第8話 沈黙の神々

 その日、砂漠の風は止まっていた。

 黒い壁の前で、誰もが息を潜めていた。

 アークがチョークで描いた言葉はまだ残り、

 《学びは、祈りの形を変える》

 という文字が朝日を受けて光っていた。


 村の者たちは、その前に集まり、

 手を合わせる者、見上げる者、震える者――

 それぞれが、自分なりの“信仰”を探していた。


 誰も声を出さなかった。

 だが、その沈黙にはかつての恐れはなかった。

 代わりにあったのは、

 “何かを理解しようとする静けさ”だった。


 神殿の尖塔が遠くに見えた。

 焼け残ったその白い柱の上には、

 神々の象徴だった金の鳥がいまも羽を広げている。


 セリアがそれを見上げ、ぽつりと呟いた。

「神々は……怒らなかった。」

「怒る必要がなくなったんです。」

 アークの声は穏やかだった。


「どうして?」

「怒りは、聞いてもらえない者の声です。

 けれど神々はもう、聞かれることを恐れなくなった。

 だから、沈黙している。」


 セリアは小さく頷いた。

「沈黙は、拒絶じゃないんですね。」

「そう。――たぶん、応答です。」


 そのとき、遠くから馬の蹄の音が響いた。

 砂煙が上がり、十数名の兵が黒い壁のもとへと近づいてくる。

 鎧の胸には、王家の紋章。

 その先頭には、神官長の姿があった。


 セリアは立ち上がる。

 兵たちは黒板を取り囲み、神官長が声を張り上げた。


「アーク! 王が命を下された!

 その黒き板――“沈黙の神々”の証を、封印する!」


 アークは黒板の前に立ち、ゆっくりと振り向いた。

 背中に太陽の光を受け、影が長く伸びる。


「……封印とは、つまり壊すということですか?」

「そうだ。

 神々は沈黙された。

 だが沈黙は赦しではない。

 それは“人を試す”ための沈黙だ!」


 神官長の目には、恐怖と確信が混じっていた。

 黒板が神々の力を奪ったと信じているのだ。


 セリアが一歩前に出た。

「神々が本当に試すつもりなら、

 なぜ何も奪わなかったのですか?」


 兵たちがざわめく。

 アークはセリアの肩に手を置き、微笑んだ。


「彼らは“試す”のではなく、“託した”んです。

 沈黙は、最後の授業です。」


「授業……?」

「言葉を与えず、考えさせる。

 答えを渡さず、問いを残す。

 それが教師の最後の仕事です。」


 神官長は叫んだ。

「黙れ! お前は神を人と同じに語るのか!」

「ええ、語ります。

 神々が沈黙したなら、

 その沈黙を“理解しよう”とすることが――人の祈りだから。」


 兵が動いた。

 槍の穂先が黒板を狙う。

 アークは一歩、前に出た。


 その瞬間、黒板が光った。

 白い粉が宙に浮かび、静電のように風を撫でる。

 兵たちの鎧が鳴り、馬が嘶いた。


 黒板の上に新しい文字が浮かび上がる。


 《問うことを恐れるな》


 兵も神官も、誰一人として動けなかった。

 その光景を見つめながら、セリアが呟いた。

「……黒板が、喋ってる。」


 アークはチョークを掲げ、

 黒板にもう一行を書き足した。


 《沈黙は、答えの前にあるもの》


 黒板が淡く脈打つように光り、

 風が広場を包み込んだ。

 その風の音が、まるで神々の息のようだった。


 神官長は膝をついた。

 炎で焼けた杖が、砂に落ちる。

「……これは……神々の声なのか?」

 アークは首を振った。

「違います。

 これは、神々が残した“問い”です。

 俺たちが答える番なんです。」


 沈黙。

 鳥の鳴き声が一つ響き、

 やがて兵士たちは槍を下ろした。


 セリアは黒板に手を当て、囁いた。

「神々は、いまもここにいる。」

「ええ。」

 アークは微笑んだ。

「姿を変えて、人の中に。」


 その後、神官長は王に使いを送り、

 黒板を“封印するのではなく、見守る”よう進言した。

 恐れではなく、敬意として。


 やがて、王は勅命を下す。

 ――黒の壁を壊すことを禁ず。

 その前で祈り、学ぶことを許す。


 それが後に、「最初の学び舎」と呼ばれる場所の始まりだった。


 夜。

 アークは黒板の前に座り、

 チョークで一つの言葉を書いた。


 《ありがとう》


 その文字が静かに光り、

 やがて黒板に吸い込まれていく。


 風が吹き、星々が瞬く。

 どこか遠くで雷のような低い音が鳴った。

 ――まるで、神々が小さく笑ったように。

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