第5話 星のチョーク

 砂漠の夜は、冷たくて、痛いほど静かだった。

 昼間に焼けた砂が急速に冷え、白い息を吐くだけで肌が切れるようだった。

 アークは焚き火を起こし、そのそばに王女セリアを座らせた。


 彼女の衣は旅装に変わっていた。

 豪奢な王宮の布ではなく、粗末な麻布。

 それでも、その目の奥には王家の光があった。

 神殿での審判ののち、彼女は自ら王の命を破り、アークのもとに同行すると告げた。

 それが“神に背く行為”だと知りながら。


「寒くないですか?」

 アークが問いかける。

 セリアは首を振った。

「冷たさは……生きている証です。」


 その答えに、アークは思わず笑った。

 王女が口にするにはあまりに人間らしい言葉だった。


「ねえ、アーク。」

「なんですか。」

「授業って、あの神殿で見せてくれた円のことだけじゃないんですよね。」

「ええ。円も線も、言葉も、全部“きっかけ”です。」

「きっかけ?」

「学びは、外から与えるものじゃない。

 ――心の中で、自分が“何かを知りたい”と動き出す、その瞬間のことです。」


 セリアは静かに頷いた。

「私、初めて“知りたい”と思いました。

 あなたが砂に描いた“太陽と月”が、どうしてあんなに美しかったのか。」

「それは、あなたが“覚えよう”ではなく、“見よう”としたからです。」


 アークは焚き火の炎を見つめた。

 風に舞う火の粉が、夜空に昇っていく。

 その軌跡が、まるで星座のように見えた。


「……見てください。」

 アークが指さす。

 夜空には、無数の星が瞬いていた。

 砂丘の果てまで広がる銀の海。

 セリアは思わず息を呑んだ。

「こんなに……近かったんですね。」

「ええ。

 神々の住む場所と思われていたけれど、本当は、手が届くところにある。」


 アークは立ち上がり、掌を伸ばす。

 空から一筋の流星が降り、砂の上に白い閃光を描いた。

 風が吹き、ふたりの頬に細かな粉が当たる。


 セリアが驚いて言った。

「……光の粉?」

 アークは砂を掬った。

 掌の上で、それは淡く光を放っていた。

 粒は細かく、白く、まるで冷たい星屑のよう。


「これが……」

「“星の欠片”ですか?」

「いえ、きっと違う。」

 アークはゆっくりと粉をつまみ、近くの岩に指で走らせた。

 すると、白い線が残った。

 火の明かりを受けて淡く光るその線は、夜空の星々と呼応するように輝いた。


「……書ける。」

 アークは呟いた。

 粉をもうひとつ指先にとり、岩に重ねるように描く。

 円、線、そして《+》。


「星の粉が……線になる。」

 セリアはその光景を息を詰めて見つめていた。

 アークは岩の上に立ち、空を仰ぐ。

 星々がひとつ、またひとつと流れる。

 夜空全体がまるで巨大な黒板のように見えた。


「――これが、“チョーク”だ。」

 アークの声が風に乗る。

「神々が拒んだ知を、人が取り戻すための粉。

 星が地に降りて、人に“書く力”を渡した。」


 セリアは掌で粉を掬った。

 冷たく、けれどどこか温かい。

 まるで心の鼓動を写すように、白い光が微かに明滅していた。

「ねえ、アーク。」

「はい。」

「この粉で、もう一度……授業をしてくれませんか。」


 アークは微笑んだ。

「授業は、俺一人のものじゃない。

 さっきあなたが“知りたい”と言った瞬間から、もう始まってます。」


 セリアは少し俯き、粉を岩の上に落とした。

 その粒が跳ねて、淡い光を散らす。

 やがてそれはひとつの形を描いた。


 ――《星》の文字。


「あなたが書いたんです。」

「いいえ……星が、私の指を導きました。」


 アークは静かに頷いた。

「それなら、きっとこれが“正しい授業”だ。」


 夜が更けていく。

 砂漠の彼方で風が鳴き、星の粉が絶えず降り注ぐ。

 ふたりはその光を追って、次の岩へ、次の丘へと歩いた。

 描かれた白い線は、やがて砂丘を越えて繋がり、

 ひとつの大きな円を形づくっていく。


 それは“世界の地図”のようでもあり、

 “未来への道”のようでもあった。


 そしてその夜、

 風が止んだ瞬間、砂の中から微かな音が聞こえた。

 ――カリ、カリ、と。


 まるで黒板にチョークを走らせる音。


 アークとセリアは顔を見合わせた。

 音は大地の奥から続いている。

 誰かが、どこかで、同じように“書いている”――そう思えた。


 アークはそっと目を閉じ、呟いた。

「……星々が授業を始めた。」


 セリアは微笑んだ。

「なら、私たちも続けましょう。

 この世界が、眠ってしまわないように。」


 砂漠の夜明け。

 空が白み始め、星が一つ、また一つと消えていく。

 そのたびに、地面の上で白い粉がきらめいた。

 まるで、星々が人の足跡に宿っていくかのように。


 アークは立ち止まり、掌に残った粉を見つめた。

 その白は柔らかく、確かに生きていた。


「――これは、星が人に託したチョーク。

 神々の授業は終わった。

 これからは、俺たちの授業が始まる。」


 そう言って、彼はチョークの欠片を掲げた。

 朝日の光がそれに反射し、砂漠の地平線を照らした。

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