でしょ」


 母は、いたずらがバレた子どもみたいにはにかんだ。


「でも昔、お母さん絵馬に願い事を書いて、それが叶ったの。叶い続けてるの。だからどうしても絵馬って文字を、あなたの名前にいれたかった」

「どんな願い事を書いたの?」

「小鳥遊さんって人、たまにうちに来るでしょ?」

「あー、お母さんのお友達ね」

「そう。あの子とずっと仲良しでいられますように。それがお母さんの書いた願い事なの」


 絵馬子の脳裏にぱっと友里恵の笑顔が浮かんだ。

 小鳥遊さんはお母さんにとって、絵馬子にとっての友里恵のような存在なのかもしれないと思った。


「じゃあ、今わたしが願ってること叶うかな?」


 絵馬子がそう訊ねると、母は微笑んだ。「じゃあ行くのやめな」と言ってくれたあの時と同じ優しさで。


「当たり前じゃない。あんたは願いを叶える絵馬子ちゃんなんだから」



――



 両親の朝は早く絵馬子がベッドから抜け出す頃には、ふたりとも家にいないことが多かった。翌日の朝もそうだった。家の中はしんと静まり返っていた。制服を着るだけで、ひどく緊張した。学校に行くのが怖かった。でもこの気持ちを打ち明ける相手はいなかった。

 友里恵との関係がもとに戻らなかったらどうしよう。そもそも友里恵が学校に来なかったらどうしよう。

 不安ばかり膨れ上がって、昨夜はろくに眠れなかった。

 でも、そんな不安は食卓に着くと吹き飛んだ。ラップのされた朝食の側に書き置きが残されていたのだ。そこには母の字でこう書かれていた。


『行ってらっしゃい』


 いつか「じゃあ行くのやめな」の一言が絵馬子の心を軽くしてくれた。

 でも今は、あの時とは反対の一言が勇気をくれる。

 あれこれ考えてみても仕方がない。

 絵馬子は自分の頬を両方からぺちんと叩いて気合を入れた。


「行ってきます」


 朝食を平らげ、母の書き置きをポケットに入れると、絵馬子は家をでた。

 あいにくの雨模様ではあったが、さほど憂鬱な気持ちにはならなかった。昨日まで朝の通学路は、晴れていてもどんよりと翳って見えた。それが今日は、むしろ少し明るく感じられた。低い位置を飛ぶツバメも、雫を負った道端の雑草も、濡れて黒ずんだアスファルトまで、すべてが絵馬子の今日をささやかに祝福しているかに思えた。

 それでも学校に近づくにつれて、絵馬子の足取りは重くなっていった。まるで学校を中心に絵馬子を近づかせまいとする斥力が発生しているかのようだった。実際は、その逆だった。絵馬子の心が学校から、友里恵に拒絶される恐れから遠ざかろうとしていた。


「……大丈夫」


 絵馬子はポケットの母の書き置きをくしゃと握りしめた。


「わたしは願いを叶える絵馬子ちゃんだ」


 不安は消えなかったし、一歩ふみ出すごとに膨れ上がってゆくような気さえした。

 それでも見えない何かに背中を押されるように、やがて絵馬子は校門をくぐった。教室のドアに手をかけた時にはバクバクと心臓が鳴っていた。


「おはよう!」


 思い切ってドアを開けると同時に、体育の授業中でさえ出さない大きな声がでてしまった。教室中の視線がいっせいに絵馬子のもとに集中した。絵馬子は、自分の耳がカッと熱くなるのを感じたが、逃げるでもうつむくでもなく、友里恵の姿を探した。


「……」


 目が合った。

 友里恵はぎょっとした顔つきで、絵馬子を見返していた。

 その表情が不意に崩れた。

 友里恵がぷっとふき出したのを見て、絵馬子も可笑しくなって笑った。

 心の斥力が解けた。

 絵馬子は友里恵のもとに駆け寄った。


「絵馬子いまのなにっ? キャラ変?」

「わたしもわかんない」


 そこでまた笑いが起きた。絵馬子ははにかむ程度だったが、友里恵は腹を抱えて笑った。


「笑いすぎでしょ」

「だって……!」


 やがて笑いが収まると、ふたりは互いの顔を見つめ合って苦笑した。その表情に昨日までの気まずさがすべて詰まっていた。いや、今日からもまだ距離が残るのかもしれない。それではいけないと絵馬子は思い、あわてて鞄からノートを取り出してページを一枚やぶった。


「え、なに?」

「ちょっと待って」


 困惑する友里恵を制すると、絵馬子は破ったノートにでかでかと文字を書き込んだ。そして、それをばっと取り上げると、両端を摑んで賞状か何かのように、友里恵に差し出した。


「受け取って」

「あ、うん」


 友里恵もそれを賞状のように恭しく受けとった。絵馬子が手にしていた方がぺろんと垂れた。それでまた友里恵が吹きだした。


「モー、なにこれ?」

「たまには私も書いてみてもいいかなって」

「……」


 友里恵は微笑むと、絵馬子から受け取った紙の表面を撫でるような仕草をした。

 絵馬子はそこに自分の願い事を書いた。それは奇しくも、いつか絵馬子の母が、絵馬に託したものに似ていた。


『ユリとずっと仲良しでいられますように!』


 もちろん母を真似たわけではなかった。自然とこの言葉が湧き出してきたのだ。いまさらになって、こんな青臭い言葉を書いてしまったことに恥ずかしさが込み上げてきた。と同時に、友里恵が願い事の紙から目をあげた。そのまなじりに涙が膨れてゆくのを見て、絵馬子は恥ずかしさを忘れ、ただただ友里恵をきれいだと思った。

 友里恵もあたらしい願い事を書いてくれた。


『絵馬子とおばあちゃんになっても一緒にいられますように!』


 互いの願い事を交換し終えると、友里恵がおずおずと訊ねてきた。


「あたしたちの願い事……叶うかな?」


 絵馬子はまた母の書き置きをポケットの中で握った。

 その手で今度は友里恵の手をとると、絵馬子は満面の笑みを浮かべてこう言った。


「一緒に叶えよう」

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願いを叶える絵馬子ちゃん 笹野にゃん吉 @nyankawa

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